5. お誘い
現在はまだ魔法学院は始まっていない。始業は9月1日で、それまではまだ入学扱いになっていない新入生は、学院設備を使えなかった。寮設備以外は。
そして寮設備は大きく3つに別れている。王侯貴族用、この場合の貴族は上位貴族という意味だ。そして下位貴族用。最後に平民用だ。三つの階級は共用部分も分かれている。だから平民のマーガレットが食堂で王子様に出会う事など無い。
それは良い。機会があれば身分違いの友人とお話しするのは良い。でも、それ以上の関係になれるとは思えない。遊びで付き合われるのも嫌だ。だから王子様と頻繁に会わないのは悪い事じゃない。
私はトラキアという国から初期費用の支給を受けている。だから寮の購買部で日用品をいくらか揃えて、始業に備えている。洗濯板で洗濯をするのも母の存命時からの私の仕事だから、毎日の洗濯も苦痛では無い。食事は食堂で出るからその分が楽かもしれない。
毎日の生活の雑事をこなしながら学業を進めるのは少し大変かもしれない。肝心の魔法は多分復習に過ぎないし、それ以外の知識など使うかどうか分からない。
それでもここに来たのは、『家』について調べる為だ。母は『私の家はもう無い』と言っていた。私にはその経緯を教えてくれなかった。
『せっかく家の呪いから離れられたのだから、このまま知らずに済ました方が良い』
そう言っていた。
でも、何故母が家を出て貧乏暮らしをしていたのか、私は知りたい。知った上で距離を取るべきならそのまま離れれば良い。
そんな調べものもしたいのだけれど、学院の図書室は使えない。家名は本当の秘術を使う時に言わねばならないから教えて貰っている。でも、その家名を出して良いものなのか分からない。
例えば、母と私はトラキアで暮らしていた。もし家から逃げて来たなら、家と接触するのは危険だ。
もう一つ、その家はもう無くなったと母は言っている。文字通りに取ると、滅んだのかもしれない。そうなると、滅ぼした者に知られてはいけない家名なのかもしれない。
そして、トラキアに逃げて来た、と考えると、滅ぼした者は隣国ミケーネかもしれない。だから、この事をゼファー王子に告げる事は危険かもしれない。
はぁ、と息を吐く。せっかく知り合った人はそもそも身分違いで知人以上に近づく事は出来ない。その人は母が生まれた『家』の敵かもしれない。やはり友人は学院が始まってから、同じ平民のクラスの中から作ろう。
まだ暇がある。一度外に出て、雑貨屋と古着屋を見ておいた方が良いかもしれない。そう思って平民寮エリアを出ると、春風が吹いて来た。木の陰から現われたのは、ミケーネ王国のゼファー王子だった。
「朝は早かったのだから、昼寝をしないで良いのか?」
「貧乏暇なしなのです」
「何か買い物でも?」
「買う前に、一度市場調査をしようと」
「それは良い心がけだ。付き合おう」
「…その、王子様の行かれる様なお店ではなくて…」
「ああ、女性が気にする様な店なら、従者のケライノーだけ付いて行かせるから安心してくれ」
「その、古着屋を見ておきたくて」
「ああ、こう見えて偽装する服をよく古着屋で買うんだ。私も是非見ておきたい」
…これ、ジョーク?
平民街の店外販売で買った小麦焼き菓子と安いお茶のセットをゼファー王子が私にも振舞ってくれた。ありがたいけど…
「リプス、この近辺の店の説明をしてくれ」
「はい。この商店街は食堂、食料品売り場が多いです。一本向こうが服飾店と道具屋が並んでいます。古着屋はそこから一本入った横道に多い様です」
「そのあたり、マーガレットは知っていたか?」
「いえ、知りませんでした。参考になります」
「ちなみに、女性が入ってはいけない危険地帯はどうなっている?」
リプスと呼ばれた男性従者が答えた。
「南に交差している大通りより向こうは夜の繁華街です。そちらは行かれない方がよろしいでしょう」
「だ、そうだ。覚えておいてくれ」
「ありがとうございます」
と、話をしていた時に、もう100ft以上離れている運河をイルカのレレ…ガブリエーレが南下してくる。私の瞳孔に何か反応があったのか、ゼファー王子が私を見て、瞳で促す。
「あの、イルカのレレが運河を泳いできている様です」
「うん。急ぎの用かもしれない、行った方が良いな」
私達は学院の南側の外壁の横を通って運河に急いだ。堤防から運河を見ると、レレが水面から顔を出していた。私の顔を見ると、水面上に出した上体を左右に激しく振った。
「きゅーっ」
「何、どうかしたの?」
「急ぎなのだろう」
レレは頭を激しく上下させた。そのまま方向を北に変え、泳いで行った。
「付いて行こう。何とかして欲しい様だ」
「何とかって…まあ良いです。行きましょう」




