2. 春風の王子
ぶくぶく…水の中で、私はぐるぐる回っている。
息が苦しい訳でもない。不思議な感覚だ。薄く光る水面が見えたかと思うと、壁が見える。壁かと思うと水底かもしれない。
ぐるぐる回るとまた薄明るい水面が見える。そして、私は思うんだ。
『おいで…会いたい』
私は起き上がった。つまり、寝ていたんだ。左右を見渡すと、見覚えのない部屋だった。目を瞬くと、ようやく頭が回って来た。ああ、昨日から魔法学院の寮に入寮したんだった。
背中が汗をかいていた。水の夢を見たからじゃない。
夢?
違う!あれは魔法で何かを伝えたんだ。
私は居ても立っても居られなくなり、寝間着から普段着に着替え、部屋を出た。運河…そうだ、そっちの方から波の音が聞こえる…気がする。
魔法学院は神聖魔法学院である。つまり、宗教性を持つ学校なんだ。だから、日の出から神に祈る敬虔な学生の為に、日の出少し前には入出寮が許可されている。平民女子寮の門番に会釈をして通路を歩く。すると、春風が吹いて来た。
魔法学院の新学年の開始は9月であり、今は8月末だ。それなのに春風とはおかしく思われるだろう。でも、『彼』なら当たり前の事だろう。
私は初春の冷たい風を感じる方向に目をやる。すると、木々に隠された小道を歩いてきた金髪碧眼の男子と視線があう。
今朝の彼は視線が合うと、少し目を細めて言った。
「おはよう。早いな」
「おはようございます。ゼファー殿下」
私はぺこりと頭を下げる。
「挨拶の時に頭を下げるくらいは礼儀としてありだが、殿下は無しだ。我々はもう友人のつもりだからな」
そう、昨晩に私達は会っているんだ。平民寮用の食堂から部屋に戻る時、やはり春風を感じて道をそれると、彼、春の国と称されるミケーネ王国の第一王子であるゼファー殿下が歩いて来たんだ。
薄暗がりでもはっきり分かる高貴な顔立ち、整髪料でしっかり整えられた金髪、そして見るからに上等な布を使った服。彼は少し目を見開いていた。
あ、不味いと思ってすぐ腰を折った。
「すみません!高貴な方がいらっしゃるとは思わず、不躾に見つめてしまいました!」
しかし、彼の言葉は柔らかだった。
「構わない。庶民と王侯貴族が同じ学院に通うのだから、こういう事もあるだろう。頭を上げてくれ」
私は薄い金髪にやはり薄い青…というより緑に近い目の色をしているが、何せ衣服が平民服だ。貴族でない事は明らかだった。
私は頭を上げて言った。
「ありがとうございます。次からは注意します」
「他の王侯貴族にはそうした方が良かろうが、私には構わない。私はミケーネ王国の第一王子のゼファーだ。良ければ君の名前を聞かせてくれ」
「お許しいただき、ありがとうございます。トラキア諸侯国から留学する事になった新入生のマーガレットです」
ミケーネ王国は4大国の一つと言われる国だ。対してトラキアはそもそも分権国家だ。国としての格が少し低い。
「そう固くなるな。せっかく外国の人と知り合えたのだから、友人として親しくして欲しい。私の事はゼファーと呼んでくれ」
そう言われても…彼の後ろには男女一人ずつの従者がついて来ている。私達と同年代に見える二人。
男性の従者は如何にも貴族らしい金髪碧眼。風景の中の一つの物として私を見ている気がする。貴族から見て平民なんてそんなもんだ。
そして黒髪に濃い色の目の女性の従者は…何となく視線は合わせない様に私の周辺をぼうっと見ている様に見えるが…微妙にプレッシャーを感じる。殿下に近づく羽虫を嫌っているのだろう。
「その、ゼファー様のお許しをいただき身に余る光栄なのですが…平民があまり親しくするのも問題なのではないでしょうか」
ゼファー王子は少しだけ目を細めて言った。
「構わない。トラキアとは友好関係にある。そこからの留学生なら、いざと言う時には力になるつもりだ。学院生活で問題があれば相談して欲しい」
そこまで言う?まあ、この人から悪い気配は感じられない。一方、微妙に表情が固い。そして、後ろの二人は瞳を細めた。ええ、分かっておりますとも!
「ありがとうございます。ゼファー様のお時間のある時に、お話しする事がありましたらお聞きいただきたいと思います。今日はお時間をいただきありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げて私は元来た道を引き返した。
マーガレットが去った後、ゼファー王子は従者を振り返り言った。
「私の交友関係を悪化させる事は止めて欲しいな」
「初見で背後関係も分からない者にあまり近づかれない様にお願いします」
男の従者、リプスは言った。
他方、女の従者ケライノーも言った。
「失礼ながら、殿下が魔法学院で女たらしをお気どりになるおつもりとは思いませんでした」
「誤解だ」




