第二十六話 「春、働きます」
月日は流れ。
ぼたんは中学校を卒業した。
制服姿のぼたんは、
もう小さな女の子ではなかった。
背も伸びて、
話し方も少し大人びている。
でも。
卒業式の日。
平屋へ帰って最初に言った言葉は、昔と同じだった。
「ただいま、ばあちゃん」
返事はない。
だけどぼたんは、少し笑った。
祭壇の写真の中で、
ハルが優しく笑っている。
ぼたんは卒業証書を見せる。
「卒業したよ」
「ちゃんと最後まで頑張った」
少し沈黙。
それから、小さく呟く。
「……見ててくれた?」
春風が吹く。
庭の牡丹が揺れた。
ぼたんは高校へは進まず、働くことを決めていた。
町の小さなお弁当屋。
朝早い仕事。
でも、店主のおばちゃんは優しい人だった。
「無理しなくていいからねぇ」
「はい!」
ぼたんは深く頭を下げる。
早朝五時。
眠い目をこすりながら起きる。
ご飯を炊く。
味噌汁を作る。
店へ向かう。
忙しい毎日だった。
唐揚げを揚げて。
おにぎりを握って。
レジをして。
失敗して怒られて。
それでもぼたんは、一生懸命働いた。
ある日の昼休み。
店主のおばちゃんが言った。
「ぼたんちゃんの卵焼き、優しい味するねぇ」
ぼたんは少し驚く。
「……そうですか?」
「うん」
「食べると、ほっとする味」
その瞬間。
ぼたんの胸に、ハルの顔が浮かんだ。
昔、何度も一緒に作った卵焼き。
“つらい日は、甘い卵焼き”
ノートの言葉。
ぼたんは少し笑った。
「……ばあちゃんの味なんです」
夕方。
仕事を終えて帰る道。
空はオレンジ色だった。
疲れている。
手も少し痛い。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
平屋へ帰る。
「ただいま」
静かな家。
だけど今は、少し違った。
寂しいだけじゃない。
この家には、
ちゃんとハルが残っている。
台所にも。
縁側にも。
ぼたんの生き方の中にも。
夜。
ぼたんは一人でご飯を食べながら、小さく笑った。
「……ぼたん、働いてるよ」
「ちゃんと生きてる」
窓の外では、春の風。
どこか遠くで、優しく「おかえり」と聞こえた気がした。




