第十一話 「ないしょの入院」
ある日の朝。
ハルはいつもより長く咳をしていた。
「ごほっ……ごほっ……!」
台所の流しにつかまりながら、
苦しそうに息を整える。
その手には、赤いものが少しだけ付いていた。
ハルは静かに水で流す。
「……まだ、ぼたんには言えないねぇ」
鏡の中の自分は、
前よりずっと痩せて見えた。
病院の先生には、もう言われていた。
――入院が必要です。
――無理を続けると危険ですよ。
でもハルは、すぐには頷けなかった。
ぼたんを一人にしたくなかったから。
その日の夕方。
近所の佐々木夫婦が家へ来ていた。
昔から世話好きな、優しい夫婦だ。
「ぼたんちゃん、一週間うちにおいで」
「えっ?」
ぼたんは目を丸くした。
「なんで?」
ハルは笑顔を作る。
「ばあちゃんねぇ、ちょっと町の用事で出かけるんだよ」
「りょこう?」
「そんな大したもんじゃないさ」
ぼたんは少し不満そうだった。
「ぼたんもいく」
その言葉に、ハルの胸が痛む。
でも。
「ごめんねぇ」
「すぐ帰ってくるから」
ぼたんは俯いた。
その夜。
布団の中で、ぼたんはハルの服を握る。
「……ほんとにかえる?」
小さな声。
ハルは優しく抱きしめた。
「帰るよ」
「約束する」
ぼたんは安心したように眠っていった。
だけど。
眠ったあと。
ハルは静かに涙を流した。
「……ごめんねぇ」
次の日。
ぼたんは佐々木夫婦の家へ預けられた。
「いってきます……」
元気のない声。
何度も振り返るぼたんに、
ハルは笑顔で手を振り続けた。
姿が見えなくなるまで。
そしてそのあと。
ハルは一人で病院へ向かった。
小さなバッグ。
少ない荷物。
診察室で先生が言う。
「もっと早く来るべきでした」
ハルは苦笑いした。
「やることがあったんですよぉ」
病室の窓から空が見える。
夕焼けだった。
その頃。
佐々木家では、ぼたんが夕飯をほとんど食べずに座っていた。
「どうしたの?」
「……ばあちゃん、さみしくないかな」
佐々木のおばちゃんは優しく笑う。
「大丈夫よ」
でも。
ぼたんは気づいていた。
あの朝の咳。
苦しそうな顔。
無理して笑っていたこと。
夜。
知らない布団の中。
ぼたんは小さく呟いた。
「……ばあちゃん」
窓の外では、静かな雨が降っていた。




