第30話 海外出張ですわ!
第三演算室。
学術院地下深度、第六層。
そこは既に“研究施設”というより、半ば儀式場に近かった。
幾何学的に重なる超大型演算陣。
床面全域へ刻まれた多重位相固定式。
天井を覆う魔素伝導結晶。
中央では、巨大な空間観測球体が淡く脈動している。
研究員達が慌ただしく走り回る中、メリーは静かに中央演算域へ立った。
その瞬間。
空気が変質する。
魔素が従属する。
まるで世界そのものが、彼女を中心に再編成され始めるようだった。
「現地座標固定率六十一%!」
「侵食速度増大中!」
「位相断裂発生!」
怒号のように飛び交う報告。
だがメリーは微動だにしない。
赤い瞳だけが、空間投影された現地情報を静かに見つめていた。
旧ロシア領北部。
非認可研究施設。
地下深度不明。
観測される魔素反応は既に災害級。
だが本当に危険なのは出力ではない。
「……位相構造が崩壊していますわね」
メリーが小さく呟く。
研究員達が息を呑んだ。
「人間へ無理やり魔素適性を拡張した結果、肉体と精神構造が耐えきれなかったのでしょう。循環器官が自壊し、外部魔素と内部位相が融解しかけていますわ」
淡々とした分析。
だがその内容は凄惨だった。
魔素とは本来、段階的に馴染ませるものだ。
循環。
適応。
定着。
人類はまだ、その途中段階にいる。
だからメリーは教育を急いでいた。
理論を広めていた。
なのに。
「……またショートカットを選びましたのね、人類は」
静かな声だった。
怒りとも違う。
諦めに近い響き。
異世界でも、同じだったからだ。
力を急ぎ。
結果だけを求め。
壊れる。
いつだってそうだった。
「メリー様、転移座標固定完了します」
「ご苦労」
メリーは静かに手を上げる。
瞬間。
周囲術式が一斉起動。
空間へ幾重もの演算式が展開された。
座標圧縮。
位相固定。
空間断層接続。
通常なら国家規模設備を必要とする超高位転移術式。
それを。
彼女は一人で制御していた。
研究員達の視線が思わず釘付けになる。
美しい。
それは戦闘というより、“演算芸術”だった。
赤い魔力光が、縦ロールの髪を淡く照らす。
ドレスと軍装を融合した戦装束が揺れる。
優雅ですらある。
だが。
同時に圧倒的だった。
理解できない。
何をどう制御しているのか、人類側では既に追跡不能。
ただ分かるのは。
この人だけ、いる場所が違うということ。
「術式接続」
メリーが指先を動かす。
空間が、軋む。
だが崩れない。
周囲への余波すら完全制御されていた。
どれほど精密な演算を行っているのか、研究員達には想像もつかない。
「現地魔素汚染確認。侵食半径拡大中」
「予測被害は?」
「周辺集落まで到達した場合、最低推定四万人」
「……間に合いますわね」
その言葉に。
瀬波が少しだけ眉を寄せた。
間に合う。
彼女はそう言った。
つまり逆に言えば、“間に合わない可能性”まで演算済みなのだ。
いつもそうだ。
メリーは希望だけを見ない。
最悪を計算する。
その上で、最善を押し通す。
「瀬波」
「はい」
「現地探索者協会支部へ通達。半径二十キロ圏を封鎖。新人探索者の投入は禁止ですわ」
「了解」
「第一陣は地方上位探索者のみ。位相汚染耐性の低い者は近付けてはいけません」
「分かりました」
研究員達が慌ただしく動き出す。
学術院だけではない。
今や探索者協会全国支部網もまた、メリーの理論体系を基盤に動いている。
北海道支部。
欧州連携支部。
北米共同戦線。
アジア圏探索者連盟。
世界は少しずつ繋がり始めていた。
もちろん問題だらけだ。
政治。
利権。
軍事利用。
魔素犯罪。
対立も山ほどある。
それでも。
以前より遥かにマシだった。
少なくとも今は、“誰かが理論を共有している”。
異世界では間に合わなかったもの。
それが今、この世界にはある。
「……本当に」
メリーは小さく息を吐いた。
「忙しい時代ですこと」
ぼやくように言う。
だがその横顔は、どこか疲れていた。
数百年分の孤独。
終わらない責任。
世界規模の危機。
それら全部を背負いながら。
彼女はまだ、“普通に生きたい”と思っている。
だからこそ。
ふと。
脳裏へ、先ほどの声が蘇る。
『ちゃんと暖かくして寝るんだよー』
たったそれだけの言葉。
戦術価値ゼロ。
世界は救えない。
なのに。
その言葉だけが、不思議と胸へ残る。
「…………」
「メリー様?」
「いえ」
メリーは静かに笑った。
ほんの少しだけ。
柔らかく。
「帰ったら、アーカイブがありますわねと思いまして」
「現実逃避しないでください」
「してませんわ。精神安定ですわ」
瀬波は深く息を吐いた。
だが。
少しだけ安心もしていた。
この人は、放っておくと本当に壊れる。
責任だけで生き続けてしまう。
だから。
誰かの配信を見て笑っているくらいで、ちょうどいいのかもしれない。
「では」
メリーが前を向く。
その瞬間。
空気が変わった。
優雅なお嬢様ではない。
世界最強。
赤き魔王。
人類最高戦力。
演算陣が轟音のように脈動する。
魔素が震える。
空間が裂ける。
そして。
赤い瞳が静かに細められた。
「人類の尻拭いへ行ってまいりますわ」
転移光が消えた瞬間。
空気そのものが軋んでいた。
旧ロシア領北部。
氷雪地帯。
だが本来白銀であるはずの景色は、現在ほとんど黒く染まっている。
魔素侵食。
空間位相の汚染。
地表を走る赤黒い亀裂。
崩壊した研究施設。
そして。
周囲へ漂う、“人だったもの”の残滓。
「…………」
メリーは静かに周囲を見渡した。
吹雪すら歪んでいる。
大気中魔素濃度が異常域へ到達していた。
通常人類なら、この場へ立つだけで循環器官が焼ける。
「位相崩壊率三十八%……想定より進行が早いですわね」
淡々と分析する。
同時に。
彼女の周囲へ複数の演算式が自動展開された。
外部魔素遮断。
侵食干渉分離。
空間安定化。
多重循環保護。
それら全てを、ほぼ無意識で並列制御している。
普通なら、一つでも国家級術者案件だった。
その時。
遠方から爆発音。
メリーの視線が向く。
現地探索者協会支部。
先行投入された欧州側上位探索者部隊が交戦していた。
『こちら第七班! 侵食個体を確認! くっ――位相干渉が!?』
『術式が安定しない!』
『後退! 一度距離を――』
通信が乱れる。
次の瞬間。
雪原の一角が、巨大な“何か”によって抉り飛ばされた。
黒い。
いや。
黒というより、“空間が腐っている”。
そんな表現の方が近かった。
巨大な肉塊。
膨張した魔素器官。
無数の腕。
歪んだ顔。
人型の名残が逆におぞましい。
強制適性拡張実験の成れの果て。
人間が、人間のまま壊れたもの。
「……あら」
メリーの赤い瞳が細められる。
「まだ自我が残っていますの」
怪物が笑った。
いや。
笑っているように見えた。
崩れた顔面。
裂けた喉。
そこから漏れるのは、もはや言語ですらない。
それでも。
“助けて”と叫んでいるように聞こえた。
現地探索者達が凍り付く。
経験豊富な上位探索者ですら、僅かに恐怖を滲ませる。
それほど異常だった。
存在そのものが、人類の理解から外れている。
「メリー様!」
通信越しに現地支部長が叫ぶ。
『危険です! 位相侵食が通常個体と違う! 術式へ干渉してきます!』
「見れば分かりますわ」
メリーは前へ出た。
雪を踏む。
それだけで周囲空間の揺らぎが収束する。
怪物が咆哮した。
直後。
周囲数百メートルの空間が歪む。
侵食波動。
通常術者なら精神ごと崩壊する高密度魔素汚染。
だが。
メリーは止まらない。
「第一階層術式展開」
静かな声。
瞬間。
赤い演算式が雪原全域へ広がった。
空気が変わる。
いや。
世界そのものの法則が、一時的に書き換えられる。
『――――!?』
現地探索者達が息を呑む。
侵食が止まった。
空間歪曲が凍結された。
狂乱していた魔素流動が、一瞬で制圧される。
「広域位相固定……?」
『馬鹿な、一人で!?』
『こんなの戦略級どころじゃ――』
違う。
そもそも次元が違う。
メリーは淡々と歩き続ける。
怪物が暴れる。
巨大な腕が振り下ろされる。
空間そのものを砕く侵食攻撃。
だが。
メリーは指先を少し動かしただけだった。
「座標分離」
直後。
怪物の腕が、“そこに届かなくなる”。
空間位相を数センチ単位でずらした。
ただそれだけ。
しかしその精度が異常だった。
位相制御とは本来、国家級演算設備を用いてようやく数メートル規模で扱うもの。
彼女はそれを、生身で、戦闘中に、リアルタイム演算している。
現地探索者達の背筋へ冷たいものが走る。
これが。
世界最強。
メリー・アストレア。
人類が到達してしまった、理論の怪物。
「さて」
メリーは怪物を見上げた。
赤い瞳。
そこに浮かぶのは怒りではない。
むしろ。
ほんの少しの哀れみだった。
「貴方も、急ぎすぎましたのね」
異世界でも何度も見た。
力を求めた末路。
壊れた人間。
滅びへ近付いた文明。
だから。
彼女は知っている。
これは“敵”ではない。
人類の失敗だ。
「終わらせますわ」
メリーが静かに右手を掲げる。
瞬間。
世界が赤く染まった。
超高密度演算展開。
多重術式圧縮。
空間座標固定。
魔素収束率急上昇。
観測していた現地支部術者達が青ざめる。
『待て、出力がおかしい!』
『周辺ごと消し飛ぶぞ!?』
『退避――!』
だが。
次の瞬間。
彼らは理解できない光景を見る。
膨大な魔力。
災害級出力。
それだけの術式であるにも関わらず。
周辺地形へ、一切影響が出ていない。
出力が。
完全制御されている。
「……綺麗」
誰かが思わず呟いた。
赤い光が雪原を照らす。
吹雪が舞う。
その中央で。
メリーだけが静かに立っていた。
まるで。
終焉そのもののように。
「第二十三式、限定位相焼却術式」
怪物が叫ぶ。
だが。
もう遅い。
「――《紅蓮封理》」
静かだった。
本当に静かに。
怪物だけが消えた。
爆発もない。
衝撃もない。
ただ。
存在そのものが、“理論的に焼却”された。
後には、静かな雪原だけが残る。
現地探索者達が言葉を失う。
誰も動けない。
理解が追いつかない。
戦闘というより。
神話だった。
そして。
メリーは小さく息を吐く。
疲労。
ほんの僅か。
だが確かにある。
位相崩壊領域での広域固定は、流石の彼女でも負荷が大きい。
「……さて」
彼女は空を見上げた。
雪が降っている。
静かな夜。
その時ふと。
脳裏へ、配信の続きを思い出す。
『みんな、ちゃんと寝るんだよー』
「…………」
メリーは少しだけ目を閉じた。
帰ったら。
アーカイブを見ながら紅茶でも飲もう。
そんなことを考えている自分へ。
少しだけ驚いていた。




