第29話 魔術いろいろですわ
その日の夜。
アストレア魔導学術院、第七演算研究区画。
深夜零時を回っているにも関わらず、施設内には未だ灯りが残っていた。
巨大な演算補助陣。
多層術式投影。
魔素循環観測装置。
研究員達は端末へ向かい、地方支部から送られてくる戦闘ログ解析を続けている。
「東北第三支部、術式収束率改善しました!」
「関西第二、循環負荷低下確認!」
「九州側、新人班の連携速度上がってます!」
以前なら考えられなかった光景だった。
魔法。
かつては才能と感覚へ依存していた未知の力。
それをメリーは、“学問”へ引きずり下ろした。
魔素循環理論。
術式構築工学。
位相制御学。
演算補助理論。
体系化。
標準化。
教育化。
その結果。
世界は少しずつ変わり始めている。
完全な天才でなくとも。
努力によって一定水準へ到達できる時代。
それは、人類にとって革命だった。
もっとも。
「メリー様、地方支部から“初級多重演算講義が難しすぎる”との意見が……」
「なぜですの?」
「一般人だからです」
「……あっ」
なお根本的な感覚ズレはまだ治っていない。
橘は静かに額を押さえた。
最近ようやく理解した。
この人、“出来て当然”の基準が完全に壊れている。
メリー本人は真面目なのだ。
本気で“初歩”だと思っている。
だがその初歩が、普通の術者にとっては大学院レベルを軽く超えていた。
「初級循環制御だけで十分です。新人層へ多重演算はまだ早いかと」
「ですが最低三層制御程度は」
「人類基準でお願いします」
「難しいですわね……」
本気で悩み始めた。
世界最強が教育現場で苦戦している。
しかも割と真剣に。
瀬波はその光景を横目に、別資料へ視線を落とした。
探索者協会月次報告。
登録探索者数。
支部増設状況。
ダンジョン攻略進捗。
死傷率。
魔素汚染推移。
そして。
違法魔素犯罪件数。
彼の表情が少し曇る。
「……増えてますね」
ぽつりと。
その声に、室内の空気が少し変わった。
メリーもすぐ理解する。
「違法研究ですの?」
「ええ」
瀬波が資料を投影する。
海外地下組織。
非認可魔素投与実験。
強制適性拡張。
人体改造。
そして。
軍事転用。
「各国とも表向きは協調姿勢ですが、水面下ではかなり危険です。特に“メリー様級戦力の再現”を狙っている動きが多い」
当然だった。
新宿戦。
あれを見せられて、各国が何も考えないはずがない。
超広域殲滅。
精密位相制御。
国家級災害への単独対応。
あまりにも規格外。
だから皆、欲しがる。
同じ力を。
同じ怪物を。
だが。
「不可能ですわね」
メリーは即答した。
「少なくとも現代技術では」
静かな声だった。
感情ではなく、純粋な理論として断言している。
「魔素適性だけでは意味がありませんわ。必要なのは演算能力、循環耐性、精神構造、位相認識精度……何より、“崩壊へ耐えた経験”ですもの」
その最後だけ。
ほんの少し空気が冷えた。
瀬波は何も言わない。
橘も。
異世界。
滅び。
魔王。
サロメリア。
メリーは詳しく語らない。
だが時折、こうして滲む。
人類最強の根幹には、どうしようもない喪失が沈んでいる。
だからこそ。
彼女は育てるのだ。
同じ結末を繰り返さないために。
「……まあ、だからこそ急ぐ必要がありますわね」
メリーは空気を切り替えるように紅茶を飲んだ。
優雅な所作。
だがその裏で、彼女の脳内では膨大な演算が動いている。
国内支部配置。
講師不足。
地方魔素濃度。
新人死亡率。
ダンジョン発生予測。
国家間均衡。
全て同時処理。
それでも。
彼女は平然と紅茶を飲む。
化け物だった。
「探索者協会と学術院の共同カリキュラム、第二段階へ移行しますわ」
「第二段階、ですか」
「ええ。戦闘技術だけでは限界がありますもの」
メリーは立ち上がる。
赤い髪が揺れた。
窓の外。
夜の東京。
その地下にも、小規模ダンジョンが点在している。
世界は変わってしまった。
もう元には戻らない。
だから適応するしかない。
「今後は“生活魔術”も普及させます」
「生活魔術?」
「簡易循環補助、低出力保温術式、身体負荷軽減、環境適応……戦うためだけではありませんわ。魔素は本来、もっと生活へ溶け込めるものです」
研究員達が少しざわつく。
戦闘。
討伐。
災害対策。
皆、そこばかり見ていた。
だがメリーは違う。
彼女は、“文明”を見ている。
「人類はこれから魔素と共存します。ならば必要なのは兵器ではなく文化ですわ」
静かな言葉だった。
だが。
その言葉へ、研究員達は少し息を呑む。
この人は。
本当に未来を作ろうとしている。
単なる対処療法ではない。
世界そのものの形を変えようとしている。
その時だった。
研究区画端末の一つから、小さな声が漏れた。
「あっ」
若手研究員が固まる。
「どうしましたの?」
「い、いえ、その……」
「報告なさい」
「フィーネさん、配信始まりました」
「――――」
空気が止まった。
数秒。
完全沈黙。
そして。
「……本日の会議はここまでですわね」
「露骨すぎません?」
「休息も重要でしてよ?」
「さっき文明の未来を語ってた人とは思えない切り替えですね」
だが。
メリーは既にタブレットを起動していた。
早い。
恐ろしく早い。
研究員達がなんとも言えない顔をする中、画面には配信待機画面が映る。
『深夜まったり雑談』
ゆるいフォント。
眠そうなBGM。
そして。
開始数秒前から既にコメント欄が流れていた。
『来た』
『今日も助かる』
『寝る前フィーネ』
『なんか今日緊張してそう』
『メリー様見てる?』
「見てますわ」
「コメントしないでくださいね?」
瀬波が即座に釘を刺した。
メリーは真顔で視線を逸らす。
「……してませんわよ?」
「今しようとしてましたね?」
「バレましたわ」
世界最強。
現在、推し配信待機中である。
配信開始。
『こんフィネ~……』
少し眠たげな声が、研究区画へ静かに流れた。
途端。
室内の空気が微妙に変わる。
つい先ほどまで国家規模の魔素文明について議論していた研究員達が、なぜか少しだけ肩の力を抜いた。
理由は分からない。
だがフィーネの配信には、妙な“空気の緩さ”があった。
『えー……今日はちょっと雑談メインで……』
画面の向こう。
淡い銀髪のアバターが少しだけ視線を逸らす。
コメント欄が即座に反応した。
『緊張してる?』
『例の件?』
『世界最強案件』
『メリー様の件か!?』
『生きて帰ってきてね』
「風評被害がすごいですわね?」
「普段の行動を見直してください」
瀬波は即答した。
メリーは不服そうに紅茶を飲む。
なお、既に研究区画内の大型投影モニターへ配信画面が映されていた。
誰が繋いだのかは不明である。
たぶん研究員達。
最近この学術院、“フィーネ視聴文化”が妙に浸透し始めていた。
『えっと……その……』
フィーネが咳払いする。
コメント欄の流れが少しだけ落ち着いた。
『あのですね』
『はい』
『正座待機』
『なんですか』
『まさか』
『本当に来ました』
コメント欄爆速。
『草』
『草草草』
『本物だった』
『うおおおおお』
『メリー様実在』
『CGじゃなかった』
「なんでまだCG説残ってますの!?」
「半分ネタ文化です」
瀬波は慣れた顔で答えた。
一方、フィーネは完全に困った顔をしていた。
『いやほんとに……なんで私なんですか……?』
それは、多分。
誰よりメリー本人が一番答えられない問いだった。
研究区画の端。
赤い瞳が、静かに画面を見つめている。
世界最強。
人類最高戦力。
国家ですら無視できない存在。
そんな怪物が今、たった一人の配信者の声を聞いて少し安心している。
その光景はどこか奇妙で。
少しだけ切なかった。
『しかもめちゃくちゃ丁寧なメールで……』
『圧は?』
『命令されなかった?』
『契約しろとか』
『むしろ普通だった……』
コメント欄がざわつく。
『えっ』
『逆に怖い』
『礼儀正しいメリー様』
『解釈一致』
『お嬢様だからな』
メリーは少しだけ胸を張った。
「当然ですわ」
「そこ誇るんですね」
「礼節は大事ですもの」
だが。
フィーネはそこで少し困ったように笑う。
『……でも、ちょっと安心しました』
その言葉に。
メリーの指先が、ぴたりと止まった。
『なんかもっと……怖い人かと思ってたから』
悪意はない。
本当に率直な感想なのだろう。
だが。
研究区画の空気が少し静まる。
誰もが知っている。
メリー・アストレアが恐れられていることを。
救世主。
英雄。
怪物。
世界最強。
称賛と同じだけ、畏怖されている。
国家すら彼女を警戒している。
それは仕方のないことだ。
力とは、そういうものだから。
けれど。
『配信見てくれてたんだなぁって思ったら、ちょっと普通の人っぽくて』
その瞬間。
メリーが静かに目を伏せた。
ほんの少しだけ。
肩から力が抜ける。
普通。
その言葉は。
今の彼女にとって、あまりにも遠いものだった。
異世界で“サロメリア”になってから。
滅びを経験してから。
世界最強になってから。
誰も、彼女へそんな言葉を向けなくなった。
怪物。
兵器。
救世主。
魔王。
皆、そう呼ぶ。
だから。
画面の向こうで、何気なく。
“普通の人っぽい”と笑ったその声が。
胸へ、少しだけ刺さった。
「……困りますわね」
メリーは小さく呟いた。
「はい?」
「いえ」
瀬波へは答えない。
代わりに紅茶を飲む。
だが。
その横顔は少しだけ柔らかかった。
その時。
研究区画端末の一つへ、緊急通知が入る。
空気が変わった。
今度こそ、本物の緊急案件。
橘が即座に情報を開く。
「……海外です」
「場所は?」
「旧ロシア領北部。未認可魔素研究施設」
室内の空気が冷える。
投影された映像。
崩壊した研究区画。
暴走した魔素反応。
歪んだ肉体。
そして。
空間位相そのものが軋んでいる。
「……人体適性強制拡張実験ですわね」
メリーの声から温度が消えた。
「失敗したか」
「はい。現地探索者部隊壊滅。周辺集落への侵食開始」
静かに。
研究員達の表情が強張る。
最近増えている。
違法魔素研究。
メリー級戦力を求めた模倣。
だが当然、そんなものは再現できない。
結果だけを真似れば、人間は壊れる。
肉体も。
精神も。
位相構造も。
「……瀬波」
「はい」
「第三演算室を開放。現地空間座標を固定します」
「転移なさるんですか」
「侵食拡大前に焼却しますわ」
静かな声。
感情はない。
だが。
フィーネ配信を見ていた時とは、空気が全く違った。
圧力。
威圧感。
存在そのものが周囲空間を書き換え始める。
研究員達ですら、僅かに息を呑む。
これが。
メリー・アストレア。
世界最強。
人類最高到達点。
怪物。
それでも。
転移準備へ向かう直前。
メリーはふと足を止めた。
視線だけを、配信画面へ向ける。
画面の向こうでは、フィーネがコメント欄と他愛もない会話をしていた。
『最近ほんと寒暖差すごいからねぇ』
『みんなちゃんと暖かくして寝るんだよー』
たったそれだけ。
世界を救う言葉ではない。
誰かを導く理論でもない。
けれど。
メリーは少しだけ目を細める。
「……行ってきますわ」
誰へ向けた言葉だったのか。
それは本人にも分からなかった。




