第27話 ご依頼、申し上げますわ
アストレア魔導学術院本館、第三管理棟最上階。
元は国際会議用として建造されたはずのその執務室は、現在では完全に“怪物の巣”と化していた。
壁面全域を覆う多重術式投影スクリーン。世界各地の魔素濃度推移。新規ゲート反応。各国軍の魔導兵装開発状況。学術院研究部から送られてくる実験ログ。探索者協会本部からの緊急報告書。
そして。
その中央に積み上がる紙の山。
「……瀬波」
「はい」
「わたくし、世界を救うより書類の方が難しい気がしてまいりましたわ」
「世界を救う人が全員そこを通ります」
「嫌すぎますわね、その登竜門」
赤い瞳を半眼にしながら、メリー・アストレアは机へ突っ伏した。
長い縦ロール気味の赤髪が机上へ流れ落ちる。白磁のような肌。軍装とドレスを融合した赤基調の戦装束。その姿だけ切り取れば、絵画か、あるいは神話の一場面にしか見えない。
だが現実は。
ペンを握ったまま死にかけている。
「新宿広域殲滅戦の被害報告書、三十四部です」
「まだ増えますの!?」
「海外機関提出用です」
「滅びませんこと? 人類」
「滅びかけたからメリー様が止めたんです」
「理不尽ですわ……」
瀬波卓郎は静かに胃薬を飲んだ。
最近、服用量が増えている。
彼は理解していた。
世界中が熱狂している。
新宿A級ゲート殲滅戦。
超高密度広域殲滅術式。
都市被害を最小限に抑えた精密制御。
ライブ配信同時接続数、推定二億超。
世界規模のトレンド独占。
救世主。
人類最強。
国家戦略兵器。
あるいは。
“赤き魔王”。
だがその正体は今、書類に殺されかけている。
「それで、配信事業関連ですが」
「あっ」
机に突っ伏していたメリーが、ぴくりと反応した。
瀬波はその変化を見逃さなかった。
最近分かってきたのだ。
この人は世界の危機より、“推し”関連の方が露骨に反応する。
「企業案件、所属オファー、スポンサー契約、海外配信プラットフォームからの独占契約提案などが大量に」
「全部お断りで」
「即答ですね」
「自由が消えますもの」
顔を上げたメリーは、深く紅茶を飲んだ。
アールグレイ。
香りだけで分かる。
なお、学術院内では現在、“メリー様専用紅茶当番”なる謎制度が自然発生していた。
原因は、一度粗悪な茶葉を出した研究員が「これもう雑味ではなく魔素汚染ですわね」と真顔で言われ、三日ほど寝込んだからである。
「ですが、配信活動そのものは進める必要があります」
「ええ。学術院の運営費、研究費、人材育成費……全部足りませんものね」
魔素時代の到来。
世界は変わり始めている。
国家は軍備を拡張し、企業は魔素産業へ参入し、裏社会では違法魔素研究が急増していた。
メリーはそれを止めなければならない。
だが。
彼女一人で世界は回らない。
だから人材が必要だった。
教育機関が必要だった。
理論体系が必要だった。
配信すら、その一環である。
認知。
資金。
影響力。
この時代では、それ自体が力だった。
「なので」
瀬波が一枚のタブレットを差し出す。
「例の件です」
メリーの動きが止まった。
「…………」
「…………」
「…………その」
「はい」
「まだ送ってませんの」
「知ってます」
「……三時間悩みましたわ」
「知ってます」
机上には、現在十五パターン目となる“フィーネ宛業務依頼文”が表示されていた。
件名。
『突然のご連絡失礼いたしますわ』
そこまではいい。
問題は本文だった。
『初めまして。わたくし、貴女様の深夜雑談配信を拝見し、極めて優れた空気制御能力と情緒安定効果を確認いたしましたの』
「怖いです」
「真面目に書きましたのに!?」
「分析報告書なんですよ」
瀬波は真顔だった。
メリーは不満げに唇を尖らせる。
「ですが事実ですわよ。あの方の声には副交感神経への緩和作用が」
「やめてください、余計怖いです」
「あと第五十二回深夜配信での“無理しなくていいんだよ”という発言は精神安定へ極めて」
「橘さん呼びますね」
「裏切りましたわね!?」
数分後。
「なるほど、重いですね」
橘梓は即答した。
「橘さんまで!?」
「これ個人VTuberが受け取ったら普通に泣きます」
メリーは衝撃を受けた顔をした。
世界最強の術者は、対人距離感だけ壊滅的だった。
橘はタブレットを操作しながら淡々と修正していく。
「まず、“情緒安定効果”を消します」
「でも実際」
「消します」
「はい……」
「あと、“貴女様の存在は現代社会における精神文化的価値が”も消します」
「なぜですの!?」
「重いので」
メリーは椅子へ沈み込んだ。
その姿は、もはや国家級術者ではなく添削で心を折られた学生だった。
しかし。
橘は少しだけ視線を和らげる。
知っているからだ。
この人は、本当に不器用なのだ。
数百年にも等しい孤独を抱えながら、誰かへ近付く方法を知らない。
世界を救う方法は知っていても。
普通に話しかける方法を知らない。
「……メリー様」
「なんですの」
「もっと普通でいいんです」
「普通……」
「“配信を見てお願いしたいと思いました”くらいで」
メリーは少し黙った。
静かな沈黙だった。
巨大な窓の向こう、夕暮れの東京が赤く染まっている。
魔素濃度上昇の影響で、最近は空の色が以前より深い。
世界は確実に変質していた。
その変化を一番理解しているのは、きっと彼女自身だ。
「……普通、ですのね」
ぽつりと。
珍しく弱い声だった。
「ええ」
「…………」
メリーは視線を落とす。
タブレット画面には、停止したままのフィーネのアーカイブが映っていた。
淡い銀髪。
眠たげな瞳。
ゆるい声。
どこか安心する空気。
そして時折、感情が漏れる瞬間。
――『みんなもちゃんと寝るんだよー』
たったそれだけの言葉。
それだけなのに。
メリーは、その時間だけ少し肩の力を抜ける。
世界を背負わなくていい気がする。
怪物でいなくていい気がする。
「……困りますわね」
「何がです?」
「たかだか数万人規模の個人配信者に、ここまで精神を持っていかれるなんて」
自嘲気味に笑う。
だがその笑みは、どこか穏やかだった。
瀬波は小さく息を吐く。
たぶん。
この人は本当に限界だったのだ。
誰にも寄りかからず。
誰にも弱音を吐かず。
世界最強であり続けた。
だから。
ただ“普通に配信しているだけの誰か”へ救われてしまった。
その事実が、少しだけ痛かった。
一方その頃。
都内某所。
「……は?」
フィーネは固まっていた。
モニターに映るメール。
差出人。
『アストレア魔導学術院統括運営部』
「……は?」
もう一回見た。
迷惑メールかと思った。
詐欺かと思った。
ドッキリかと思った。
だが。
添付されている電子認証コードも、協会公式署名も、本物だった。
「えっ」
心臓が変な音を立てる。
「えっ、待って、えっ」
件名。
『配信関連業務につきましてのご相談』
「なんで!?」




