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没落聖女の逆転再出発~一杯のお茶を施した少年が砂塵の王となって、二十年後、私を迎えにきました〜  作者: 風谷 華
第一章

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9 バリスタ、エルザ

 帝國カフェーの店先に、またバリスタの求人が出た。


 これで何度目だろう。その文字を見つけるたび、エルザは足を止めては、自信のなさに背を向けてきた。

 まだ技術が足りない、落ちるかもしれない、と思って毎回踏み出せなかった。




 その夜、エルザは一睡もできなかった。求人票の文字が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。


「本当に私なんかが、挑戦して大丈夫だろうか?」


 心の中で自分に問いかける。


 聖女という肩書きを失ってから、初めての挑戦。人生で初めて自分の意思で決めた、バリスタになりたいという夢。

 面接に落ちれば、「身の程知らず」と笑われるかもしれない。

 けれど、他のどの店でもなく、帝國カフェーで働きたいのだ。

 あの帝国の香りが残る独特の空気感の中で、客に寄り添う一杯を淹れたい。

 

 エルザは一晩考えて、翌朝応募した。




 面接をしてくれた帝國カフェーの店長リリー(五十代の中年女性で、目の鋭い人物だった)はエルザの顔を見て一瞬目を見開いた。しかし何も言わなかった。技術だけを見てくれた。

 エルザが淹れた茶を一口飲んで、ひとつ頷いた。


「合格です。では、明日から来てください」


「……ありがとうございます」


「ただし」と店長は付け加えた。「うちは貴族の令嬢だろうが聖女だろうが関係ないですよ。仕事の腕だけで判断します。いいですね?」


「はい」


「もうひとつ」店長はわずかに表情を緩めた。「よく来る決心がついたわね。ずっと来たそうにしていたから」


「……あ、ありがとうございます」


「ええ。オーナーも喜ぶでしょう」


 エルザは少し俯いた。


「……オーナーは、関係ありません」


「そうですか。そういうことにしておきましょう」店長は涼しい顔で言った。「じゃあ明日、九時にきてください。これから、よろしくお願いします」


「はいっ!こちらこそ、よろしくお願いいたします!」




 翌日から、エルザは白いエプロンをつけてカウンターの内側に立った。


 仕事は思っていたより難しく、思っていたより楽しくてやり甲斐があった。


 お湯の温度を一度単位で管理する。茶葉の量をその日の湿度で微妙に調整する。カップを温めておく時間、注ぐ速度、蒸らしの長さ。すべてが一杯のお茶に影響する。


 お客の顔も観察する。今日この人は何を必要としているか。

 お茶は熱いほうがいいか、爽やかなのがいいか、もしくは静かに飲みたいとか。


 お茶を通して、人を見る。それがエルザの仕事になった。




 入って二週間で、後輩ができた。


 ルーカスという、十八歳の新人バリスタだ。とにかくポジティブで、とにかくおしゃべりで、とにかくドジだった。


 初日から五回お湯をこぼした。


「ルーカス、お湯の扱いは慎重にね」


「はい!でも先輩、先輩ってすごく綺麗っすね!さては聖女か何かっすか!?」


「元、ね」


「マジっすか!?元!?じゃあ今はなんっすか!?」


「バリスタよ」


「かっこいいっすね〜!」


 エルザはこの後輩に、最初の一週間で二十二回ため息をついた。しかし嫌いになれなかった。ルーカスは失敗するたびに正直に謝り、翌日には同じ失敗をしないように工夫した。


「先輩、俺、お茶を淹れるのが好きになってきたっす!」


「そう。よかったわね」


「先輩はお茶を淹れること、いつから好きだったんっすか?」


「……実はね、最近なのよ」


「え、最近っすか?」


「お茶を飲むことは昔から好きだったんだけど、淹れることが好きになったのは最近なの」


「ほえ〜!でも、どうして飲むだけじゃなくて、淹れることも好きになったんっすか?」


 「う〜ん……」エルザは小さく首を(かし)げて考え込んだ。


「自分の手で、誰かのために淹れたくなったからかしら」


 ルーカスは目を輝かせた。


「それ、めちゃくちゃかっこいいっす!お茶を淹れると、想いも伝わるからっすね!」


 エルザは苦笑した。

 この後輩、うるさいが、嫌いになれない。




 カイルが来たのは、エルザが働き始めてから三週間後のことだった。


 いつものように奥の席に座り、彼はただエルザを見つめた。——けれど、何も言わなかった。


 エルザもまた、言葉をかけることはしなかった。


 ただ「黄金霞」の一杯にすべてを込め、指先まで神経を研ぎ澄ませて丁寧に淹れ、彼の前へと運んだ。


 カイルはそれを受け取り、静かに喉を潤すと、一言も交わさぬまま店を後にした。


 


 そこから週に三回、仕事の途中にくるようになった。


 毎回、エルザが淹れて、カイルが飲む。それだけだった。


 ある日、帰り際にカイルが言った。


「今日のお茶、先週より上手くなっていますね」


「……ありがとうございます」


「努力しているんですね」


「仕事ですから」


 カイルは少し笑った。「真面目ですね」と言って、出て行った。




 ルーカスがカウンターの内側からこっそり言った。


「先輩、あの人、先輩のこと好きっすよね?」


「仕事中よ」


「でも、なんで先輩あの人とあんまり会話しないんっす?先輩他のお客さんとはもっと話するっすよね?」


 店長リリーが助け舟を出した。


「おしゃべりさんな、ルーカスくん!」


「はいっ!」


「次の注文が来ていますよ。お願いしますね」


「あっ!」


 店長とエルザは顔を見合わせて、ふふっ、と笑った。


 ルーカスはちょこまかと動きながら、お茶を淹れている。




 エルザは帳面を開いて、今日の「黄金霞」の淹れ方を書いた。


 ページの端に、気づいたら小さな桜の花の絵を描いていた。


 筆圧はごく軽く、紙の目を潰さないように優しく円を描く。

 重なり合う花びらの中心に、ほんの少しだけ濃いピンクで色をつけた。

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