9 バリスタ、エルザ
帝國カフェーの店先に、またバリスタの求人が出た。
これで何度目だろう。その文字を見つけるたび、エルザは足を止めては、自信のなさに背を向けてきた。
まだ技術が足りない、落ちるかもしれない、と思って毎回踏み出せなかった。
その夜、エルザは一睡もできなかった。求人票の文字が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
「本当に私なんかが、挑戦して大丈夫だろうか?」
心の中で自分に問いかける。
聖女という肩書きを失ってから、初めての挑戦。人生で初めて自分の意思で決めた、バリスタになりたいという夢。
面接に落ちれば、「身の程知らず」と笑われるかもしれない。
けれど、他のどの店でもなく、帝國カフェーで働きたいのだ。
あの帝国の香りが残る独特の空気感の中で、客に寄り添う一杯を淹れたい。
エルザは一晩考えて、翌朝応募した。
面接をしてくれた帝國カフェーの店長リリー(五十代の中年女性で、目の鋭い人物だった)はエルザの顔を見て一瞬目を見開いた。しかし何も言わなかった。技術だけを見てくれた。
エルザが淹れた茶を一口飲んで、ひとつ頷いた。
「合格です。では、明日から来てください」
「……ありがとうございます」
「ただし」と店長は付け加えた。「うちは貴族の令嬢だろうが聖女だろうが関係ないですよ。仕事の腕だけで判断します。いいですね?」
「はい」
「もうひとつ」店長はわずかに表情を緩めた。「よく来る決心がついたわね。ずっと来たそうにしていたから」
「……あ、ありがとうございます」
「ええ。オーナーも喜ぶでしょう」
エルザは少し俯いた。
「……オーナーは、関係ありません」
「そうですか。そういうことにしておきましょう」店長は涼しい顔で言った。「じゃあ明日、九時にきてください。これから、よろしくお願いします」
「はいっ!こちらこそ、よろしくお願いいたします!」
翌日から、エルザは白いエプロンをつけてカウンターの内側に立った。
仕事は思っていたより難しく、思っていたより楽しくてやり甲斐があった。
お湯の温度を一度単位で管理する。茶葉の量をその日の湿度で微妙に調整する。カップを温めておく時間、注ぐ速度、蒸らしの長さ。すべてが一杯のお茶に影響する。
お客の顔も観察する。今日この人は何を必要としているか。
お茶は熱いほうがいいか、爽やかなのがいいか、もしくは静かに飲みたいとか。
お茶を通して、人を見る。それがエルザの仕事になった。
入って二週間で、後輩ができた。
ルーカスという、十八歳の新人バリスタだ。とにかくポジティブで、とにかくおしゃべりで、とにかくドジだった。
初日から五回お湯をこぼした。
「ルーカス、お湯の扱いは慎重にね」
「はい!でも先輩、先輩ってすごく綺麗っすね!さては聖女か何かっすか!?」
「元、ね」
「マジっすか!?元!?じゃあ今はなんっすか!?」
「バリスタよ」
「かっこいいっすね〜!」
エルザはこの後輩に、最初の一週間で二十二回ため息をついた。しかし嫌いになれなかった。ルーカスは失敗するたびに正直に謝り、翌日には同じ失敗をしないように工夫した。
「先輩、俺、お茶を淹れるのが好きになってきたっす!」
「そう。よかったわね」
「先輩はお茶を淹れること、いつから好きだったんっすか?」
「……実はね、最近なのよ」
「え、最近っすか?」
「お茶を飲むことは昔から好きだったんだけど、淹れることが好きになったのは最近なの」
「ほえ〜!でも、どうして飲むだけじゃなくて、淹れることも好きになったんっすか?」
「う〜ん……」エルザは小さく首を傾げて考え込んだ。
「自分の手で、誰かのために淹れたくなったからかしら」
ルーカスは目を輝かせた。
「それ、めちゃくちゃかっこいいっす!お茶を淹れると、想いも伝わるからっすね!」
エルザは苦笑した。
この後輩、うるさいが、嫌いになれない。
カイルが来たのは、エルザが働き始めてから三週間後のことだった。
いつものように奥の席に座り、彼はただエルザを見つめた。——けれど、何も言わなかった。
エルザもまた、言葉をかけることはしなかった。
ただ「黄金霞」の一杯にすべてを込め、指先まで神経を研ぎ澄ませて丁寧に淹れ、彼の前へと運んだ。
カイルはそれを受け取り、静かに喉を潤すと、一言も交わさぬまま店を後にした。
そこから週に三回、仕事の途中にくるようになった。
毎回、エルザが淹れて、カイルが飲む。それだけだった。
ある日、帰り際にカイルが言った。
「今日のお茶、先週より上手くなっていますね」
「……ありがとうございます」
「努力しているんですね」
「仕事ですから」
カイルは少し笑った。「真面目ですね」と言って、出て行った。
ルーカスがカウンターの内側からこっそり言った。
「先輩、あの人、先輩のこと好きっすよね?」
「仕事中よ」
「でも、なんで先輩あの人とあんまり会話しないんっす?先輩他のお客さんとはもっと話するっすよね?」
店長リリーが助け舟を出した。
「おしゃべりさんな、ルーカスくん!」
「はいっ!」
「次の注文が来ていますよ。お願いしますね」
「あっ!」
店長とエルザは顔を見合わせて、ふふっ、と笑った。
ルーカスはちょこまかと動きながら、お茶を淹れている。
エルザは帳面を開いて、今日の「黄金霞」の淹れ方を書いた。
ページの端に、気づいたら小さな桜の花の絵を描いていた。
筆圧はごく軽く、紙の目を潰さないように優しく円を描く。
重なり合う花びらの中心に、ほんの少しだけ濃いピンクで色をつけた。




