暑気払い 一
水の宇宙人マナブと破壊の概念インテリタスが紡ぐ連作短編です。
■いる人
インテリタス…破壊の概念。少女の姿を得た。人間勉強中。泳げない。
マナブ…水の宇宙人。美青年。世話焼き。バンドのベーシスト。塩水は苦手
海は本の中にある。
物語の中で表現される海は、青く美しい世界がどこまでも広がっていて、水面が陽の光を受けてキラキラと輝いているらしい。その下では様々な生き物が身体をくねらせていて、汚いものはない。色とりどりの魚やサンゴや海藻。大きな生き物は優しく、歌を歌えばみんなが集まってくるのだそうだ。
波打ち際では白い砂が波に翻弄され、小さな貝が顔を出す。水平線からは太陽が昇り、夕方には陽が沈み、青から赤へ、そして、暗闇に星が光る空になる。
一方、図鑑の中の海では、生き物は自分の生存をかけて戦っているのが常のようだ。弱肉強食。無数の生まれ行く命と数少ない生存者。大きなものは強く、小さなものは弱い。生存をかけた進化は、海に住む者たちをあらゆる奇怪な姿に変えた。海は広く、深く、暗い。そこで暮らせるのは一部の選ばれた種だけで、人間にとっては脅威になりえる。
その中でいくらかの魚は人間の餌になるが、……果たして特区で流通する魚はどこから来るのだろうか。
特区の住人にとって、海は未知の世界だ。ぼんやりとしたイメージ。そのようなものが存在しているという知識。青く美しく凶暴なエンターテインメント。
本物を知らない。
***
昼、水の宇宙人である男──マナブが球体を小脇に抱えてやってきた。遠くから見ても、中身が揺らめき泡立っているのがわかる。
「海屋が来てたから買ったんだよ」
「うみ」
ほら、お前、キラキラしたもの好きだろう、とマナブが球体をインテリタスの顔に突き出す。透明な球体の中には何やら液体が入っている。ちゃぷちゃぷと音が鳴り、青と白が混ざった。男はこれを海だと言い、海屋から買ったのだと説明した。
水は青い色で表現されがちだ。コップに入った水を描けば青色が塗られ、蛇口から出る水を書けば青色が塗られ、そもそも水色という色の名はきっと水から着想を得てつけられたのだろう。水には色はついていないというのに。
インテリタスが図鑑の中で見た海もそうだった。鮮やかな青からやや深みのある青で表現された絵。海は水で満たされており、その水は青色で表現されるのであり、それならば海は青色なのである。本物の海の色は知らない。しかし、特区の海は青色に色が付いている。
じっと球体の中身を見ている無言にマナブは焦れたらしい。
「別に僕は海なんて興味ないんだけど。海が売られるのも夏だけだしな。たまにはいいだろ」
口先だけで海に興味がないと言っているのだろうか。あるいは、ほとんど水の身体を持つこの男にとって、液体は興味をそそられるものではないのかもしれない。
マナブが空き地に海を放り投げる。すると、地面には大きな水溜まりが広がった。通常の水溜まりと違うのは、それが中央から波打ち、音を立て、そしてどこからともなくじっとりとした空気を運んできたからだ。
まとわりつくような空気は商店街の魚屋から漂うものに似ており、雨上がりの空気とはまた違った重さである。少し攻撃的ですらある目への刺激と、この空き地だけが涼しくなったような頬を撫でる風。海だと言われても判別がつかない。しかし、特区に来てから感じたことのない空気がインテリタスの周りにあった。
湧いているような動きをする水溜まりの淵が白く泡立っている。振り回した炭酸水のようで、それは肌を突く刺激があるのだろうか。惹かれるままに海に近づくと、待て待てと学から制止をうけた。
「靴! 濡れるだろ!」
男にされるがまま靴下まで脱がされ、素足で砂浜に立つと、肌に違和感がある。それを避けるように砂から足を離す。じんじんと足を差す不快な刺激だ。インテリタスが地面に足をつけないようにステップを踏むと、マナブがその背を押した。足が砂から離れ、冷たく動く水に触れる。
「砂浜、熱いのか? 海だからかな。中は冷たいよ」
マナブが言った通りだった。インテリタスの足は砂浜と違う感覚を感じていた。しかし、普段の入浴の際の水の感覚とも違う。水は冷たく、動いている。動く水に足をつけていると、水の動きに合わせて砂と水が指の間を行き来した。地面が動いているような感覚に陥る。この感覚が海なのか、そう思って男の方を振り向くが、マナブはインテリタスから少し距離をとっていた。海に入らないつもりらしい。
「あんまり遠くに行くなよ」
この円形に広がった水溜まりのどこに遠くへ行けるのだろう。
マナブの言葉を守りつつ、インテリタスは歩みを進めてくるぶしまで水に浸かった。時折、小さな生き物が現れては消える。これより先に行くとワンピースの裾が濡れるだろう。保護者である野梨子の呆れた顔が脳裏に浮かぶ。彼女はインテリタスの行為に文句は言わないが、その結果には辟易しているようだった。
寄せては返す波。動く水面を見るのは雨の日に貯まった水溜まりを雨粒が打っている時だけで、このように水面自体が大きく波打つのを見るのはインテリタスには初めてのことだ。物語で語られた海とも、図鑑で見た海とも違うが、特区ではきっとこれが海なのだろう。その違いに不満はない。
波は強く弱く、インテリタスの足首を撫でた。柔らかい砂の上にただ立っているだけなのに、先へ先へ、底へ底へと引き込まれそうになる。再び、振り返るとマナブが遠くからこちらを見ており、砂浜から遠く離れたことがわかった。
これが海か。
なるほど、男の言う遠くに来てしまったらしい。
インテリタスは踵を返した。瞬間、脚が波と砂に取られる。泥が吸い込まれるようにして動き、身体が海の中に落ちた。水の中で身体のコントロールはきかず、インテリタスはそのまま水の中に引きずり込まれた。
渦巻く水の中で味がする。濃い塩の味が。
「インテリタスっ!」
ざぶざぶという波の音に紛れてマナブの声が聞こえた。
インテリタスが海に沈んだのは一瞬だった。強い力で手首を掴まれ、泥の中からずるりと引き抜かれる。気が付けば波打ち際に倒れ込んでいた。髪もワンピースも濡れて、べっとりと肌に貼りついている。地上にいる時とは全く違う重たさ。水の質量だった。泥の中に座り込んでいると、砂粒がじわじわと身体を這って侵食してくるようだ。
「遠くに行かないって言っただろ」
「ちかく、だった」
「近くでも深いことがあるんだよ」
「ふかい」
海なんだから、とマナブが言った。
「海は本当は、広くて深いんだろ。本でしか読んだことないけど」
海屋の説明書にも書いてあったし、と話すマナブの姿を、目で認めるのにインテリタスは時間を要した。
「め、みえない」
「僕だって身体が痛い」
インテリタスはゆっくりと瞬きを繰り返す。手首を握っていたのは透明になった水の塊でその先の上半身は形を失い半透明に動く何かに変化していた。かろうじて残っている下半身が砂浜を巻き込んで濁っている。
「さあ、今日は海遊びは終わりだ。──溺れなくてよかったな」
自分を助ける義理はないというのに。インテリタスは思った。マナブという、この人で非ざる者は、呆れるほどに善良だ。
ざあぁん、波音が空き地に響く。
この水の宇宙人が完全に海に飲まれてしまう前に、この砂浜から離れなければならない。
海は好きです。入らなくなってしまいましたが、波打ち際の柔らかい泥が好きです。
読んでいただきありがとうございます☺
読者の皆様に少し不思議な出来事が降り注ぎますように……!
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