逢瀬の夜に
水の宇宙人マナブと破壊の概念インテリタスが紡ぐ連作短編です。
■いる人
インテリタス…破壊の概念。少女の姿を得た。人間勉強中。人間に近づく。
マナブ…水の宇宙人。美青年。世話焼き。バンドのベーシスト。人間に擬態をしている。
野梨子…インテリタスの保護者。
酷く暑い。座っているだけでも額に玉のような汗が浮くほどだ。室温計は二十五度を示しているのに、こんなにも暑いのは湿度が高いせいだろうか。
年々、季節が歪になっていくのは外も特区も同じらしい。唯一、特区の外の出来ごとを放送するテレビ番組で猛暑のニュースが流れている。地図の上に表示されている数字はどれも赤く、天気予報を読むキャスターは夜までこの気温が続くだろうと話す。外ではどうかは知らないが、特区の中では人体蒸発減少に警戒しなくてはならないだろう。
仕事が増える、とため息をついたいばら野梨子は事務所のカウンターに少女が立っているのを発見した。ぼんやりと野梨子を見つめ、佇んでいる姿は陽炎に混ざって現れる怪異のようだった。この暑さの中、長袖のワンピースとタイツに包まれ、まるで顔と手以外のものを人間に見せまいとするかのような頑なさである。
「どうしたの? そんなところで立っていないで、中に入って良いのよ」
声をかけると、警備署内にとことこと入って来た少女がカウンター越しに野梨子に巾着袋を突き出した。
「じんのめ、おべんとう」
朝、用意する暇のなかった弁当を夫が作ってくれたのだろう。少女はその使いを頼まれたらしい。何を起こすかわからない人で非ざる者を外に一匹で放った夫も理解できない。守らなければならないわけでもない言いつけを守って警備署までやってきたこの人外も、野梨子は理解できない。何を企んでいるのか、それとも、何も考えていないのか。一人と一匹の行動は理解できないものの、暑さは野梨子の思考を奪った。なんにせよ、問題を起こさなければいい。こうしておとなしく警備署まで歩いて来ているではないか。
少女は黙って巾着袋を差し出している。据わったアサガオ色の瞳はじっとその袋に視線をやっていた。汗の一粒もなく、青白い肌には赤みも差さない。まるで、暑さを感じていないようである。
野梨子は差し出された弁当を貰う時に、少女の指に触れた。
──冷たい。
やはり、この少女は人間ではないものだ、と野梨子は思う。身体の芯から冷えている、それは安置室に保管されている死体のような冷たさだった。暑さの中での冷たいものは大歓迎だが、人で非ざる者の体温を感じて涼みたくはない。
「ありがとう。気を付けてお帰りなさい」
野梨子は知らず知らずのうちに顔を顰めさせていた。
***
夜。インテリタスは家の隣の空き地で月をぼんやりと眺めていた。昼間に好き勝手に掘った穴が月明かりに照らされ、クレーターのある月の表面のようだ。
月明かりの夜は全てが美しい。
太陽は自らが輝いていると本に書いてあった。インテリタスが得た人間の肉眼で観察しようとしても、その輝きは眩しすぎて確認することができない。インテリタスの目が人間の眼球でなかったならばどうだっただろうか。人間の姿に規定されてしまった以上、考えても仕方がないことだが、インテリタスには少し惜しい。光り輝くものを見たい。そのためにインテリタスはこの特区にいるのだから。
しかし、太陽と反対に、月は自分では輝かず、太陽に照らされて反射が光っているように見えるのだという。その弱い光の為か、特区を照らす白い球体を、インテリタスは人間の目ではっきりと確認することができた。昼間は明るく、発光しているようには見えない特区が、月ほどの光に照らされるとぼんやりと輝いて見えるのが不思議だ。その淡い世界を見たさに、満月の日は夜中にこっそり寝床を抜け出してしまう。あまり遠くに行くことはない。普段、過ごしている空き地で空を眺めるだけである。
夜に男と会ったのは初めてだった。
月の灯りはスポットライトだ。長い睫毛に彩られた青い瞳。あばた一つない白い顔。頭の先からつま先まで均整の取れた身体。特区に住む人間ならば、幻か、夜に棲む怪物か、あるいは呪いの人型だと思っただろう。傾国の男が夜歩く。満月にふさわしい幻想的な怪異である。昼間、年甲斐もなくインテリタスと遊びに興じている姿からは想像もできない冷たい美しさであった。
その男がインテリタスを認め、表情を変えた。不機嫌そうな気配が消え、代わりにインテリタスが見知った面倒見の良い顔つきに変わる。
「不良少女だな~、お前」
寝ない奴は背が伸びねーぞ、と口にしながらも、昼間と同じようにインテリタスの隣に座り込み、男は矛盾した行動をとった。そのまま、聞いてもいないのに夜の散歩の理由を話し始めた。特区の夜は静かすぎるし、五月蠅いときは宇宙船が不時着するときにそっくりだ。夏は暑くて眠れないし、夜は布団が冷たくて我慢がならない。眠くないわけではない。人間の姿をしているのだから、眠気はあるに決まっている。ただ、眠れないだけだ──。
「誰かと一緒にいるのは良い。何も聞こえなくなるから」
男は一人でいると、何か聞こえるようになるらしい。しきりに口にする眠れない、に何か関係があるのだろうか。眠れないことを、不眠症という。インテリタスは何も言わなかった。何か口に出すほど、不眠症に関する知識と表現を会得してもいない。
その日以降、昼間でなくとも、満月の夜には時折、男と会うようになった。インテリタスが夜、一人で抜け出していることをこの男しか知らない。
だんだんと夏に近づいていく。気温が上がるにつれて昼間に男が現れる頻度は少なくなったが、満月の夜は必ず現れた。とりとめのない話をしては、インテリタスに寝床に戻るよう促して去っていく。初めての夜に比べると、男は穏やかな表情を浮かべていた。
***
この夜も男は月明かりに愛されていた。少しやつれた顔も美しさを引き立てる化粧のようである。昼間から続くうだるような暑さ。陽が沈んでも涼しくはならない。
「今日は不快だ」
インテリタスは男が感じるそれを感じない。
「お前も汗かかないんだな」
まるで自分も汗をかかないかのような言いぐさである。男の顔には汗が流れていた。ならば、今この男のこめかみを伝う液体の正体は何だろう。
男がインテリタスに向かって手を伸ばし、頬に触れた。以前、野梨子の指が手に触れた時のような感覚がインテリタスにあった。柔らかく、圧力があり、頬の皮膚とは何か差を感じる。
「つめた。──やっぱ、化け物だな、お前」
そう言い捨てた割に、男はインテリタスの頬に触れたままにいた。その感覚を楽しむように。
冷たいの反対は熱い、だ。男が冷たいと感じているならば、インテリタスが感じているのは熱いだろうか。インテリタスがその感覚に集中しようとしたときだった。
べしゃり。
突如、男の身体が崩れて空き地にぶちまけられた。空き地の砂と混ざって泥と化す。男だったものがインテリタスの頬に跳ね、頬を汚した。足元にゆっくりと人間だった者──否、人間の形を模した者が沁み込んでいく。汗ではなかった。男の身体自身だったのである。
「つめたい、ばけもの」
ならば、人間は温かいのだろうか。
***
インテリタスが寝床にいなかったため、野梨子は家の周囲を歩き回っている。昼間に空き地で何やら遊びに興じているのは知っていたが、まさか朝にも活動しているとは知らなかった。
インテリタスは空き地にいた。うずくまる姿を見て野梨子が少なからず動揺したのは、人外であるにも関わらず倒れこんでいるからだろうか。その身体に触れることに躊躇するものの、揺すり起こす。想像した冷たさはなかった。
「インテリタス、インテリタス」
名前を呼ぶと少女は気だるげに目を覚ました。頬も顎も、よく見ると手から夜具から泥まみれで、傍らには湿った泥を詰め込んだバケツがある。
「びっくりするじゃない──」
野梨子の言葉を遮って、インテリタスがその手に触れた。
「……どうしたの」
「あたたかい、人にんげん」
難しい顔をしたインテリタスは野梨子の手を離さない。その手からほんのりと熱が移ってくるのを、野梨子は感じていた。
***
雨が降っている。空き地には泥が詰め込まれたバケツが放置されていた。雨粒が泥を溶かし、泥がバケツから溢れ出る。やがて、溢れ出た泥は重力に逆らい、空に向かって伸び始めた。
泥は人間の形になったかと思えば、頭から足先に向かって、泥が流れていく。
澄んだ水でできた人型が現れた。
「あー、つめた」
空き地を去っていく透明な人影は月夜に消えた男の声をしていた。
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