沈黙の鷺山製薬 その3
1
場面は研究部後部に戻り。
両逆手に持ったナイフを構えたヤコブと、匕首をジャケット下のベストのガンホルダーから引き抜いた福子。総勢二〇名ばかりいたはずの兵隊たちが、福子によってほぼ全滅させられた。内一割から二割はアニュスの手柄。ヤコブは床を蹴って福子へと飛びかかる。彼女の腹と喉を狙い、ナイフを横に走らせていった。しかし、身を退かれて二発とも空振りに終わる。だが、彼の中では“これ”は予測の範囲内であった。ヤコブは片足を軸に、右脚を鞭のように振り上げていく。頭を沈めた福子が彼のハイキックを避けて、床で時計回りに回転してその踵で足払いをした。バチ!と叩く音を響かせて、体重九〇キロ超えのヤコブが宙を舞った。コンマ数秒間の滞空時間を味わっていく彼の視界に、長い脚を突き出す福子の姿が映った。足払いで宙に浮いた彼の腹に、福子は踵を突き刺して、先の壁に叩きつけた。背中と後ろ頭を強打して、落下したヤコブは床に腹と顔を叩きつけられてバウンドしていく。目の前を飛び回る星と、歪み始めた彼の景色の中に、歩み寄ってきた福子が匕首を構えていくところが見えた。福子は足払いしたヤコブを前蹴りで吹き飛ばして壁に叩きつけたのちに、落下した彼に近寄り、左手で匕首の“背”を支える形を取りその切先を向けるといった、まるで獲物にへと猟銃を構えるかの如き姿勢をとった。壁に背を預けてなんとか立ち上がっていったヤコブの喉を目掛けて、福子は匕首を真っ直ぐと突き刺した。腕で防御する間も与えられずに、彼は喉を刺されて絶命して、壁をゆっくりとずり落ちていく。ヤコブの喉からすぐ引き抜いた福子は、ずり落ちていく彼に目も向けずに、部所の扉に迫る気配に意識を向けていた。
直後、その者が銃を構えながら扉を開けて現れた。
左右に銃口を向け安全を確認。
視線を斜め下にすると、壁で項垂れているヤコブの亡骸が。
続いて研究部の部屋中を見たら、全滅した兵隊たち。
無言で驚き、彼女はライフルをゆっくりと下ろしていった。
そんな中に、見覚えがある美しいユダヤ娘を発見。
彼女は右半分の美貌の口の端を上げて歯を見せた。
「アニュス。あんた、生きていたの?」
「ハーイ。エリカお姉さま」引き吊った笑顔のアニュス。
「隊を抜けた上に処分されたって報告がきたけれど。……違うんだ?」
「私の大切な相棒だもの。簡単には死なないわ」
第三者の声が。
この割り込みに、エリカ・ルルー副隊長は首を向けた。
「あ! あんたが侵入者だったのね!」
「正解。サバゲーでは、いろいろと世話になったわね」
長テーブルの下から現れた虎縞福子がエリカに微笑んだ。
福子に警戒しながら、エリカは顔左半分のゴーグルヘルメットの無線スイッチを押した。
『はい、こちらヘレン』
「こちらエリカ。侵入者と遭遇したわ」
『え? マジ?』
「侵入者は、虎縞福子。以上よ」
『え? 嘘? 福子さん?』
ヘレン博士の確認を切ったエリカが、ライフルから弾倉のカートリッジを抜いて弾を床に落として、銃身を放り投げた。
少し前後して。
製造工場部の管理室。
社員食堂から戻ってきたヘレン博士とジャネット班長。
二人はジャクリーン博士と一緒に、社員名簿に目を通していた。捕虜と強制労働と殺害した製薬会社の社員たちの履歴書と顔写真と出勤票を念入りに照らし合わせていき、今日の欠員の有無を当たっていく。はじめから有休や休日の社員は外して、突如休みを与えられた社員を探していた。そして、該当者が意外と早く見つかり。ジャクリーンがある一枚の履歴書と出勤票で手を止めて、抑えた声をあげた。
「いた。この人だ。ーーー虎縞福子……!」
「え? マジ? サバゲーの?」驚くヘレン。
「ここに勤めていたの?」ジャネットも驚いた。
「今日の昼前に退勤しているわ」
ジャクリーンが二人に瞳を流して付け加えた。
「まさか、ここで毒を研究していたなんてね」
溜め息まじりに言っていく彼女へ、ヘレンは口を開いていく。
「福子さんとは、つい七月にサバゲーで対戦したばかりじゃない。彼女、いつものワニさんと組んで、珍しく感じの悪い美女と可愛い二人を連れて。私とあなた二人とエリカとヴィクトリアとルカとジュリエットとアリエルでチーム組んで、初勝利したじゃん。念願の」
「あのときは、ほら。可愛いけれど“どんくさい”白髪の女の子に足を引っ張られたせいで、福子さん初の敗北になったものね」
ジャクリーンが思い出話しに乗ってきた。
“どんくさい”白髪の女の子。鯉川鮒のことである。
ヘレン曰く、感じの悪い美女とは。姥湯鮫花のこと。
あとひとりの可愛い女の子とは。海原摩魚だった。
いつものワニさん。もちろん、鰐恵のこと。
チーム福子 vs チーム花嫁。五名対八名。
人数差があり、ゲームする前から福子たちが不利なのは分かっていたが、いざ始めたら福子と恵と摩魚の手際の良さにヴィクトリアとジュリエットとアリエルとジャネットが次々に撃ち取られていった。
「でも、真っ先に福子さんが私を撃ってきたのにはビックリした」
ジャネットも回想に乗ってくる。
「だって“あなた”とエリカは、私たちと違って“素人じゃない”じゃん?」
「まあ、そう。ーーーしかも、私とエリカ以上に彼女は“なんか異様に”手馴れた感じを持っているんだけど」
ジャクリーンの突っ込みに、ジャネットが返した。
そう。開始早々、福子と恵はジャネットとエリカを狙ってペイント弾を発砲してきたのだ。手練れ同士の応戦が続くものの、意外と短く終わった。チーム花嫁のリーダーのヘレンを庇ったジャネットは福子の弾丸を浴びて胸元にペイントされて落脱したあと、恵の弾丸から運良く避けたエリカは最後まで残って、鮒を庇った福子と恵を撃ち取った。
と、ここでテーブルの無線機に入ってきた。
『エリカよ。ジャクリーン、侵入者が現れたわ』
「なんですって?」
『私の見たところ、“かなりな手練れ”よ。戦争の仕方も人の殺し方も知っている者だわ』
「ええぇ……。ま、まあ、海軍だった“あなた”が言うなら“そう”なんでしょうね」
『アメリカ海軍だった私から見ても、アレは驚きよ。今そっちに戻っているから、詳しい情報は伝えるわ』
「ええ、了解」
応答を終えた彼女が、ヘレンとジャネットを見て。
「たった今、エリカが侵入者の形跡を確認した。さっきの食堂のと合わせて、私たちに抵抗する者が“こそこそ”と彷徨いているのが確実になったわね」
「じゃあ、可能性として“この”福子さんも侵入者に入れて考えていた方が良いんじゃない?」
ヘレンのこの言葉に、ジャクリーンは彼女を見たあとジャネットに顔を向けた。
「私は同感。ーーーあなたは?」
「私も当然よ。ーーー彼女が“ただの”サバゲーオタクじゃなかったことを考えるだけでも燃えてきた。これで、七月の仕返しができるわ」
仲間の言葉に同意していったジャネットは、唇の端を上げて微笑んだ。
そして、美しき花嫁三人が各々の銃器と武器の点検と動作確認をし終えたとき、ヘレンの無線が受信した。弾倉カートリッジを複数身に付け、手持ちのナイフやサーベルに鉄杖を装備していたジャクリーンとジャネットの手が止まる。
「はい、こちらヘレン」
『こちらエリカ。侵入者と遭遇したわ』
「え? マジ?」
『侵入者は、虎縞福子。以上よ』
「え? 嘘? 福子さん?」
直後、エリカから通信を切られて。
目を丸くしてヘレンは仲間二人に顔を向けた。
「福子さんが来ちゃった」
「よし! ヤル気出てきた」気合いが入るジャネット。
「気をつけてよね。彼女、素性が“分からなさすぎる”から」
用心を促してきたジャクリーンに、ジャネットは。
「福子さん調べるの、殺してからでも遅くないでしょ」
「まあ、そう言っちゃあそうだけどさ。ーーー相手は“毒”を研究していたのよ。用心しておいた方が良いわ」
「…………。そうね。分かった」
一拍空けてジャネットは返した。
2
研究部後部。
床に散らかる兵隊たちの骸と散乱した白い錠剤と割れた瓶。
壁で項垂れるヤコブの死体。
以上、複製した“酔い止め”の瓶詰め班は全滅。
報告を受けて現場に現れたエリカは、ライフルとベルトから弾倉カートリッジを外して下に落とし、銃身を引いて中の残弾も抜いたあとライフルを床に投げ捨てた。この動きを逐一見ていた福子に向かって、彼女が口を開いていく。
「“ドンパチ”じゃあ、あなたに勝てない」
「そうかしら?」静かに聞き返す福子。
「サバゲーなんかよりも、“こっち”が“本職”でしょう?」
「違うわね。“どれもが私”、だけど」
「ふん。ーーー戦争を放棄した。……だなんて嘘つきな国ね。そして、福子さん。あなたも嘘つきよ。世間の陰に隠れて“こそこそ”と暗殺業務をしていた、だなんてね」
「“治安維持活動”、と言ってほしいわ」
「言い訳は不要よ。ーーー私は嘘つきが大っっっ嫌い!」
「困ったわね……。どうしましょ?」
と言いつつ、表面だけで福子は大して困っていなかった。
むしろ、すぐに反撃できるように適度に脱力をしていく。
エリカが、胴体と両肩と腰回りの垂までの防護服を外して、ロイヤルブルーのインナーと両手脚の防具のみの軽装になったあと、両太股のホルダーからトンファーを取って構えた。福子も、テーブルから移動して床の中心線に立ち、ジャケットの内側からナイフを取り出して、両方順手に持って半身になり、左手で顎を庇い右手は腰のあたりで構えた。
この二人の空気に、緊張していくアニュス。
先制したのはエリカ。
床を蹴って、福子の顔を狙って拳を振るっていく。
腕を上げてエリカの拳から庇い、ナイフを突き出した。
眉間を狙ってきた福子のナイフから、腕を上げて庇った。
逆手に持ち替えたナイフが、エリカの頭上を走る。
肘を腹に当てて、福子から間合いを取って後退した。
次は、福子からエリカに踏み込んでいく。
顔胸腹と狙ってくる刃先から、避けてトンファーで弾く。
福子の膝が腹に当たり、逆手のナイフが首を横切った。
間一髪で退いた。しかし、頸動脈は焼けるように熱い。
スピンした福子から、踵が飛んできた。
腕を交差して胸を庇うも、蹴り飛ばされた。
受け身を取って後転して、片膝を突いて顔を上げたとき。
風を鳴らして、福子のローキックが飛んできた。
百八〇センチ以上の“女”から繰り出される低空の蹴り。
ワイヤーの鞭の如く、体重を乗せたローキック。
咄嗟にトンファーで顔を防御したが、吹き飛んだ。
ゴーグルヘルメットが窪み、ひび割れた。
低く宙を舞い、側転して、床に落下して転がった。
ー私よりも、戦い慣れている……!ーー
驚愕していくエリカは、床から身を起こして再び構えた。
変形したゴーグルヘルメットに火花が走り、脱ぎ捨てた。
その現れた顔左半分は、老婆のように干からびていた。
以前は、左半身も同じような感じであった彼女。
三〇歳を過ぎてから突如起こった不可解な老化現象。
医師からは、これは癌の一種だと宣告を受けた。
過去、同種の癌患者にジョン・メリック。
またの名を、エレファントマン。
嗚呼、じゃあ私は近々死ぬのか。エリカが思ったとき。
持って半年ですな。今まで生きていたのが不思議です。
こう、医師から正直に言われた。
これから私は、どうすれば良い?違うことをヤるのか?
いいや。いつもの通りに、平日は海軍で仕事をして。
そして休日は、演劇の舞台を観ることを楽しめば良い。
私は、シェイクスピアと怪物が主人公の演劇が好きだった。
特にこの、オペラ座の怪人が好きで、リピートしている。
それから週末。私の休日と公演日程が重なった。
黒いロングワンピースに黒い帽子を被り。
顔左半分をレースで覆い、左腕を長手袋で隠して。
観る演目は、もちろんオペラ座の怪人である。
症状が発生する以前は、怪人ことエリックが嫌いだった。
今まで、エリカ・ルルーはヒロインに惹かれていた。
“これ”が発症してからは少しだけ怪人に同情する。
エリックの顔も、干からびて老人のようだったから。
なるほど。そりゃ歪んで卑屈になるわね。
“彼”のエゴは元々だけど。
けれど、“彼”と“私”は違う。私はギリギリで抑えている。
やっぱり、日頃からの軍事訓練の“たまもの”かしらね?
演劇も後半に入ったとき、隣で金髪の男が観賞していた。
線の細い、背の高い、白磁の肌をした美しい優男。
白いブラウスにスカーフタイ、黒いベストとスラックス。
エリカは思わず、そっち除けで優男に魅入ってしまった。
「君も好きなのかい? この怪物の物語が?」
彼の瞳が彼女を見て、血色の良い唇がこう聞いてきた。
気づかれていた! 私が見すぎた“せい”だわ。
「見ていたのはお互い様さ。僕も君の美しさが気になっていたよ」
「見すぎていた私が悪いんです。すみません……」
胸の高鳴りを久々に感じていた。
「僕の方こそ謝らないと。前から君を見ていたからね」
「…………え…………!」ドクン!と、大きな鼓動がした。
身体中から顔中に、熱を持って真っ赤になったエリカ。
このような感情は、生まれて初めてだった。
「僕の花嫁たちも君を認めているよ」
花嫁、たち?と、彼の隣に目を向けたら、長身美女が三人。
青いワンピースドレスと、赤紫のワンピースドレス。
そして、緑色のワンピースドレス。
「紹介しよう。ルカとヴィクトリアとアリエルだ」
「ルカ・ティンダロスです。よろしくね」
青いワンピースドレスの花嫁。
「ヴィクトリア・フランケンシュタインよ。よろしくね」
赤紫のワンピースドレスの花嫁。
「アリエルです。よろしくね」
緑色のワンピースドレスの花嫁。
ルカとヴィクトリアとアリエルに見とれてしまうエリカ。
優男が会話を再開していく。
「“不治の病”に罹ってしまったらしいね?」
「発症する以前から“その気”はありました」
「特殊な癌。だったっけ?」
「ええ。昔は特定不能な“病気”、だったそうよ」
「“そんな物”、僕からすれば大したことない」
「……? あなた、医者なの?」
「いいや、違う。けれど、僕の“血”はヒトの技術以上だ」
「輸血をする……、ていうこと。かしら?」
「うん。それと似たような物だよ。そして、君と僕の相性は良い」
「拒絶反応が出ない。という意味?」
「それもある。問題無い。あと、君は僕の“血を受け入れられる”よ」
「どういうことなの? 私を“からかっている”なら正直に言って」
「からかってなどいない。ーーーなんなら、ここで試してみる?」
「こ、ここで? 嘘でしょう?」
戸惑うエリカを気にすることなく、優男は指を鳴らした。
すると、会場から五人以外の他の客が全て消えていた。
しかも、演劇は続行中である。
だが、役者たちからは肝心な台詞が聞こえてこない。
いや。口は動いているが、元から声を発していないのか?
エリカの顎を、白い指が持ち上げた。
「お互いの紹介をしよう。僕はブラド・ドラコ・ツェペッシュ」
「私は……、エリカ・ルルー」
「素敵な名前だね。エリカ」
この声を聞いたときに、彼女の喉に小さな痛みが走った。
優男はエリカの白く細い首に、顔を埋めて噛みついた。
犬歯が伸びて、皮膚を突き破り。血管に到達した。
次に、頸動脈から彼女の血液を吸って飲んでいく。
エリカは身体中に痛みと快楽を同時に味わった。
脳を始めに身体が痺れを覚え、両目は潤んでいく。
頬は桜色に染まり、なにも考えられなくなった。
この時を浸るのかと思った矢先、首から優男が引いた。
「ありがとう。とても美味しい血だ。次は僕のを飲んでくれ」
こう言ったドラコは、彼女の返事を待たずに唇を重ねた。
すると、エリカの口内に鉄の臭いが溢れていく。
彼の血を嚥下していくごとに、彼女は変化を起こした。
干からびた左半身が、みるみると若さを取り戻し。
老婆と化した顔左半分は、張りと若さを得て唇が潤った。
それから、赤く細い糸を引いて彼が顔を離した。
「これが本来の君だね。ブロンドが似合う美しい人だ」
と、エリカの長い巻き毛に指で触れて、頬を撫でた。
彼に触れられる度に、彼女は“うぶ”な娘のようであった。
再び、ドラコの指が鳴ったとき、演劇会場は戻っていた。
「これで君は僕の花嫁だ。よろしく」こう微笑まれたとき。
エリカは自宅のベッドでドラコと情交していた。
久しぶりに男と“寝た”。
しかも、彼は一般の男たちとは“異質”。
彼の物が中で動くごとに、彼女は熱い悦楽の声を上げた。
彼と何度交わったことか。快楽の海に心地良い爛れがある。
そしてドラコが再び衣服を纏って去ろうとした足を止めて。
「そうそう。君の身体は大丈夫だけど顔は再び半分干からびる」
「どういう、こと……?」自身の左頬を撫でながら聞いていく。
「脳味噌はエネルギーを使う。だからそのための補充は必要だ」
「どうすれば良いの?」
「定期的に僕の血を受けるか、または他人の血を吸えば良いよ」
「あなたがいないときは、難しそうね」
「いいや、簡単さ。喉の渇きは異常なものだ。すぐ一線を超える」
「あはは。まさか……」と返したものの。
その翌週にエリカは他の男性兵士の喉に喰らいついて啜っていた。
速攻で除隊命令を受けた彼女は、ドラコの元に嫁いで。
最強の傭兵部隊、新世界十字軍へと入隊した。
「“それ”があなたの全てね」
と、福子の声によってエリカは“現在に”引き戻された。
時間にして僅かコンマゼロ数秒間。体感時間は数時間。
壁に項垂れるヤコブの遺体と、床の兵隊たちの死体を確認。
出来事が現在進行形であることを確かめたエリカ。
さっきのは、走馬灯なの? だったら、私は死ぬ?
ーそんな馬鹿な。縁起が悪い。ーー
干からびた唇の端が上がった。
「そうさ。半分ババアが私だ。オペラ座の怪人と同じさ」
福子には、人様の時間を視れる能力などなかった。
実質的に、エリカがヘルメットを外したのを見ただけ。
「薬を使わない癌の治療法なら、日本にあるわ」
「有難いお誘いだけど、私はもう、伯爵の血を受け入れたのよ」
エリカは少しだけ間を空けたのちに、再び言った。
「私は、他人の血を奪ったときから怪人になった」
「では、これから先も人から血を飲み続けるの?」
「伯爵と私は幸せに暮らすの。犠牲はしょうがないわ」
「じゃあ、私のヤることは決まったわね」
こう言って、福子はジャケット裏にナイフを収納した。
トンファーを構えて、エリカは用心していく。
両手の平を顔まで上げた福子が、後ろ襟に右手をまわしたあと、ヒュッと空気を鳴らしてエリカの肩にナイフを突き立てた。今度は左手を突き出した袖口から小型ナイフが射出されて、エリカの喉を狙う。腕を振り払ってトンファーでナイフを弾いた彼女は、左手のトンファーを福子へと放り投げた。袖口から射出直後に駆け出していた福子は、足下を狙ってきたトンファーを飛び退けて床を蹴り、エリカの頭を目掛けて跳び膝蹴りをしていく。宙の膝蹴りから両腕を上げて頭を防御したエリカは、着地した隙を狙って福子の肋へとミドルキックを打った。え?と彼女が思ったときには、福子から脇の下に脚を捕られていた。エリカは片足で軸を崩さないようにしながら、福子の頭へトンファーを叩き込んだ。腕を上げて頭を防御した福子が、エリカの顔面にジャブを三発お見舞いした。エリカは負けじと左フックを繰り出したら、叩き落とされて、福子から顔面と喉にストレートパンチを喰らった。一時的な呼吸困難になったエリカに足払いをした福子が、そのまま彼女を床に叩きつけて片脚を脇の下に挟んだまま馬乗りになり、顔胸喉に拳を浴びせていく。両腕を交差して拳の雨から防御していくエリカの隙を突いて、福子は彼女の肩のナイフを抜いて喉に突き刺した。二秒から三秒を置いたのちに、彼女の喉からナイフを引き抜いた福子。脇の下の力が弛んだ隙に、エリカは脚を引き抜いて、福子の胸を蹴って床を滑って離脱した。喉の傷口から、口の端からと、血を吐いて滴らせていきながらも、エリカは膝を突いて立ち上がり、再びトンファー片手に半身に構えていく。
左半分の干からびた唇が吊り上がり。フッと笑い。
立ち上がっていく福子を睨み付けた。
「“これ”で私を殺せるとでも思ってんの? 普通の人間じゃな……い……」
たちまち、喉から広がる悪寒と違和感に、エリカは脂汗を吹かせる。
蹴られた胸の靴底の埃を払い落とした福子が、彼女にひと言投げた。
「私は毒の研究者よ。なにも対策していないと思った?」
「ど、……毒……?」喉の傷口の周囲から黒ずんでいく。
「硝、酸、銀」
と、先ほど抜いたナイフを彼女に見せつけながら、福子は強調した。
「さっきテーブルの下で塗っておいたの。ーーー大蒜も駄目。十字架は無意味。日昼平気だから紫外線も効果無し。じゃあ、あるとしたら銀でしょう? 面白いことにね、どの文献でも獣人と吸血鬼は銀の弾丸や杭で倒されているの。読むだけじゃないわ。サンプルを仕入れて、実験と実証も重ねた。結果、“彼ら”の細胞が死滅したのが銀だったのよ。ーーーそして、“彼らの血”を受けて感染した者たちも、銀が体内に入った瞬間に“彼ら”と同じように合併症を起こして死滅するわ」
福子の言葉を耳に入れながら、エリカは喉を押さえて大きく繰り返して咳き込み、それはやがて大量の吐血をしていき、床に伏せて倒れ込んだ。喉の黒ずみも下顎と胸元まで広がりを見せて、大きく息を引いていったとき、エリカは絶命していた。この様子を最後まで見た福子は、彼女のもとに近寄って片膝を突いて先ほどのナイフを頭の横に静かに置くと、顔を撫でる仕草をして目蓋を閉じさせた。
膝を伸ばして立ち上がった福子は、アニュスに振り向くと。
「さあ、ダイヤちゃん。次は堂々と真正面から行くよ」
「はい、お姉さま」
そう福子へと、決意した表情で頷いた。




