亜沙里ちゃん、解放される
長い話になってしまいましたが、大事なエピソードなのでそのまま投稿します。
1
「来ちゃった」
なんだか晴れ晴れとした顔つきの、浜辺亜沙里。
切れ長で猫のような目の中に、稲穂色の瞳。高い鼻柱と、卵形の輪郭にほぼ左右対称の顔立ち。濡れたようにしっとりとした黒髪は腰まであり、天然のウェーブがかかっていた。その薄く艶やかな唇を開いて喋るごとに、チラチラと見える鈍色の尖った歯に可愛さがあった。百七〇センチを超える身長に見合った、細い身体つきだが豊かな胸の膨らみとややボリュームのある腰周りにより、亜沙里はメリハリのきいたボディーをしていた。その張りのある胸を惜し気もなく強調した両肩出しの、シルバーグレーのドルマンのサマーセーターを上着に、長い四肢の両脚の太ももを半分ほど見せたダークグレーのスカートをはいていた。そして、今夜の飲みの席で一番露出が高い女でもあった。
可愛い可愛い、と摩魚と同じように声を浴びた。
スッキリ感の溢れる表情で、面々に声をかける。
大きく挙手。
「私、マインドコントロール完全に解けたよ」
「は?」一同、間抜けな声をあげた。
このとき、摩魚と紅子と海馬をのぞく。
そんな中に、幽霊を発見。
「ミ、ミドリ!」
悲鳴混じりだが、なんとか叫びを抑え込んだ。
亜沙里に向けて、笑顔で手を振っていく。
「久しぶり。元気だった?」
「元気もなにも……。私、洗脳が解けた状態だから最っっ高に気分がいいんだけど。というかあなた、私の代わりに生贄に行って死んだか消えたかと聞いたんだよ」
ミドリが私の身代わりに生贄になってくれた、といった記憶が深い傷となっているために、悲しそうな表情で語りかけていく。
「もう、あなたに会えないかと思っていたんだ」
「前に一度、大学で会ったじゃない。精神体だけどね」
「そうだっけ?ーーーへ? 精神……体……?」
「そう。精神体。肉体は今ロリコン女に盗まれて、勝手に好き放題使われているけどね。そのうち取り戻してみせるよ」
ミドリの簡単な説明を聞いた亜沙里は、なにがなんだかワケワカメみたいな顔をした。そして腕を組んで仁王立ちになり、ひと言。このような態度は、本当に母親の浜辺銀にそっくりである。
「私、マインドコントロールされてから解けるまで無学無職だったから頭いいわけじゃないんだ。だから、詳しく話してくれない? 協力できるなら協力したいから。お願い」
「ミドリちゃん。私と摩魚ちゃんにも詳しく聞かせて」
紅子と一緒に座っている海馬も、黄金色の髪の毛の女へ頼んでいった。摩魚と海馬、そして亜沙里を見たミドリは柔らかい微笑みを浮かべた。
「いいよ。ここに来れた理由も話すから、よく聞いてね。ーーーその前に、私の隣に座って。お願い」
それから。
「ミドリちゃん、大変だね」
「ミドリちゃん。取り戻せるかも」
「ミドリ。なんだか分からないけれど、希望はあるよ」
そう言ってくれる女たち三人の目は、キラキラとしていた。
当のミドリは、両脇に座る摩魚と亜沙里の手を優しく握って、ニコニコ笑い出した。今の席は、ソファーに響子と摩魚、二つのパイプ椅子にミドリと亜沙里。そして、雷蔵を挟んで福子とマキと座っている。
「ところで、あなた。どうやってマインドコントロール解けたの? あと、完全にって、なに?」
と、ヒメの隣に座るニーナから疑問を投げられた。
「ああ、それね」
明るい顔をして椅子から立ち上がると、雷蔵を見る。
青年の方に身体を向けるなり、後ろに手をやって上着の裾を捲りあげていきながら上体を前に傾けたとき、距離はあるが雷蔵の目には亜沙里の胸の膨らみと谷間が入る格好となった。そうやった腰の後ろには、なにやら雑誌がスカートに挟んである。日付けからして、今週号のか。そして後ろから雑誌を取り出していく間は、目のやり場に困っていた雷蔵がいた。逆に、響子と福子とマキと紅子は亜沙里の胸の膨らみと張りに感心していたようだ。
「あのー、亜沙里ちゃん。なにやってんの?」
つき出された亜沙里のお尻から視線を外していたヒメの疑問に。
「え? この兄さんをからかってみただけです」
腰の後ろから取り出し終えた雑誌を片手に持って、笑顔をヒメに見せた亜沙里の答え。そして、ページをめくっていって見つけるなりに、腰に片手を乗せてミドリの後ろに立って紙面を見せた。
「これ。これを見たときに、私は正気に戻って解放されたよ」
そのページには、ミドリと摩魚がデートしている様子やホテルから出てきたところの写真が数枚ほど、記者が書いた文章とともに掲載されていた。あと、流出を禁止することを約束していたはずのミドリの単独インタビューの映像の切り抜き写真も載っていたのだ。これは、彼女の妹のタヱとも固く約束したはずだったが、裏切られたのである。
誰に?
ページを見せてもらった瞬間に、青筋が顔に浮かんだミドリ。
「あの眼鏡ちゃん、やってくれたわね」
鈍色の尖った歯を食いしばって、怒りをあらわにした。
あの眼鏡ちゃん。
これを聞いて誰かと分かって驚愕していた、ニーナ。
「あの写真部の子、あなただけでなくタヱちゃんも裏切ったんだよ! あたし、見てた。みなもちゃんと一緒に長崎大学にあなたの情報を集めに行ったときに、写真部の眼鏡の女の子と話して、その子はあたしたちの前でタヱちゃんに固く約束していたのよ。絶対外部に出さないって」
現場にいたことを語るニーナの額にも、青筋が浮かんでいた。
雷蔵も口を開いた。
「俺もそこに立ち会っていたから、よく覚えているよ。本当に裏切ったとしたら、気分悪いなあ」
そう語る彼氏の顔に浮かぶ青筋を見た響子。
これらを聞いていた摩魚も、写真部の誰だかが知らないわけではなかった。キャンパス構内のトイレにいたとき、虹色の鱗を盗撮していた相手は眼鏡をした小柄な髪の毛の長い女性、片倉祐美だった。
スクープが載った雑誌をミドリに渡したあとに、亜沙里は再びパイプ椅子に腰を下ろした。
「まあ、その子はあなたたちを裏切っただけでなく、摩魚も危険にさらしたことになるね。ご家族のみんなに取材が行くことは考えられるでしょうよ」
そう言っていた亜沙里も、なんだか怒っていたようだ。
「こんな空気にさせて悪いなあと思うけど。私のマインドコントロールが完全に解けたそのきっかけが、あなたとあなたとのデートの写真。私も、なんでこの写真を見て私が私に帰ってきたのかも分からない。まあでも、これで完全に解放されたんだから良しと」
周りに目配りのあと、ミドリと摩魚に稲穂色の瞳を流して。
「良しと言うのは、このスクープじゃない。あなたとあなたの写真を私が見たということが良し」
2
「ねえ、亜沙里さん」
「ん?」
「マインドコントロールが解けるときって、どんな感じだったんですか?」
「ああ、それね」
摩魚越しにきた響子の質問に、亜沙里は答え出した。
「まず、一度目の解放が半月前にあったの。原因は確か……、変な夢を見たあとだった。私含めて七人の女が、虹色の怪獣を呼び出す変な夢。このあとおトイレで青白いのを吐いた。ーーーそして二度目が、なんかねー。一度目のときとは桁違いだったよ。洗脳されていたときから今までやってきたことが、ドバーーっと頭の中に流れてきてね。良いことも悪いことも一気にくるんだ。私が受けていた最悪なことも、私がやった最悪なことも、解けたそのときって逃げられないから全部受け止めなきゃいけなくなるわけよ。そしたら、どうなると思う?」
「身体中が汚れてしまった感じ」
「そう、だいたいそんな感じ。頭の中も外も、身体中の中も外も私の奥底から吐き出された汚い水を内側から受け止めた感覚だから、もう、全体に嫌悪感と悪寒まみれになってね。吐いた。龍海に悪いとは思ったけど、止まらなかったよ。畳と庭にゲーゲー吐いた。こんなゲロの量がいったい私の身体のどこにあったのさ、と思うくらい信じられないほどの吐瀉物だったわ」
「そのあとは?」
「直後はスッキリ。でもそのあとは、私がしてきたことと私がされてきたことが鮮明な記憶で残っているよ。だから、その……」
ミドリと摩魚を見たあと、ニーナに振り向いて。
「あのときは、ごめんなさい。あなたとタヱちゃんと“みなも”さんに一生残る傷をつけてしまって。あと、みなもさんに会ったら、気持ち悪いことしてごめんなさいって言うから」
これを聞いたニーナは思い詰めた顔をして、言葉を出していく。
「あのさ。あなたの家に来たとき、あたしたち三人は部屋にあったゴミ箱に捨てられていたたくさんの使用済みコンドームを見てね、吐き気と気持ち悪さとあと、あなたが可哀想になっていたんだ。とくにあたしは魔法を使うから、部屋の中に妖術を使ったあとのような“臭い”を感じてね。亜沙里さんが受けていたのはマインドコントロールだけじゃなくて、誰かから術を使われて自我も奪われていたんじゃないかな。女として聞くのも答えさせるのも、あたしは嫌だけど」
これを耳に入れた瞬間、亜沙里は椅子に背中をあずけて事務所の天井を見上げたのちに、再び目線をこの場にいるみんなに合わせたと思ったら、福子とマキに顔を向けた。
「福子さんとマキさんと同じ眼をした、磯野フナっていう年齢不詳な小さな老婆がたびたび私の家に来たり、私を連れていったりしていたんだ。最近では、龍海のところに来て、私を連れ出していたりしてね。あの婆さん、今日は“お勤め”はたしに行くよと声をかけたときに婆さんの瞳が強く光ったと思ったときは、私がどっかに行っちゃってた。ーーーでも今は嫌だけど覚えているよ。あの婆さんが連れてきた何人もの男の信者たちから“まわされて”いたこと。代わる代わるだったなあ。キモかった。その信者たちの中に、フナ婆さんと同じ眼をした男たちもいたんだ。ーーーそういうことも思い出して吐いたあとは、シャワーを浴びたり風呂に入った身体中を洗い流したんだけど。落ちないの。今まで汚されたモノが落ちないの。年甲斐もなく大声で泣いていたときに、摩魚と紅子さんと海馬おばさんと、あと、駆けつけてきてくれた母さんが風呂場まできてくれたんだ。とくに母さんは今日は仕事中だったのに、愛車を飛ばして私のところまで来てくれた。嬉しかったよ」
この話しを涙目になりがら聞いていた面々。
その中で、虎縞福子が切り出してきた。
「亜沙里さん。他の国では分かりませんが、この国では私とマキさんと志田さんのように国籍を取れて日本人として生活をしている『人魚』がいます。もともと私たち人魚は妖怪といった種族なので、妖術や妖気は操ることはできます。“個体差”によりますが。しかし、ここで“人”として生活する上ではまず使いません。使う必要もありません。ーーーただし、暴力的ではない良い方向の使い方の協力を頼まれた場合は、私は喜んで使いますけど」
こう言って、雷蔵と響子に笑顔を見せた。
すると、雷蔵の隣の磯野マキが申し訳なさそうに手を上げてきて、引きつった感じの笑みで語り出した。
「あのー。わたくし、最近まで『世間体の顔の術』を使っていたんですけれど」
「え? でも、あなたこの五年間はそのままの顔じゃない」
「ええ、まあ」
福子に返されて、照れくさそうに会釈する。
これらを聞いていた亜沙里は、腕を組んで姿勢をただした。
「じゃあ、あのフナ婆さん。私を男信者たちの“おもちゃ”にするために妖術を使っていたということ?ーーーそこのあなたたちみたいに、年が分からないけど綺麗な人は顔に出て綺麗だよね。だからあの婆さん、やっていることが酷いから、それが顔に出て醜くなっていたんだな」
お前言うねえ、といった感心の視線を浴びていた当の亜沙里はとくだんこれに気にすることはなく。というか、気づいていない。
「だけど私。洗脳されている間は本当になんにも教えてもらえなかったんだね。無学もここまでくるとキツいなあー」
「亜沙里ちゃん。私も龍海も動けなかったのよ。私は息子を人質にされて大きな動きができない。龍海もあなたを人質にされて大きな動きができない。本当になにもできなかったんだけど、あなたが自分を取り戻してからすぐ動き出したでしょ」
深刻な顔をして話してきた海馬は、後半からは笑みを浮かべていた。この赤い瞳の女の笑みを見た亜沙里を含めたメンバーは、これが美しく年を重ねた女の表情か!と感心して見惚れた。
「あなたに一般常識を教えたら、制裁されてしまうから」
「制裁って……」
「男は社会的にも世間的にも抹消されて。女の場合は…………、この先はもう言わなくても分かるでしょ。今の亜沙里ちゃんはカラッポじゃないのよ。あなたの中には、あなたがいる。じぶんがなにをすれば良いか、なにをしたら良いかを考えなさい」
「そうする。私だけじゃ無理だった場合は、母さんとみんなに頼るよ」
亜沙里は、組んでいた腕をいつの間にか解いていた。
「そういえば、私が高校生のときにあなたにも気持ち悪いことしてしまったよね。ごめんなさい。謝って済むことじゃないけれど」
ミドリ越しに摩魚を見て、声をかけた。
これを驚いた顔で聞いていた摩魚が、そのあとたちまち恥ずかしそうな微笑みを浮かべて亜沙里に返していく。
「あのときは本当にびっくりして泣いたよ。肩まで舐められたから。ーーーでも、その……、キスはドキドキしたかなあ。される前と終わったあとも」
「……は?」
亜沙里を含めた全員が、この反応。
「ええと……。勉強のし過ぎでは……?」
「え? ま、まさか。私は正気だったよ」
「そう? まあ、この場で謝っておかないと今度はいつになるのか分からないからね」
そう言い終わって、天井高く両腕を上げて大きく伸びをしたあとに、欠伸をひとつすると目もとの涙を指で拭っていった。この亜沙里の一連の動作を見ていたニーナがひと言。
「あなたって本っっ当に猫みたいで可愛いのね」
「この子の母親の銀さんも、猫みたいなのよ」
隣のヒメから話しかけられた。
「へえ、そうなんだ。ぜひ会ってみたいですね。ーーーそれと亜沙里さん。あなた、あたしと“みなも”さんとタヱちゃんと最初に会った暗い感じと違って、ずーっと明るいんだけど。良いわね」
「そうなの? どんな顔をしていたかまではよく覚えていないから、今度から鏡見てみるよ」
ニコニコとしてニーナに答えた。
それはそうとして。
海淵海馬の先ほどの言葉が気になっていた雷蔵が、紅子の隣に座る赤い瞳の女に話しかけた。
「海馬さん。すぐ動き出したってなんですか?」
「ああ、それね。今から話すから」
3
ここからは、海淵龍海の隠れ家で起こったこととなる。
今週の半ばまで遡る。
マインドコントロールが解ける前の時間。
朝。“家”に浜辺亜沙里と海原摩魚と盃戸蘭の三人娘に“お留守番”を頼んで、龍海は母親の海馬と龍宮紅子と一緒に生活必需品の買い出しに向かった。買い物が終わって荷物を母親の、海馬のダークブルーのワゴンタイプのトランクに積み込んで“家”を目指して走らせた。その途中、コンビニに張り出されていた週刊誌の広告の『消えた元芸能人、潮干ミドリの新たなスキャンダル!』といったコピーを目にした三人は店の駐車場に停めた車内から降りて、週刊誌『週刊春秋』を購入。
帰路を走らせていた中で、助手席の龍海が呟いた。
「あのとき、強引にでもネガとVHSを取り上げておけば良かった」
「本当にそう思う?」
ハンドル操作をしながら、母親は息子に赤い瞳を流した。
そして再び目線を前に戻して言葉を続けていく。
「あんたも知っていると思うけど。今はデジタル化されてコピーし放題よ。データを保存できるUSBメモリも複数持とうと思えばいくらでもできるでしょ。ミドリちゃんの“あの動画”の流出も、しようとすれば今や簡単。ただし、使う人しだいだけどね。ーーーところで、長崎大学で戦ってみた榊雷蔵くんとはどうだったの? 強かったんじゃない?」
高校卒業してからは“魚化”が止まっていた龍海。
最後のあたりで楽しそうに聞いてきた母親の質問に、数秒沈黙。
稲穂色の眼を運転中の海馬に向けたあと、再びフロントガラスを流れていく景色に戻して語り出した。
「あの男は良い奴だったよ。なるべくなら、もう一度だけ今回の件を抜いて純粋に拳を交えてみたいと思う。こうした件が絡んでからじゃ嫌だ。アイツ、俺の容姿に関係なく拳を振るってきてくれたから。正直、榊雷蔵に会えるならもう一度だけ会ってみたい。大学では消化不良だったよ。だから、次は思う存分あの男と戦ってみたくてたまらないんだ。ーーーしかし、あの写真部のチビは駄目だ。海原さんを隠し撮りしていたり、潮干さんをつけ回していたり。それが今回のこの雑誌に載ってたスクープだ」
一連の息子の言葉を受け止めた海馬が。
「あんたそれね。“彼”に恋い焦がれているんだよ」
「そうだよ。そうとしか思えない。そして、強い」
「母さんも先日、雷蔵くんとその大切な“相棒”と会って話してきたから彼の人柄はだいたい分かったかな」
「へえ。どうだった?」
「母さんたちの前で、相棒の瀬川響子ちゃんとイチャイチャしていた」
「は……? え?」
「肘で小突いたり、顔を見合わせてニコッとしていたり」
「仲良しだな」
「仲良しどころじゃないわよ。雷蔵くんと響子ちゃん、私たちの前で、もうお互い以外の相棒は考えられませんって宣言されちゃった」
「……? なんの話しを聞いてきたんだよ。惚気を聞かされに会いに行ったのか? リエおばさんと銀おばさんと潮おばさん、わざわざ時間を作ってくれたんだよね」
戸惑い動揺した龍海。
この息子の反応に、母親は微笑み。
「まあ、いいんじゃない。私たちも重要な話しを聞けたし。あの仲良し二人に私たちの現状も話せたし。母さん、とっても有意義な時間をすごせたと思ってる」
「ま、まあ、いい時間を使えたなら、それでいいか」
後部座席の運転席の後ろで窓枠に肘を乗せて、流れていく景色を見ていた紅子が、クリアーのリップを引いていた薄い唇を開いていった。
「私もそう思います。あの二人って素敵ですよね」
あの二人。榊雷蔵と瀬川響子のことである。
頬をほんのり赤く染めてのひと言だった。
この“娘”のことは先日に瀬川響子から聞いていた。
知ってはいたが、野次馬根性で確かめたいところ。
この様子をミラー越しに見ていた海馬。
「ねえ、紅子さ。あなた夏に入ってからずっと可愛いんだけど。なにかあった?」
「え、いや……。べつに、なんにも、ない、です……」
「そう? 私から見たら、それ恋している顔なんだよね」
「まさか。私もう、百年近くそんなこと“ない”んですよ。だから、この先も“ない”です。…………と、思いたい」
否定していてもモロに顔に出てしまっていた紅子。
彼女の数十年ぶりの恋人は、若い刑事だった。
これを微笑ましいと思ったのか、海淵海馬は車内のコントロールパネルのダウンロードを操作して、洋楽を再生していった。息子の龍海は前に、将来、教団が崩壊したら酒蔵を継ぎたいと海馬に話していたことがあった。このひと言に、海馬は夫の海蔵と一緒に喜んだ。
「龍海。女の子の世話って大変でしょ?」
「ああ。こんなに大変だったとは思っていなかった」
「まあそんな大変なことも、亜沙里ちゃんのマインドコントロールが解ければ終わるから。もうちょい頑張って」
「頑張ってみるよ。亜沙里“さん”のためだ」
マインドコントロールされている今の亜沙里は龍海のことをどう思っているのかは不明であったが、龍海の亜沙里に対する好意は本物であった。だから、悩みもしてきた。磯野フナから術をかけられて自我を失った状態で操られ、今まで今でも複数の教団の男信者たちと雄人魚たちにその身体を一方的に好きにされている浜辺亜沙里のことは龍海も母親も、亜沙里の母親の銀も知っていた。この件について、前に銀から電話を受けたことがあり、それは「マインドコントロールされているけれど、あの子はあなたのことが好きみたいだから、なるべく私の娘と、亜沙里と関係を持ってほしいの。どこの誰かと分からない男の子供を妊娠してしまうよりも、龍海くんとの間に生まれた子供が娘のためになると思っているから、教団と雄人魚の誰よりも私の娘と関係を持ってちょうだい。お願いします」と、疲労していた感じで声に力がなかった。そのようなことを思い出していたうちに、隠れ家こと“家”に到着。
山の中腹まで引いてある地域の道路を上り、約三台ほどの駐車スペースの端にダークブルーのワゴンタイプを停めて、三人は荷物をおろして運んでいく。引戸の玄関を開けて“家”の中に入ったとき、帰ってきた三人は違和感に気づいた。荷物をそれぞれが畳に一旦置いたのち、部屋を見渡した龍海が亜沙里を見て聞いていった。
「あの銀髪、どこにいる?」
「これを私たちに見せて、さっさと出ていってしまったよ」
こう差し出された一枚の紙を受け取って、目を通す。
そこには。
『みなさまには本当にお世話になりました。
私は家を出なくてはならなくなりました。
ここでの数々の楽しいことは、忘れません。
今までいろいろと、ありがとうございました。
盃戸蘭こと胚瞳羅より』
「逃げたな」額に青筋を浮かべた龍海。
「油断した」顔と首に青筋が浮かんだ海馬。
匿っていたというより、監視下に置いていた盃戸蘭こと胚瞳羅。蛇轟秘密教団に監禁されていたところを逃げ出して、途中で躊躇することなく人々を簡単に殺してきたあとに、龍海の隠れ家へっ流れ着いた女だった。この銀髪の女神には、この隠れ家の住所などいっさい教えておらず、知らないはずであった。それが「私をしばらく匿って」と頼みにきたのだ。海中で潮干ミドリの身体を横取りして、浜に上がってきたところを教団幹部の鰐蝶之助と率いる手下たちに捕まってしまい監禁されていた。女神ハイドラの受けた監禁生活は、だいたい一年間。潮干ミドリが海中で“消えて”から、ほんの数日後のことであった。教団内で秘密裏にされてきたことだから、経過を知る人はひじょうに少ない。
「殺人鬼が逃げ出したのは面倒くさいな」
「町で見つけたら、私が正当防衛ですと主張して一発殴っておくから大丈夫」
「な に が、大丈夫なんですか?」
海馬のこのひと言に動揺した紅子が突っ込んだ。
困った顔の紅子に可愛さを感じたのか、赤い瞳を流して微笑んだ。
「まあいいじゃない。あとからできることはあとからすればいいし。とりあえずは、今できることからしようか。みんな、お腹空いたでしょ? 私がお昼作ってあげるね」
そう言って、天然ウェーブのある長い黒髪を襟足でくくって、海馬は腕まくりをした。
昼食が終わって後片付けも済んで。
買い出しに行った荷物の中から、海馬はひとつ取り出して摩魚に手渡した。
「はい、摩魚ちゃん。新しいお洋服。今回は紅子が選んでくれたのよ」
「え。そうですか。ありがとうございます」
やや吊り上がった目を見開いて、キラキラさせた。
“姫様”のこの反応に、女たち三人は可愛い!と目尻を下げた。
「良かったね。摩魚」
「うん」
満面の笑顔で、亜沙里に頷いた。
今度は生活必需品の片付けが始まったわけだが。
『週刊春秋』の存在に気づいた亜沙里が、手に取って読みだした。すると、そこに載っていた潮干ミドリと海原摩魚とが楽しそうにデートをしている隠し撮りされた写真と二人がホテルから出てきたところを撮られていた写真との数枚を目にした、その途端。亜沙里は頭を片手で押さえて足もとをふらつかせていった。雑誌を畳に放り投げ、片手で頭をもう片方の手で腹を押さえてしゃがみ込んだ。苦痛と嗚咽が洩れていく。これに気づいた四人は、それぞれ駆け寄ってきた。
「どうした! 亜沙里!」
「亜沙里!」
「亜沙里ちゃん!」
「亜沙里ちゃん!」
畳で転がって四人から距離を取って、苦痛混じりに声を投げた。
「駄目! 危ない! そのまま!」
直後、苦痛の嗚咽と同時に、亜沙里は嘔吐した。
先ほど食べた昼の分を全て吐き出して咳き込み、泣き声も混ざっていた。そして次は、ふらふらと立ち上がり、おぼつかない足で庭まで歩いていき縁側にしゃがみ込んで、嘔吐の続きを開始していった。それは、女ひとりからは考えられないと思えるくらいに、大量に吐き出されていく吐瀉物であった。胃液がほとんどであったが、亜沙里の体型に変化が見られないことから、これはまた体液とは全く別物が彼女の奥から出てきているのだと思われた。やがて、約十分が経ったあと、吐き終えた亜沙里は力が抜けた感じで立ち上がり、流れ出る涙を拭いながら四人に話していった。
「私。“私が私じゃなかった”。でも私、最悪なことした……。ごめんなさい、海馬さん。ごめんなさい、真海ちゃん。潮さん、ごめんなさい。有子さん、ごめんなさい」
この娘の言葉に胸を詰まらせた海馬は、赤い瞳を涙で溜めて頷いた。そして、優しく彼女の肩を抱き寄せて。
「もう、もういいのよ。今までよく堪えたわね。偉いわ、亜沙里ちゃん。よく頑張った。さあ、今からお風呂に行こう。それから、洗い流そう」
「うう……。ごめんなさい、ミドリ。リエおばさん、ごめんなさい。タヱちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい……」
記憶とともに流れ出てくる犯した過ちに、亜沙里はただひたすら謝罪の言葉を出していった。これを聞いていた紅子もその切れ長な目に涙を浮かべて、摩魚に振り向き、話していく。
「亜沙里ちゃん、とうとう、ついにマインドコントロールが解けたんだよ! 良かった! 本当に、良かった!」
その横で涙を上着の袖で拭った龍海は、襟元を整えるとひと言を出してきた。
「よし。後片付けしたら、準備に取りかかろう」
「摩魚ちゃん。私たちも龍海くんと一緒に片付けようか」
「え。ああ、はい……」
正直、摩魚は泣きそうだった。
高校の時から亜沙里の悩みと辛さを知っていたから。
風呂場の方向を気にしながら、紅子についていった。
「いやああーー! やめて! いや! 汚い!」
「うわあああん! 落ちないよお! 汚いよお!」
「うげえー! もう、やだ! もうやだ! 助けて!」
「汚い! 汚いよお! あと何人くるの! やめてよ!」
「落ちない! 落ちないよ! 誰か落として! うわあああん!」
風呂場から聞こえてきた亜沙里の悲鳴と泣き声に、龍海は緊急連絡として、母親の浜辺銀の勤務先へと電話をかけた。その数分後、けたたましいエンジン音とともにシルバーのスポーツタイプの車が到着して、ソバージュをかけた美しい女性が“家”へと飛び入ってきた。
「亜沙里はどこ!」
「風呂場です。俺の母と紅子さんと海原さんが介抱しています。お願いします」
「ありがとう!」
そう礼を述べて、ソバージュの美人は龍海の示した方向へ駆けて行った。やがて、泣きじゃくっていく娘、亜沙里の姿を見た瞬間、母親の銀は飛びついて抱きしめた。介抱していた女三人は、そのときに後ろへと退いた。
「亜沙里、おかえりなさい! お母さんがきたから、もう大丈夫よ!」
「うわあああん! お母さん! ただいま! ただいま!」
娘も母親を強く抱きしめた。
「私、みんなに悪いことしちゃった! ごめんなさい! ごめんなさい! みんな、ごめんなさい!」
そして、涙を拭きながら海馬と紅子と摩魚は浴室から出ていき、娘と母親の二人きりにした。
それから。
海馬と、母親の浜辺銀に肩を抱かれながら八畳間に戻ってきた亜沙里。母娘ともども泣き腫らした目もとだったが、晴れ晴れとしていた顔立ちであった。亜沙里は緊急で用意した、白いTシャツにジーパン。母親の銀は仕事着で飛び入りしてきたので、グレーの三つ揃いの膝丈スカートにインナーは薄いブルーのカッターシャツ、ソバージュの髪をハーフアップにして、ピンク色の口紅を引いているといった格好であった。それでも映えてしまうのは、備わった美しさゆえか。そして、海馬の上着は広くV字に切れている襟元の赤いシャツで、鎖骨と胸元を露出して、下はダークブルーの膝丈スカートだった。
そして、お膳を囲って座っていく。
亜沙里の隣に銀。
紅子。
龍海の隣に海馬。
摩魚。
正座した亜沙里が、姿勢を正して四人に目を合わせたあと、深々と頭を下げていった。
「ただいま戻りました。大変遅くなって、ごめんなさい」
「とんでもない」
「待っていたのよ」
龍海と海馬から笑顔で、こう迎えられた。
「いろいろと話しがあるけれど、まずは海原さんの外出許可をもらいに行くことから始めよう」
「どうやって?」
紅子の質問に、龍海は。
「俺がフナさんに頭を下げてくる」
「え? あの“人”に対して頭を下げるの?」
「はい。“こういうこと”はここにいる俺の役目です」
「…………。そう、そうだよね。でも、早く“こんな役目”から君が解放されてほしいと私は思っているよ」
驚きを見せた紅子だったが、龍海の答えに沈黙したあとに、表情を和らげて希望を述べた。
「ありがとうございます」
頭を下げて礼を言った龍海の肩に、紅子は優しく手を乗せた。
そして頭を上げて、スマホをスラックスの後ろポケットから取り出して、どこかへと電話していく。呼び出し音を三回ほど鳴らして、向こう側の相手が応じてきた。
「摩周マルさんですか。海淵龍海です」
『お疲れさまです』
「“浜”に“親子”が“帰還”しました」
『ウッヒョー! 良かったじゃん! 良かったじゃん!』
「俺も一緒に喜びたいところですが、さっそく“オンラインゲームを楽しんで”ください」
『了解。任せて。ーーー“ダウンロード”まで1分。“揺れたら”良いよ』
「ありがとうございます」
『こちらこそ。じゃあね』
電話の相手は、実に元気で若々しい女の声だった。
十代後半だと思われる。
スマホを再び後ろのポケットにしまい込んだ。
この龍海と話し相手の会話に。
「なにがなんだか」
「わけわかめ」
亜沙里と摩魚の反応だった。
実に息ピッタリ。
紅子を見た。沈黙。
母親の銀を見る。沈黙。
海馬に視線を送った。沈黙。
龍海はどうか?沈黙。
まあ、とりあえず黙っておけば良いか。
だいたい1分が経過。
龍海の腰の後ろからバイブレーション音が鳴った。
「よし!」
魚顔の青年の上げたひと声に、摩魚と亜沙里がビクッとした。
八畳間から奥の部屋に移動していく龍海を見ていく。
摩魚は赤い瞳の女に話しかけようとする。
「あのー。おばさん。いったいなにが……」
「よーし! 私たちも解放だ!」
「おーし! 職場に戻るぞー!」
すると、海馬と銀が大きな伸びをしていった。
亜沙里は母親のベストを摘まんで。
「ねえ、母さん。今からなにが始まるの?」
「ん? 今からね、母さんたちとあなたたち、これで教団に抵抗することができるようになったのよ」
我が娘の頭を撫でながら、浜辺銀は笑顔で答えていった。
そして、奥の部屋から龍海が戻ってきた。男のその両手には、黒くて薄い物が二つ掴まれている。座布団に腰をおろして、ひとつは龍海の前に、あとひとつは亜沙里の前に置いて上下に開けて見せた。それから、部屋の隅にあるコンセントにケーブルを繋いで電源を入れていく。起動音が鳴り、ノートパソコンは息を吹き返した。待受画面の中に、いくつかのファイルを発見。それを龍海は指先で器用にクリック操作をして、二つのノートパソコンに同時に映像を出した。画面は四つから六つに区切りを増やして、一旦操作を止めた。それらの画面に映し出されていたのは、隠れ家の部屋だったのだ。でも、様子がおかしい。
「見つけるのが難しかったけど、これでどこに隠しカメラがあるのかが分かったな。やっぱりというか、予想していたが、俺たちを監視していたか」
「ふん。あのフナ婆さん、覗き趣味もあったなんてね」
海淵親子がパソコンを見ながら口角を上げた。
紅子も摩魚も身をのりだし、画面を見せてもらう。
亜沙里も、母親と一緒になって映像を見る。
「母さん、これ、まさか……。ええ……」
「監視という名の覗き行為よ。悪趣味よね」
「いや、でもこれ、今の私たちと違う、ような……」
違和感に気づいた亜沙里。
「そうだ。今の俺たちじゃない。AIに学習してもらって作り上げた偽物の監視映像だよ。だから磯野フナの一味のパネルには、この映像が出ているはずだ」
龍海の言葉を、必死に理解しようとしていた亜沙里。
黙って見ていた摩魚。
龍海は話しを続けていく。
「マルさんのおかげで、今から磯野フナのもとに行く映像はこれらの偽物がいくことになる。もちろん、アリバイ作りのためにも本物にも切り替えたりしてやっていくつもりだ。先ほどまでと違って、動きやすくなったぞ。無理なことはこれから断わるようにしていくから、亜沙里さんはもう、これから先は無理しなくていいんだよ。俺が今までのようにはさせないつもりだ」
「ありがとう、龍海」
これを隣で見ていた浜辺銀は、我が娘の肩に手をやって目で合図を送った。亜沙里のほうも、隣の我が母親の目を見つめる。そして、姿勢を正して龍海に向き直る。
「あのね、私。母さんたちと話してきたんだ」
「どうしたんだ?」
「私の気持ちは本当だということ」
「え……」
亜沙里のこのひと言に、龍海はあるていど察しがついた。
察しがついたが、この先の言葉を確かめたい思いがあった。
亜沙里は続けていく。
「マインドコントロールされていた私だけど、龍海が好きなのは本当だよ。前も今もこの気持ちは変わらない。あなたが、高校でいろんな人たちからいろいろと言われていたのは知っていたよ。私はそれが許せなかった。高校生のとき、放課後の教室で私が発作を起こすたびに、龍海は見捨てることなく助けてくれた。私、嬉しかったよ。ーーー発作の原因もなんとなく分かっていたんだ。中にいた私が“外”を見ることができたときに限ってね、マインドコントロールされている私と喧嘩してぶつかって、ぐらぐら揺れて訳が分からなくなった結果が発作だったの。いつも洗脳されていた私に負けていたけれど、今日でやっと勝てた。長かったよ……。本当に、長かった……。嬉しい、嬉しい……」
猫のような目に涙が溜まっていく。
娘の稲穂色の瞳はキラキラと輝いた。
下唇を噛みしめて、泣き出すことをこらえる。
「私は龍海に支えてもらってばっかりだった。あなたがいないと、私、駄目になりそう……。母さんも大切だけど、龍海が大切なの……。だから、なにもできない私ができることは、全てのあなたを受け入れられること。どんなあなたでも私は受け入れる。こんなに好きで好きでたまらない人は、他にいないの。ーーー私、龍海と一緒になりたい。そして、あなたのところの酒蔵でいろいろと勉強して、覚えたい。大変なあなたを少しでも支えられるようになりたい。ーーーよろしくお願いします」
最後は、亜沙里は母親とともに深々と頭を下げた。
そして龍海が、母親の海馬と目を合わせて亜沙里に向き直る。
「こんな俺ですが、よろしくお願いします。俺も亜沙里が好きだよ。俺も君が大切な人だ。亜沙里と知り合えて良かったと本当に思っている。君との将来のことをいろいろと考えているんだ。そして、実現したい。ーーー俺も、亜沙里と一緒になりたい。どうか、よろしくお願いします」
酒蔵の母息子も、深々と頭を下げて応えた。
これを見た亜沙里と母親の銀は、抱き合って声をあげて泣いていった。今度の涙は嬉し涙であった。息子の隣で、母親の海馬が声を押し殺して涙を指で拭っていく。紅子は龍海に抱きつき、摩魚は海馬に抱きつき、一緒になって涙を流していった。
そして浜辺銀は、我が娘の帰還をささやかながらも仲間とともに祝った。
あれからどれくらい経ったのか。
全員が、次に取りかかろうとしていた。
浜辺銀は我が娘と一緒にいたかったが、職場に戻った。
龍海は磯野フナを電話で呼び出して、摩魚の外出許可の承諾を得ようと試みていく。
「もしもし、磯野フナさんですか。海淵龍海です」
『お疲れさん。相変わらずよくやっているようだね』
「ありがとうございます」
『どういたしまして』
「今日はというか、今日からのことで、折り入って頼みがあります」
『なんだい? 一応、聞いてあげるよ』
「海原摩魚の外出を許してほしいと思いまして。正直、閉じこもりっきりは彼女に限界があろうかと思われます」
『そうだねえ。駄目とは言わないが、誘拐の捜査でほぼ連日メディアが摩魚を追っているんだよ。そしてなによりも、外に出たら出たで目立つんじゃないかいか?』
「意外と目立たないものです」
『そんなものかね』
「そんなものだと思います」
『まあ、気分転換にもよかろう。お前を信用して、摩魚の外出を認めようかね』
「ありがとうございます」
『ただし。ひとりでふらふらさせないでおくれよ。生贄を傷物にされては困るからね。私の方から誰か送ろうか?』
「ありがとうございます。ーーー海原摩魚の保護者代理で、私の母を着けますので、心配はいりません」
『海馬をかい?』
「はい」
『なら、大丈夫だろう』
「ありがとうございます」
『龍海。私を裏切るなよ』
「はい、分かりました。お疲れさまです」
『はいよ。そちらこそ』
電話を切って、部屋の女たちに振り向き。
「外出許可が下りた。思う存分、気分転換してきてくれ」
と、そこには、亜沙里を抱っこして頭を撫でていた摩魚が。
「え?」
「いや……。外出許可が下りたぞ、と」
「本当!」
やや吊り上がった切れ長な目を大きく開いて、今度は亜沙里の両手を取って喜びだした。
「ありがとう! 龍海くん、ありがとう!」
「喜んでもらえてけっこうだか、時間を決めておこう」
「どのくらいにする?」
摩魚の質問。
紅子と“あやとり”をしていた、海馬が口を挟んだ。
「飲んで食べて遊んで。だいたい最低限で三時間かな」
「最初はまあ、そのくらいが良いか」
その母親の提案に納得した龍海は、再び摩魚に向く。
「三時間」
「ありがとう。意外と長いのね。嬉しい」
摩魚は笑顔で礼を言った。
龍海は“姫様”の隣に顔を向けて。
「亜沙里も出かけるようにしようか」
「ありがとう。龍海“さん”」
こちらも笑顔で返した。
すると、他の女性陣の視線に気づいて、頬を赤くする。気分はさっそく妻の乗りであった。亜沙里はときどき買い出しなどに外出していたが、遊びに行く目的で出かけることはほとんどなかった。遊びたい年齢といえばその通り。勉強したくとも高校の卒業したあとは教団に関わりっきりで、母親の銀を含めた町の保護者たちが彼女に一般常識を教えようものなら、磯野フナや教団幹部の鰐蝶之助と橦木交太郎らが率いた者たちからの“制裁”を受けてしまうから無理というかできなかったのである。幼いころからフナを含めた教団幹部らによるグルーミングを受けて、洗脳されてしまった陰洲鱒町の若い女性は浜辺亜沙里の他にも幾人もいた。マインドコントロールされているので、無学無職が続いて、生活は教団頼りになり、“外”の人間関係は乏しくなるどころか無いに等しくなる。そして、例のごとく人魚の磯野フナから妖術をかけられて、男信者らや雄人魚らの性処理係にされていた。そんな精神的と肉体的な監禁拘束状態から解放された浜辺亜沙里は、普通に遊ぶことを試してみたかったのである。遊びに出かけていいが、女の子ひとりで目的地まで行くのは危ないわけで。いくら常人の数倍の筋力と耐性を生まれながらにして持つ陰洲鱒の女といえども、淑女の独り歩きは危険が高かった。
なので。
「亜沙里を送ってもらうのは、フナさんにお願いしよう」
「……え?」
これには驚いた。
しかし、そんな亜沙里を見る龍海の口角は少し上がっていたようで。
「様子が変わったところを見せてやるといい。どうせ男信者と雄人魚を引き連れてくるだろうが、イカれた感じになってしまったと思わせてしまえばいいだろう」
「例えば、どんなふうに?」
「車内で奴らが君に触ってきたところを殴れば、効果はある」
「いいの?」
「いいんだよ」
「やったあ!」
摩魚と紅子の手を取って喜んでいく。
しかし、それはそうと。
「私、あとから摩魚と海馬おばさんと合流したい」
と、希望を言いながら、今度は海馬と“あやとり”をし始めた。
真剣な眼差しで赤い瞳を輝かせつつ、亜沙里に挑みながら、我が息子に話していく。
「ああ。亜沙里ちゃん強いのね。ーーー食器棚に予備のスマホがあるでしょ。この子に持たせて、私のGPSと連携させれば摩魚ちゃんにも合流できるんじゃないの?」
「それは良い。そうしよう」
というわけで、さっそく予備のスマホを取りに向かった。
戻ってきた息子から受け取り。亜沙里を見る。
「ありがとう。ーーー行きはフナさん。帰りは私が送ろうか」
「海馬おばさん、ありがとう!」
赤い瞳の強面美人に抱きつく。
「いってきます!」
「いってらっしゃい!」
“姫様”、外出の時間。
亜沙里と龍海から見送ってもらい、海馬と一緒にダークブルーのワゴンタイプに乗り込んだ。
そして、もうそろそろ夕方になろうか。
隠れ家の駐車場に、シルバーのスポーツタイプが再び姿を見せて浜辺銀が龍海から迎え入れられた。先ほどは仕事着だったが、いつもの両肩出しの普段着に戻っていた。亜沙里に笑顔で「ただいま」と言って、紙袋を手渡した。
「はい、これ」
「え、いいの? ありがとう」
「いい加減、新しいお洋服を着ないとね」
そう言って、座布団に座り込む。
亜沙里は嬉しそうに紙袋から取り出して、広げる。
「あ! ドルマン!」
「似たもの探してきたよ。色は、あたしと同じになっちゃったけれど」
「私、母さんと同じ色がいいよ。嬉しい」
そして、スカートも広げてキラキラと笑顔になる。
「さっそく着てくる」
「はい、どうぞ」
母親から快く送られて、奥の部屋に向かった。
そして。
「どうかな?」
「似合う似合う! さすが、あたしの娘。スタイルいい!」
「もう、母さん……」
ほめられて、恥ずかしさに頬が赤くなる。
あと、そういえば、そろそろ出かける時間。
「そういえば、龍海と話し合ったけど。イカれた女を演じれば悪い虫がつかないってさ。どんなふうにすればいいの?」
「それなら、あたしが戦時中戦後で試したヤツを亜沙里もしてみようか。闇市や過激派や進駐軍のアーパーどもに効果があったのよ」
そう、自信あり気に経験を語り、スクッと立ち上がった銀。
お膳から距離を置いて、上体を折ってなにかを掴むような仕草をとった。そして歩き出す。
「ハトハトハトハトー。ぽっぽー、ぽっぽー、ぽっぽー、ぽっぽー。ハトさん待て待て待て待てー。ハトさん待てー。ぽっぽー、ぽっぽー、ぽっぽー。ハトハトハトハトハトー」
“いない鳩を追いかけて”いきながら、くるくると回ったのちに、少し上体を起こして餌を撒く仕草をし始めた。
「ハトさん、ハトさん。ぽっぽー、ぽっぽー、ぽっぽー。エサエサエサエサー。ぽっぽー、ぽっぽー、ぽっぽー。ハトさんエサエサエサエサー。ハトハトハトハトハトー」
“いない鳩たちにない餌を撒いて”いく母親。
なんという絵面。
本当に精神面に異常をきたしているようにしか見えない。
あるていど“撒き終えた”とき。
「どう! いいでしょ」
得意気な笑顔で亜沙里に振り向いた。
母親の見せてくれた手本に、呆気にとられていた娘。
“これ”を私にやれと言うのか。
「う、うん……。マジでヤバい女にしか見えなかったよ……」
「でしょ! でしょ!」
自信たっぷりに稲穂色の瞳を輝かせて、我が娘を見る。
そして、手を取って両手で握った。
「これ、母から娘に、その孫にと受け継がせてね」
「気が、向いたら、ね」
亜沙里は、引きつった笑顔で返した。
約束していた時間がきて。
磯野フナが到着した。
青いハイエースから降りて、玄関にくる。
「亜沙里、出かけるんだろ。おいで」
「はーい」
小走りに玄関へ向かい、小柄な白髪の人魚の老後の前に立つ。
その後ろから龍海が姿を見せた。
魚顔の青年に、黒い眼の銀色の瞳を流して。
「“お勤め”のあとでも良いかい?」
亜沙里に目を合わせていく。
目付きと様子の変化に気づいて、やめた。
「お前さん。なんだか“明るい”ね。しばらく様子を見るだけにしておくか。ーーーついといで。今日は送ってあげるだけにしとくよ」
「ありがとうございます」
声も“明るい”感じになっていた。
車で移動中。
男信者の運転の隣の助手席に、磯野フナ。
真ん中の中央に、浜辺亜沙里。その両脇に男信者。
後部座席に三体の雄人魚。
ニコニコ笑っていた亜沙里。
車内はしばらく沈黙していたが、運転中の男信者が切り出した。
「亜沙里は今、術にかかっているのですか?」
「なんだい? もう始めたいのかい?ーーーじぶんで確かめてみたらどうかね」
黒い眼と口角を歪ませて尖った歯を見せたフナが、促した。
亜沙里の隣にいたツーブロックの男信者は、じゃあお言葉に甘えてと言わんばかりに肩に腕を回してきて、上着の襟に手を滑り込ませ、女の張りのある胸の膨らみを堪能しようとした。
瞬間。
重く弾く音を立てて、ツーブロックの男信者の顔を仰がせた。
気絶してしまったようだ。
ニコニコしながら、亜沙里は男の腕を払いのける。
その隣の短髪の男信者が、上着から女の胸を掴んだ。
直後。
短髪の男の顔だけ横に強く振られて、席にうなだれた。
意識が飛んでしまったらしい。
ニコニコ笑ったまま、両脇の男を両手で押し離した。
腕を組んで、鈍色の尖った歯を見せてひと言。
「“坊や”たちとはお断りします」
この亜沙里の言葉に、突っかかろうとした雄人魚。
磯野フナの目付きがたちまち変わった。
「およし! 今の亜沙里にお前さんたちが勝てたのか?」
運転席とバックミラーで後部座席に目配せして。
「先ほどの裏拳と肘打ちが見えてなかったようだね。殺されなかっただけでも良かったと思っておくんだよ。ーーー今日はと思っていたが、亜沙里、お前さんには“お勤め”はさせんよ。移動する間に全滅しちまう。危ない女など置けるものか。その代わり、見張らせてもらうよ? いいね」
いちおう、形式上で釘を刺す。
亜沙里は、猫のような切れ長な目を歪ませて。
「そりゃ良かった。ありがとうね、“お婆ちゃん”」
「ど、どういたしまして」
お婆ちゃん。と久々に呼ばれて動揺した。
それから。
長崎市の繁華街。
思案橋に着いた。
青いハイエースから亜沙里を降ろす。
「はい、着いたよ」
「ありがとう」
笑顔で礼を述べて、肩をくるくる回した。
天高く伸びをして上体を左右に振ったあと、両手を腰にやって。
フナに振り向き。
「また、お願いしてもいい?」
「いや、もう、これきりにしとくれ」
「分かった。そうします」
「分かったなら行っとくれ」
「じゃあ、行くねー!」
と、大きく手を振る。
ひゃっほー!と叫んで走っていく。
4
以上、海馬の話し。
実際は要点だけ話した。
ずっと監視カメラで見られていたこと。
これをハッキングして多少の自由を得たこと。
亜沙里が後から合流できた理由。
次に、亜沙里からの要点だけ。
危ない女は効果があった。
母親直伝の「ぽっぽー、ぽっぽー」も効果があった。
プロポーズした。
雷蔵を含めた皆は、だいたいは理解した。
理解したが。
タバコの灰を指先で灰皿に落として。
「いない鳩たちを追っかけるって、本当に効果あったの?」
摩周ヒメが皆を代表して聞いた。
紙コップに満たされたメロンソーダを片手に、亜沙里は答える。
「母さんが言っていた通りに、効果は抜群でしたよ。ここの繁華街が噂以上に通りやすかったです。みんな親切に道を開けてくれて、変な男からも声をかけられなかったし。やっぱり凄いなあて。私、母さん尊敬しちゃいます」
そして、ひと口味わって、おいしいと呟いた。
紙コップの純米酒を空にしたヒメが再び口を開く。
桜色のリップを引いた口元からチラチラと見える、尖った歯が可愛らしかった。
「なるほどね。だから銀は、過激派や進駐軍のアホたちから無傷でやり過ごせたのか。やるわね……」
ソファーに背をあずけて脚を組む。
美しい女性は、タバコ姿も様になる。
「亜沙里ちゃん、良かったね。両想いで」
「はい!」
大きく頷いた。
本当の、マインドコントロールされていない浜辺亜沙里はこんなにまで眩しく明るい女の子だったのかと、雷蔵と響子とニーナは思っていた。そして、外出するまでの間で、亜沙里と龍海のそれぞれの想いが通じあっていたという過程を見ていた摩魚が、その時間のときから今でも思いとどめていたことができていた。この“姫様”は基本的に裏表がないというか持たないので、隠し通す行為は苦手だ。しかし、歴史の勉強以外になると要領が良いとはいえなくなる。でも、遠回しは嫌いなのでたとえ細かくとも直球で物事を言ってきた。
やがて、思い詰めた顔になり、隣の黄金色の髪をした美しい君に視線を送っていく。紙コップにはまだ純米酒が半分くらい入っている。入ってはいるが、今からおこなう大切なことを酒の勢いで任せたくない。白いアクリル板のテーブルに白い紙コップを置く。
意を決して言葉を出していった。
「あのね、ミドリちゃん」




