二十六
人の記憶と言うものは良しにつけ悪しきにつけ、常に美化を受けるものである。
昔食べたラーメンを何年も立ってから食べたら、思ったほど美味しくは無かった、などとよくある事である。
事実、鳴海自身の記憶も美化されていた。
記憶の中の彼女は、事実よりも強かったし、事実よりも美しかったし、彼にとって何でも出来る超人であった。
しかし。
今目の前に現れた己が師、“伊奈美”は、記憶の中の彼女よりも強く、美しかった。
*
動きを止めた鳴海は元より、怯えてしまった瑞希、果ては京一郎ですら動くことが出来なかった。
“ナミ姉”、そう呼ばれた彼女の動きはそれ程までに流麗で、圧倒的だった。
(鎧鬼ッ! コイツが鳴海の師匠か!? ちくしょうっ……! 踏み込む隙が無ぇ!)
妖を倒すだけならまだしも、彼女は(ヤクザ者とは言え)一般人すらも手に掛けていた。京一郎はそれを許す訳にはいかないが、人間を避け彼女のみを斬ることなど出来ない。
ヒールの高い靴であり、装備している鎧鬼も右腕のみ。それでも、周囲から降りかかる白刃を、凶弾を、手玉に取っていた。そんな乱戦の最中に一人の人間だけを狙うのはたとえ達人と言えども簡単なことではない。
刃をかわす度、銃弾を弾く度、血煙が舞い踊り、京一郎が歯噛みする。
しかし、肉の楯というものはいずれ尽きる。
人間は倒れ、妖は消える。それを幾度か繰り返した頃、及び腰で刀を構え、震えていた一人が逃げ出した。次は我が身と、恐怖を覚えたのだ。
「ふん、逃がさんぞ」
ヒールを履いているとは思えない速度で伊奈美が肉薄し、爪を振り上げる!
(今だ!)
逃げる相手を追い、意識がそちらに集中する。その一瞬。一瞬の意識の隙間。それを見逃す京一郎ではない。
「……ほう。疾いな」
ガキン! と分かり易い金属音と火花を散らし、京一郎が爪を受け止める!
「別にチンピラごときが何人くたばろうが、知ったことじゃぁねーけどよッ……」
鎧鬼の膂力を押し返しながら、唸るように言う。
「ケツまくって逃げる奴をッ……背中から斬んのは、どーかと思うぜッ……!」
「ふふっ……。疾いだけではないな。片腕だけとは言え、鎧鬼の力に抵抗するとは」
「はん……。こちとら伊達に修羅場を潜っちゃいねーぜ? おい、瑞希! そいつら逃がすんじゃねぇぞ!」
強敵と対峙しながらも、こそこそと逃げ出そうとしていたチンピラたちを忘れる京一郎ではない。動けないでいる鳴海ではなく、まだマシな状態の瑞希へと指示を送る。
瑞希もその声にようやく我を取り戻し、杖を振りかざす。
「逃がさないでくれるとは。私にとっても好都合だな」
「テメェの為じゃねーっつの。外にゃ0課が待機してる。全員しょっ引いて御白州行きだ」
「ならば、貴様を早々に片付けてしまわねばな」
「やって……みろやぁッ!!」
拮抗していた鍔迫り合いを打開すべく、彼は足を振り上げる。その爪先は獲物に喰らい付く蛇の様に、一直線に彼女の鳩尾へと迫る。
と、彼の刀に掛かる重みが消える。蹴りが来ると見るやあっさりと身を引いたのだ。
その見切りのよさは鍛錬だけでどうこう出来るものではないだろう。鳴海と違って十分な近接戦闘の実戦を積んでいる。
一旦間合いの開いた二人だが、そのまま睨み合いを行うはずも無く。
「シッ!」
京一郎の横一閃が白羽の如く飛来する。
彼お得意の疾風のような踏み込みだ。これには回避も間に合わず、防御が精々であったようだ。
「くぅッ!」
白刃を鎧鬼の腕で受け止める。
が。京一郎の剣閃はこれで終わりなどではない。
受け止められた刀を押し返そうとはせず、刃を滑らせるように横に振り抜く。更に手首を柔らかく使い刃の向きを変えると、全身の動きを連動させ返しの一閃を叩き込む!
左腕は武装していない。伊奈美は即座に防御に構えていた右手を刀に向かって伸ばす。
――ガギッ!
伊奈美の掌に重い衝撃が伝わる。
「!」
京一郎は刀を掌で受け止められたことを確認するや、左手で柄頭を軽く操作する。
「ちッ!」
伊奈美の指が折りたたまれるより一瞬早く、剣先が暴れ、掌握から逃れる。
刀と言うものは通常両手で握るものだが、右手で鍔元を、左手で柄頭の辺りを握る。フィクションなどで両手を付けて握っているものが度々見られるが、このような握りをすると振りの自由度が失われてしまう。
実際にやってみると分かるが両手を離して握ると、梃子の原理のように左手の微細な操作で剣先が大きく稼動する。京一郎は刀を掴まれまいと、この技法を使ったのだ。
かくて虚しく、伊奈美の指は虚空を掴む。
そしてそれは大きな隙となる。
「ぉおらよッッ!!」
今度こそ、京一郎の靴底が伊奈美の腹を捕らえる。
「――ッかは……!」
肺の空気を搾り出すような音を漏らし、彼女は後方へと大きく吹っ飛んだ。
追撃を重ねんと踏み出そうとした京一郎だが、その出足は程なく止まる。彼女が、事も無げに立ち上がったからだ。
「……加減はしちゃいねぇがな」
首をコキコキと鳴らしながら「ペッ」と唾棄する。遠目からでも赤く滲んでいるのが分かる。
「いや、実際効いたよ。この通り、内臓にも損傷があるようだ」
「の割にゃあ平然としてやがるな?」
「ふふ……鍛え方が違うのさ。五月が“鎧鬼”だけだと思わないでもらいたいな」
「全身武装してなくてそのザマで、言いやがる。何なら残りも呼んだらどうだ?」
「本気を出していない相手にそんなことはしないさ」
と、彼はその言葉に違和感を感じた。
「あ? ちょっと待て、俺が本気じゃねぇって何だ。何を以ってそう言い切る」
「……? 君のそれは霊装だろう? なぜ全力の力を発揮しない」
「それだ。これが霊装だと分かるのはまぁいい。が、これに発揮していない能力があるとなぜ断言できる。概念強化で性能を発揮する霊装はどっちかってーと珍しいほうだぜ」
事実、彼女の言う通り、彼が振るっているのは“天之尾羽張”、炎を操る剣へと変化する神刀である。
だが、何故知っている?
概念の強化によって真価を発揮する霊装は、基本的に神格の高いような強力な霊装のみである。そんなものがホイホイ存在するはずも無く、存在しようものなら在り様そのものが普遍的で無価値、つまり、霊装としての力を失ってしまうことになる。
貴重だから、有難いものだから、信仰と言う名の概念を集め、力となる。
故に、京一郎の持つ刀が本気を出していない、などという発想は通常起こらない。退魔師であるなら尚更である。
「ふむ……。失言が過ぎたか」
困った、と言う風も無く言う。
「俺がコイツの能力を解放したのは、この辺りに来てから数えるほどしかねぇ。それでも知ってるってこたぁ、テメェ。暫く前からこの辺りに網張ってやがったな」
「……え?」
と、これは鳴海。彼女が妖のみならず、人も殺めているという衝撃に思考が停止していたら、今度は以前からこの辺りに居た、と来たものだ。停止した思考は、混乱を始めてしまった。
「まぁ、隠しても取り逃がした連中を突けば分かる事だからな」
武装していない左手で頭を掻きながら、まるで悪戯のばれた子供が言い訳をするように、悪びれることも無く口を開く。
「君の言うとおり、私は以前からこの辺りで動いていたよ。故合ってチンピラ共とつるんで必要なものを集めていたんだ。君の事を、いや、君の霊装のことを知っていたのは当然、そういう繋がりがあったからだな」
「……!」
京一郎は気付く。
この先を言わせてはいけないことに。
この先を、鳴海に聞かせてはいけないことに。
「つまり」
「黙れッッ!!」
京一郎の手元より、猛烈な爆炎が吹き上がる。
それはさながら、地獄の業火か阿修羅の怒りか。
握られていた刀が形状を変え、“天之尾羽張”の真の姿を顕していた。概念強化に必要な炎は工場跡で瑞希の不死鳥を喰らっていた分だ。
それだけでこれほどの爆発力を生める瑞希の符術を褒めるべきか、それとも、彼の怒りに畏怖するべきか。
猛烈な炎を振りかざし、彼は伊奈美へ斬りかかる!
――ズンッ!
地響きを響かせ、土煙を巻き上げ、それでもその一太刀は彼女の右腕に阻まれる。
「ふふ……。君は優しいな。鳴海の心配をしてくれるのだな。だが怒りに任せれば……」
「がッ!!?」
“ボッ”と音がしたと思ったら、腹に衝撃を受け、宙を舞っていた。
「隙が生じるものだよ。私が左腕を呼んでいたのに気付かなかったろう」
馬鹿な。何時の間に。
血反吐を撒き散らしながら彼は伊奈美を睨む。
京一郎が気付かなかったのも無理は無い。本来、鳴海のように“鎧鬼”を呼ぶのは謂わば初心者用の簡易操作である。鳴海自身、修行半ばで0課へ来た為そこまでの実力が備わってなかったのである。
彼は普段から鳴海がそうやって呼んでいるのを眼にしていた為、それが当たり前と思い伊奈美の武装を警戒しなかったのだ。故に気付かず、『断空』の起動を許したのだ。
そう。
先の音は『断空』の発射音。その直撃を受けてはまともに動くことなど出来ない。
「鳴海、よく聞きない」
「……?」
ぼんやりとした眼で伊奈美を見る。
彼女は昔と変わらない。
変わらない美しさ、優しい眼、微笑みで自分を見ている。
そんな彼女が何故人を殺す? 何故兄と慕う人物を痛めつける?
「恐らく、0課が辿り着いた結論は正しい。お前たちが闘った歪な鬼はこの組と関係していて、私とも繋がりがあった。そして私がこいつらを潰していた理由は、0課に尻尾を掴まれたからだ。用済みということだな」
そして、とチラリと京一郎を一瞥し、再び鳴海に向き直る。
「彼の霊装のことを知っていたのは横の繋がり、要は組同士の繋がりだな――があったからだ」
「やッ……ゲホッ……やめろ……!」
今度は京一郎に見向きもせずに、鳴海に近付き、顔を近づけ、息も触れんばかりの距離でこう言った。
「以前の切り裂きジャックの一件、私も一枚噛んでいたのだよ」
喉が痛い。
全ての五感が失われたような、怒りとも悲しみともつかない喪失感の中、只々喉が痛かった。
それが自分の咆哮の所為だと気付いた時、鳴海の拳は己の影に突き刺さっていた。
「鎧鬼ぃぃぃぃぃぃぃぃッッ!!!」
影から溢れる闇が彼の全身を覆っていく。
「ふふッ……。いいよ、鳴海。お前の今の全力を、私に見せてくれ……!」
“鎧鬼”の完全顕現ももどかしいとばかりに闇色の姿のまま立ち上がり、距離を置いた伊奈美へと駆け出す。
たなびく闇の残滓は、彼の涙のようでもあった。




