一
ハンドルを握ったのは、事故の四十秒後だった。
運転席にはまだ篠原航の体温が残っていた。シートは一番後ろまで下げられ、背もたれは寝かせ気味で、遠山の足はペダルに届かなかった。遠山はレバーを引いて、シートを二段前に出した。カチ、カチ、と音がした。その夜、自分の手でしたことのなかで、それがいちばんはっきりしていた。
篠原航から代行の依頼が入ったのは、十一時四十分だった。駅裏の「凪」というバーで、航を助手席に乗せるのは三度目だった。三度とも酔っていた。三十一歳、篠原建設の専務。父親の会社の名前が入った名刺を、一度目のときに遠山の膝へ放ってよこした。
篠原の家は市の北、高台の上にある。県道から坂を上がりきった突き当たりだ。随伴車の杉浦は先に坂を上がって、屋敷の前で車を回す場所を探していた。
坂の下の信号で停まったとき、航が言った。
「ここでいい。あとは俺がやる」
「規則なんで」
「うちの車庫、癖があるんだよ。前もこすったろ」
こすったのは杉浦だった。遠山は黙っていた。
二度目のときも、航は同じことを言った。遠山は断った。航は舌打ちをして、家の前で代行料金の千円札を三枚、丸めて運転席の足元に落とした。遠山はそれを拾って、拾ったことを杉浦に見られた。
今夜の航は、舌打ちをしなかった。財布から一万円札を抜いて、遠山の胸ポケットに差し込んだ。
「四百メートル。誰も見てない」
午前零時十二分。遠山はこの夜、十一本目だった。腰が痛かった。一万円は代行料金の三本分だった。
遠山は車を降りて、助手席に回った。
信号が青になり、航はアクセルを踏んだ。坂の手前の交差点で、右から自転車が出てきた。ライトは点いていなかった、と遠山はあとで何度も言うことになる。それは本当だった。
音は思ったより軽かった。
遠山は車を降りた。自転車は街路樹の根元でひしゃげていて、そこから少し離れたところに、若い男が仰向けになっていた。紺のジャンパー。胸に倉庫会社のロゴがあった。目が開いていた。遠山は膝をついて、男の手を取った。まだ温かかった。
「大丈夫か」
男は遠山を見た。唇が動いた。
「すみません」
それだけだった。
振り返ると、航は運転席から降りられずにいた。ドアを半分開けて、片足だけ地面に出して、ハンドルに額を押しつけていた。遠山が戻ると、航は顔を上げた。
「頼む」
声が裏返っていた。
「頼む、遠山さん。あんたが運転してたことにしてくれ。俺、飲んでる。飲んでるんだよ。親父が払う。いくらでも払う」
遠山は胸ポケットに触れた。一万円札の角が指に当たった。
酔った客にハンドルを渡した代行運転手がどうなるか、遠山は知っていた。会社は切る。悪くすれば一緒に引っ張られる。どっちに転んでも、遠山はもう何かを失うことになっていた。
自分が運転していたことにすれば。酒は一滴も入っていない。逃げてもいない。救急車を呼べば、たぶん執行猶予で済む。去年、同業の村井がそうだった。
十秒もかからなかった。かからなかったことを、遠山はあとで何度も思い出す。
「降りろ」と遠山は言った。「助手席に行け。何も言うな。酔って寝てたことにしろ」
航が転がるように降りた。遠山は運転席に座り、シートを前に出し、それから119を押した。
杉浦が坂を駆け下りてきたとき、遠山は運転席で、電話の向こうの声に交差点の名前を言っていた。




