第四部 東京の画人たち――香国・子規・『玉章画集』
第一章 東京というところ
東京という町は、熊治にとって、一冊の大きな画帖にも似ていた。
朝になれば、人力車が往来を行き交い、荷車を引く者の掛け声に、新聞売りの声が重なる。洋館の煉瓦壁の隣には、昔ながらの町家が軒を連ね、その軒先には植木鉢が置かれている。通りを一本隔てただけで、町の様相が変わることも珍しくなかった。
明治という時代は、古いものを一掃して新しいものに置き換えるだけの時代ではない。西洋からもたらされた制度や技術、建築や生活様式が、長く培われてきた日本の暮らしのなかへ入り込み、互いに影響を及ぼしながら、新たな町の姿を形づくっていた。
熊治は、そうした東京の変化を興味深く眺めていた。
画題を求めて歩くこともあったが、いつも画を描くために外へ出るわけではない。ただ歩いているだけでも、自然と目が動いた。雨上がりの道に残る水たまり、軒下から顔を出す草木、風に揺れる柳の枝。橋を渡る人々の姿や、往来の片隅で商いをする者の表情にも、つい目を留めてしまう。
画を学ぶということは、筆を持って紙に向かう時間だけで成り立つものではなかった。何を見るか。何に心を動かされるか。そして、目の前にあるものから、何を感じ取るか。そうした日々の積み重ねもまた、絵師の仕事を支えるものだった。
東京には、風景ばかりでなく、多様な人間が集まっていた。
絵師や画家、文学者、書家、医師、学者、新聞人。それぞれが異なる仕事を持ち、異なる考えを抱きながらも、時には同じ場所に集い、互いの仕事に関心を寄せていた。美術と文学、学問と実業といった区別も、人と人との交わりのなかでは、必ずしも明確な境界を保っているわけではなかった。
熊治は、そうした人々の営みに身を置くうち、自分がこれまで学んできた画の世界を、少しずつ別の角度から眺めるようになっていった。
備中の金井戸で画に心を寄せた少年は、三好雲仙のもとで筆の基礎を学び、奥村石蘭との出会いを経て、川端玉章のもとへとたどり着いた。その歩みは、師から技法を授かり、それを身につけていく道であった。
しかし東京では、画を描く者だけでなく、画を求める者、注文する者、批評する者、そして作品を後世へ伝えようとする者が、それぞれに美術の世界を支えていることを知った。
一枚の画が世に出るまでには、描き手の技量だけでは説明できない、多くの人々の働きがある。
熊治にとって東京は、画を学ぶための土地であると同時に、絵師が社会のなかで生きるとはどういうことなのかを知る場所でもあった。
第二章 本郷区龍岡町
熊治の住まいは、東京市本郷区龍岡町にあった。
その界隈には伝統を重んじ流派の師弟関係を持ち続ける「絵師」たちと、個人の画業や近代美術界との関わりもつ「画家」たちがいた。
そんな町だからか道を歩けば、画道具を携えた者とすれ違うこともあった。どこかの家では師匠が弟子に筆の運びを教え、別の家では、作品を前にした者たちが構図や筆致について意見を交わしている。
画を学ぶ者にとって、同じ町に多くの絵師や画家が暮らしているという環境は、得難いものだった。わざわざ遠方へ出向かなくとも、日々の暮らしのなかで彼らの仕事に触れ、その存在を身近に感じることができる。けれども、同じ土地に住むことが、そのまま互いの理解につながるわけではない。絵師には絵師の、画家には画家のそれぞれの考えがあり、師から受け継いだ技法も、目指す表現も異なっていた。時には、同じ題材を前にしても、何を描くべきかという根本の考え方から違っていた。
熊治は、そうした違いを知ることにも意味があると考えるようになった。
雲仙や石蘭のもとで学んでいた頃は、師の示す道を理解し、教えられたことを自分のものにするのが第一だった。師の筆遣いを観察し、形の取り方を覚え、墨の濃淡や余白の扱いを身につける。まずは学び、模倣し、そこから自分の表現を探っていく。それが修業というものだった。
しかし、さまざまな絵師と画家の作品に触れるようになると、受け継いだ技法を守るだけでは、画の世界の広がりを十分に捉えられないことにも気づく。
ある者は対象の形を正確に捉えることに力を注ぎ、ある者は筆の勢いや墨の広がりによって、目に見える形の奥にある気配を表そうとする。同じ山水画であっても、山の姿を描くことに重きを置く者もいれば、山間に漂う空気や、遠景へと続く空間の広がりを描こうとする者もいた。そして絵具や画材にも工夫する者もいる。
それぞれの作品には、描き手が何を見つめ、何を大切にしているのかが表れている。
熊治は、そうした違いを自分の目で確かめることが、絵師としての視野を広げることにつながると感じていた。
画は、描き手一人の内側だけで完結するものではない。描く者がいて、それを見る者がいる。作品を求める者がいて、それを守り、伝える者がいる。
東京での日々は、熊治に、画という営みが人と人との関係のなかに存在していることを教えていた。
第三章 土居香国との邂逅
土居香国との交流も、この頃に深まっていった。
その頃の香国は絵師でも画家でもなく、熊治にとっては逓信省の上司にあたる人物だった。しかし、仕事上の関係だけでは捉えきれない一面を持っていた。漢詩を作り、文章をものし、絵画にも深い関心を寄せる。作品を見れば、ただ技巧の巧拙を論じるのではなく、そこに込められた意味や、描き手の心のありようにまで思いを巡らせた。
絵師である熊治にとって、香国のような人物との交わりは、これまでとは異なる視点から画を考える機会となった。
ある日、熊治の家を訪れた香国は、床の間に掛けられた小さな山水図に眼を止めた。
山々は控えめな墨線で描かれ、画面には広い余白が残されていた。山間の景色を細部まで描き込むのではなく、見る者がその先の風景を想像できるような構成だった。
香国はしばらく黙って画を眺めていたが、やがて口を開いた。
「雲岳さん。この山は、ずいぶん寂しいですな」
熊治は、思わず笑みを浮かべた。
「寂しく描いたつもりはありません」
「そうですか。しかし、私には寂しく見える」
「では、失敗でしょうか」
香国は首を横に振った。
「寂しいからといって、悪いということにはならないでしょう」
そう言って、茶を一口すすった。
「画というものは、描いた人間が意図したとおりにしか見えないものではありません。描き手が何を考えていたかとは別に、見る者は見る者なりの感じ方をするものです」
熊治は、すぐには答えなかった。
絵師は、自分が描いたものについて、すべてを説明できるわけではない。むしろ、描き手が説明し尽くしてしまえば、画を見る者が自由に感じ取る余地を狭めることにもなりかねない。
そのことは、雲仙や石蘭の教えを通じて、熊治も少しずつ理解してきたつもりだった。しかし、香国の言葉は、画を専門としない者の眼差しから、その考えを改めて示すものだった。
「香国さんは、画を見るとき、何を見ているのですか」
熊治が尋ねると、香国はしばらく考えたあと、穏やかな口調で答えた。
「私は、描かれていないものを見ようとします」
「描かれていないもの……」
「描かれたものは、誰にでも目に入ります。しかし、描かれていないものは、見る者が想像しなければ見えてきません」
熊治は、画の余白に目を向けた。
そこには何も描かれていない。けれども、何もないからといって、何も存在しないわけではなかった。山の向こうには、さらに山が連なっているかもしれない。画面の外には川が流れ、風が木々の間を抜けているかもしれない。描かれた部分を手掛かりに、見る者の心のなかで風景が広がっていく。
そのとき熊治は、師から教えられた言葉を思い出していた。
描かないところがあるからこそ、描いたところが生きる。
画の技法として学んできた余白の意味が、香国との対話を通じて、別の側面を持ち始めた。余白とは、単に筆を入れずに残した空間ではない。描き手がすべてを決めつけず、見る者に想像を委ねるための場所でもあるのだ。画と漢詩は、思っていた以上に近いのかもしれない。
詩人は、限られた言葉によって、言葉にされなかった感情や景色を読み手の心に呼び起こす。絵師もまた、限られた線と色、墨の濃淡によって、画面の外にまで広がる世界を示すことができる。
熊治は、そのことを胸の内で確かめるように、もう一度、山水図を見つめた。
画を描くことは、形を紙に写し取るだけの仕事ではない。何を描き、何を描かずに残すか。その選択によって、見る者の心に何を生み出すかまでが、絵師の仕事なのだ。
香国との交流は、熊治にとって、画の外側から画の本質を考える貴重な機会となっていった。
第四章 茸――正岡子規との交流
正岡子規との交流も、熊治に新たな刺激を与えた。子規は、目の前にあるものを、ただ見慣れたものとして受け流すことをしなかった。何かを見れば、その形や性質を確かめ、どこに特徴があるのかを考え、それを自分の言葉で表そうとした。
美しいものを美しいと述べるだけでは、対象を捉えたことにはならない。どこが美しいのか。ほかのものとは何が違うのか。なぜ自分はそこに心を動かされたのか。子規は、そうした問いを重ねることで、目の前のものを自分自身の認識として確かなものにしようとしていた。
肺結核とそれに伴う脊椎カリエスという病を抱えながらも、子規のもとには俳人や絵師・画家、文人たちが集まった。人々が座を囲めば、話題は俳句から絵画へ、絵画から日々の暮らしへと移り、専門の違いを越えて、さまざまな意見が交わされた。
熊治は、子規のそうした姿勢に関心を寄せていた。絵師が対象を観察することと、俳人が対象を言葉で捉えることには、共通する部分があるように思えたからである。
秋も深まりつつある、ある日のことだった。熊治は、江戸の昔から続く俳諧の余韻をどこかに残したような、乾いた秋風の中を歩いていた。
その日は、新潟県出身の俳人・江口善平喜年と、かつて奥村石蘭の画塾でともに筆を学んだ四条派の絵師、林石華、柳田樵谷を伴っていた。向かう先は、正岡子規の住まいである。
ひとたび座を囲めば、句の話になり、画の話になり、いつしか文学と美術の境目などなくなってしまう。その日も、茶をすすりながら、取り留めのない話が続いていた。
「せっかく皆で集まったのですから、何か一つ、形に残していきませんか」誰からともなく、そんな声が上がった。
「寄書にしましょう」子規は、面白そうに応じた。
「それなら、何を題にしますか」
しばし考えたあと、誰かが言った。「秋ですから、茸などはどうでしょう」
「茸ですか」子規は、少し考えるように目を上げた。
「なるほど。茸ならば、句にも画にもなりますね」
こうして、寄書の題は「茸」に決まった。
紙が広げられると、まず筆を取ったのは絵師たちだった。
熊治は、白い紙を前にして、しばらく考えた。
茸は、花のように華やかさを競うものではない。地面に近いところにひっそりと生え、土の湿り気をまとい、雨のあとに姿を現す。食用となるものもあれば、人の命を脅かす毒を持つものもある。同じ「茸」でありながら外見だけでは、その性質を見分けることが難しいものも少なくない。同じ題材であっても、何を捉えるかによって、画のありようは変わる。
熊治は筆先に墨を含ませ、静かに紙へ置いた。
一本、二本。線を重ねて形を整えるというより、必要な線を選び、少ない筆数で茸の姿を捉えていく。
林石華も筆を取り、柳田樵谷がそれに続いた。
三人とも茸を描いているのに、出来上がってみれば、それぞれに違う茸がそこにあった。同じ題材でも、筆を持つ者の目が違えば、見えてくるものも違う。筆の運びも、墨の濃淡も、形の捉え方も同じではない。題材が同じであるからこそ、描き手の眼差しの違いが際立っていた。
画が一段落すると、今度は善平喜年が筆を取った。
少し考えたあと、紙にさらさらと句を書きつけた。
「風采は うつくしうして 毒菌」書き終えると、善平喜年は署名をし、落款を押した。
子規は句を眺め、口元に笑みを浮かべた。
「なるほど。美しい茸ほど、気をつけなければならないというわけですか」
「茸というものは、見た目だけでは分かりませんからね」善平喜年はそう答えてほほ笑んだ
最後に子規が筆を取った。
紙面を前にして、皆が静かに見守る中、子規はしばらく考え込む。
すぐに言葉を決めるのではなく、何かを心のなかで確かめるように、筆を持ったまま静かに座っていた。
やがて墨を含ませ、句を書きつけた。
「茸狩や 山のむこうに 三下里」筆を置く。
筆が置かれると、そこにいた五人の視線が一枚の紙に集まった。
紙面には、三人の絵師が描いた茸があり、善平喜年の句があり、子規の句があった。同じ「茸」を題材にしているにもかかわらず、そこに表されたものは一様ではない。
茸の形を見つめた雲岳、石華、樵谷の絵師たち。茸の美しさと危うさに目を向けた善平喜年。茸狩りをする人々と、その向こうに広がる土地を思い浮かべた子規。それぞれの表現には、対象を見る者の個性が自然とにじみ出ていた。
しばらくして、子規が紙面を眺めながら口を開いた。
「面白いものですね。同じ茸を題にしているのに、こうも違う」
「描く人間が違えば、見えているものも違うのでしょう」熊治は答えた。
「人間が違えば、見えているものも違う……」子規は、その言葉を確かめるように繰り返した。
熊治は、あらためて紙面に目を落とした。
茸の形を描くこと自体は、それほど難しいことではないかもしれない。しかし、形を写すだけで、その茸が持つ性質や気配まで伝わるとは限らない。美しい姿の裏側に潜む毒、土のなかから生まれ、季節の移ろいとともに姿を現す生命、そして茸を探して山へ分け入る人の心。それらは、ただ形を写すだけでは捉えきれないものだった。
「雲岳さんは、これをどう思いますか」子規が熊治に尋ねた。
熊治は、もう一度紙面を見た。
「食用にもなれば、毒にもなる。茸というものの特徴が、それぞれの捉え方に表れていて、いいと思います」
「特徴、ですか」
「ええ。単に茸を秋の味覚として見るだけではないでしょう。美しい姿をしていても毒を持つものがある。その一面まで含めて茸なのです」
子規は紙面に顔を近づけた。画の細部を眺め、善平喜年の文字を眺め、そして自分の句へと視線を移した。
「なるほど……」
熊治は続けた「ええ、単に茸を秋の味覚として描くだけなら、もっと美しく描ける人はいくらでもいるでしょう」
「では、何が違うのでしょう」子規が尋ねた。
「茸そのものの特徴を、どこまで捉えられるかだと思います。形だけではなく、そのものが持っている性質まで見なければ、本当に描いたことにはならないのでしょう」
しばらく沈黙が続いた。
秋の光が障子を透かし、部屋の中へ淡く差し込んでいる。
やがて子規が再び言った。「とても面白いですね」
画と句は表現の方法こそ異なるが、対象を深く観察し、そこから何を見いだすかという点では、通じるものがある。目に見える形を写し取るだけでなく、その形が何を語っているのかを考えること。そこに、表現する者の仕事があるのではないか。
やがて子規は、紙面へ目を戻したまま、かすかに笑った。
「なるほど。句も、同じかもしれませんね」その言葉に、居合わせた者たちは顔を見合わせた。
秋の陽は、いつの間にか傾き始めていた。
一枚の寄書には、茸が描かれている。しかし、そこに表されているのは茸だけではなかった。描き手や詠み手が何を見つめ、何を感じ、何を伝えようとしたのか。それぞれの眼差しが、一枚の紙の上に並んでいた。
熊治にとって、この日の集まりは、画と文学の境界を越えて、表現することの意味を考える機会となった。対象をよく見ること。そして、見たもののなかから、何を表すべきかを見極めること。
それは、雲仙や石蘭のもとで学んできた写生の精神とも通じていた。東京で出会った人々は、師たちから受け継いだ教えを否定するのではなく、その意味をさらに深く考えるための手掛かりを与えてくれたのである。
第五章 『玉章画集』
明治三十五年。川端玉章は還暦を迎えようとしていた。
熊治は、この節目に際して、師の画業を記念するだけでなく、その歩みを後世へ伝えるための画集を編纂してはどうかと考えた。
還暦を祝うのであれば、門人たちが集まり、寿宴を催すことでも十分に敬意を表すことはできる。しかし、玉章が長年にわたって描いてきた作品を集め、一冊の画集にまとめることができれば、師の画業を広く伝える手立てになるはずだった。
画は、描かれたその時だけに意味を持つものではない。年月を経てもなお、人の目に触れ、何かを感じさせる力を持ち続ける。そのためには、作品が残され、見る者のもとへ届けられなければならない。
熊治は、玉章のもとで学ぶうち、師の作品が持つ幅広さを知るようになっていた。長年にわたる修業と実践によって培われた技量は、特定の題材や一つの表現に収まるものではない。その画業を一冊にまとめることには、師への祝意を超えた意味があると考えたのである。
熊治は、折を見て玉章にその考えを打ち明けた。
「先生、還暦の記念に、画集を作ってはいかがでしょう」
玉章は手元の仕事から顔を上げた。
「画集?」
「はい。先生がこれまでお描きになった作品を集め、一冊にまとめるのです。門人たちの手元にある作品も集めることができれば、先生のこれまでの歩みを、より広く伝えられると思います」
玉章はすぐには答えず、しばらく熊治の顔を見つめていた。
唐突な申し出に驚いたのか、それとも、その考えの先にあるものを見定めようとしていたのか、その沈黙の理由を、熊治は知ることができなかった。いずれにしても、画集を作るという発想は、思いつきだけで形にできるものではない。作品を集め、選び、掲載するための準備を整え、刊行へとつなげなければならなかった。
やがて玉章は、ふっと笑った。
「雲岳、お前は画を描くより、こういうことを考えるほうが向いているのかもしれないな」からかうような口調だった。
「それでは困ります」
「なぜだ」
「私は絵師になりたいのですから」
熊治がそう答えると、玉章は声を立てずに笑った。
「ならば、絵師が画集を作ればいい」
何気ない言葉だったのかもしれない。しかし熊治にとって、それは自分の考えを前へ進めるための言葉となった。
画を描くことと、画を残すこと。その二つを、別々の仕事と考える必要はないのではないか。
自分が描くことだけに専心するのではなく、師の作品を記録し、その価値を後世へ伝えることもまた、絵師としての経験を生かせる仕事なのだ。熊治は、画集の編纂に取りかかる決意を固めた。
続く。。。




