第三部 東京へ――たきとの結婚・玉章との出会い
第一章 逓信省
明治二十八年、熊治は逓信省に職を得て、名古屋郵便電信局で通信書記補(一等)として勤務し、やがて東京へ転勤することになる。画筆を生業とする道から距離を置き、役所勤めによって暮らしを立てようと考えたのである。
逓信省の仕事は、画の修業とはまるで異なっていた。
定められた時刻に出勤し、書類を受け取り、電信で送られてきた文字を確認する。必要な情報を書き写し、間違いがないかを確かめ、次の部署へ回す。電信線を通じて届けられた言葉を正確に扱い、人から人へと確実に伝える。それが日々の務めであった。
それまで熊治が向き合ってきたのは、画である。今度は文字だった。
書き間違いが許されないという点では、二つの仕事に共通するものがあった。しかし、紙の上に求められるものは違っていた。
役所の文書では、必要な情報を明瞭に伝えることが第一である。文字は決められた位置に並び、余分なものを加えず、曖昧さを残さないように記される。
一方、熊治が学んできた画では、描かれたものだけがすべてではなかった。
一本の枝を描けば、その向こうに広がる空気まで感じさせたい。山を描けば、画面に描かれていない遠い山の存在を想像させたい。鳥を一羽描くときにも、その鳥がどこから飛んできて、どこへ向かおうとしているのか、見る者が思いを巡らせる余地を残したい。
描かないことで、かえって伝わるものがある。それが、熊治の学んできた画の世界だった。
しかし、今の自分には、もうその世界に戻る資格がないように思えた。三好雲仙も、奥村石蘭も、すでにこの世を去っている。
二人の師を相次いで失ったことは、熊治の心に深い空白を残していた。筆を握れば、雲仙ならどう描くだろうか、石蘭ならこの線をどう見るだろうかと考えてしまう。師の教えを思い出すことは、かつてなら自分を支える力になった。だが、今はその教えに答えてくれる人がいないという事実を、かえって強く意識させられた。
石蘭の画塾を思い出すこともあった。
師が亡くなった後の画塾は、以前よりも広く、静かに感じられたことだろう。そこに満ちていた人の気配も、厳しい声も、もう戻ってこない。
ある夕暮れ、熊治は帰り道で足を止めた。
空には薄紫色の雲が広がり、何本もの電線が町並みを横切っていた。その一本に、雀がとまっている。小さな身体を丸め、辺りをうかがうように首を動かしていた。
熊治は、思わずその姿を見つめた。
あの雀を、どう描けばよいだろう。
そう考えた瞬間、自分の心に気づき、苦笑した。
もう画は描かないと決めたはずだった。それなのに、目に入るものを見れば、自然と形や動きを捉えようとしている。
翌朝も、役所へ向かう道で木々の枝ぶりに目が留まり、川面を見れば光の揺らぎを追っていた。季節が移れば、同じ景色がどのように変わるのかを考える。筆を持たずにいても、ものを見ることまではやめられなかった。
熊治は、画を描かないことで、自分の心を守ろうとしていたのかもしれない。だが、筆を置いたからといって、画が熊治のなかから消えてくれるわけではなかった。
絵師として生きることを諦めたつもりでいても、ものを見る眼は、なお絵師のままだったのである。
第二章 たきとの結婚
明治三十年九月十四日、熊治は西村たきと結婚した。
たきは明治二年十一月十五日、元尾張藩士で御馬方本役を務めた西村竹八郎の次女として生まれた。嘉永五年生まれの熊治とは十七歳の年齢差があった。
熊治が一時期、西村家に身を寄せていたという伝承が残されている。ただし、どのような事情で西村家に滞在することになったのか、詳しいことは明らかではない。この伝承が事実であれば、二人の縁は結婚によって突然生まれたものではなく、熊治が西村家に出入りしていた頃から、少しずつ育まれていた可能性がある。
この縁を考えるうえでは、奥村石蘭の存在も気に掛かる。
石蘭は名古屋を拠点に活動した四条派の絵師であると同時に、元尾張藩士でもあった。一方、たきの父である竹八郎も、尾張藩に仕えた人物である。二人が藩士として接点を持っていたとすれば、熊治と西村家とのつながりにも、石蘭を介した人の縁があったのではないかと想像できる。
もっとも、三者の間にどのような交流があったのかを示す確かな記録は、現在のところ確認できない。したがって、これは今後の調査によって検討すべき可能性の一つである。
明治という新しい時代は、武家に生まれた者にも、絵筆を生業とする者にも、それぞれの生き方を問い直すことを迫っていた。かつて藩に仕えていた人々は、新たな社会のなかで自らの居場所を探さなければならず、絵師たちもまた、旧来の庇護に頼ることなく、仕事を得て暮らしを支えていく必要があった。
竹八郎も、熊治も、それぞれに時代の変化を受け止めながら生きていた。その二人の人生が交わるところに、たきとの縁が生まれたのである。
熊治にとって、結婚は単に家庭を持つというだけの出来事ではなかった。画を描くことから離れ、これから何を生業として生きていくのか、まだ十分な答えを見いだせずにいた自分。そのような自分を抱えたまま、誰かと暮らしを築いていくことになったのである。
たきが、熊治の胸の内をどこまで理解していたのかは分からない。長年の修業や師との別れが、彼にどれほど大きな影響を与えていたのか、すべてを知ることはできなかっただろう。
それでも、熊治が時折、何も描かれていない紙をじっと見つめていることには気づいていた。
ある晩のことだった。
「旦那様、何を見ていらっしゃるのですか」たきが尋ねた。
「何も……」
「何も、ですか」
熊治は、目の前の紙に視線を落とした。
「何も描いていない紙だ」
たきも紙を見た。そこには、言葉どおり何も描かれていなかった。
「何もないのに、そんなに長く見ていらっしゃるのですか」
熊治は、かすかに笑った。
「画を描く者は、何もないところを見るのが仕事なのかもしれない」
たきには、その言葉の意味が十分には分からなかった。
けれど、無理に尋ねようとはしなかった。自分には分からないことでも、熊治にとって大切なものなら、そっとしておけばよい。そう考えたのかもしれない。
夫婦の暮らしは、必ずしも言葉を尽くすことだけで成り立つものではない。相手の心をすべて理解できなくても、その人が何を大切にしているかを知り、必要以上に踏み込まずに見守ることもある。
たきは、熊治の迷いを解きほぐすことはできなかった。しかし、彼が抱えているものを無理に捨てさせようともしなかった。
たきとはそういう女性であった。その静かな距離が、二人の暮らしの始まりにあった。
第三章 東京市
東京は、熊治がこれまで知っていた町とは異なる顔を持っていた。
名古屋も人の往来が盛んな町だったが、東京では、さらに多くの人々が行き交っていた。馬車が道を走り、新聞売りの声が響く。和服姿の人々の間には洋装の男性が見られ、煉瓦造りの建物の隣には、昔ながらの木造家屋が残っていた。
古いものと新しいものが、互いに場所を譲ることなく、同じ町のなかに存在している。
熊治は、その光景に戸惑いながらも、どこか心を惹かれていた。
町の姿が変わっていくように、画の世界もまた、大きな変化のなかにあった。
西洋から新たな文化や技術が流入し、油彩画をはじめとする西洋画が注目を集めていた。写真も少しずつ普及し、目の前の姿を写し取るという行為の意味そのものが変わりつつあった。
日本画を描く者たちも、従来の技法を守るだけでは済まされなくなっていた。何を受け継ぎ、何を改めるのか。新しい表現をどこまで取り入れるのか。伝統を守ることと、時代に応じて変わることは、どのように両立するのか。
そうした問いが、美術に関わる人々の前に置かれていた。
熊治もまた、その変化を感じていた。
名古屋で石蘭に学んでいた頃、町の看板に描かれた画や、学校で教えられる画学など、絵師の仕事が必ずしも床の間に飾る作品だけに限られないことを知った。東京では、その世界がさらに広がっているように思われた。
そんな折、熊治は一人の絵師の名を耳にした。
川端玉章。
円山派の流れを直系として受け継ぎ、写生を重んじる絵師。そして近代の日本画壇で重要な位置を占めている人物だった。
その名を聞いたとき、熊治の胸の奥に、小さな火が灯った。
ただ、名を聞いたことがあるというだけではなかった。自分がこれから向き合わなければならない絵師なのではないか。そんな思いが、心のどこかに生まれたのである。だが、熊治にはためらいがあった。
三好雲仙の門で学び、奥村石蘭のもとで修業を重ね、すでに「雲岳」という画号も持っている。若い頃から画の道を歩み、四条派の絵師たちの教えを受けてきた自分が、今さら新たな、それも違う流派である円山派の師の門を叩いてよいものだろうか。
年齢のこともあった。これから一から学び直すには、もう遅いのではないか。そうした考えが、何度も熊治の足を止めた。
ある日、仕事を終えた熊治は、画材を扱う店の前で立ち止まった。
店先には、大小さまざまな筆が並んでいた。新しい筆もあれば、長く売れずに残っているように見える筆もある。細いもの、太いもの、毛質の異なるもの。それぞれが、誰かに使われる日を待っていた。
熊治は、そのなかからテン毛の面相筆を一本手に取った。
毛先を指でそっと撫でる。その感触に、石蘭の教えがよみがえった。
――師の画を身につけるだけでは、自分の画にはならない。
熊治は、筆を見つめた。
師の言葉は、もう直接聞くことができない。しかし、教えられたことは、今も自分のなかに残っている。
筆を持つことが怖いのなら、まず一本の筆を買えばよい。
そう思ったのかもしれない。熊治は、その面相筆を買った。
画を再び始めると決めたわけではなかった。玉章の門を叩く覚悟ができたわけでもない。ただ、筆を手に取ることから、もう一度始めてみようと思ったのである。
第四章 川端玉章――画の道を深めた師匠
天保十三年、京都の高倉二条瓦町に、一人の男児が生まれた。名を滝之助という。
後に川端玉章と号し明治画壇を代表する日本画家の一人となる人物である。
父の左兵衛は蒔絵師で、三井家にも出入りしていた。滝之助は職人の家に生まれ
父の縁によって三井家へ奉公に出ることになった。画を描くことだけに専念できる
境遇ではなかったが、幼い頃から画を描く才能を示していた。
十一歳のとき、その才を認めた三井高喜らの取り計らいによって、京都の絵師・
中島来章の門に入った。さらに、小田海僊から画論を学び、絵画の技法だけでなく
その背後にある理法にも触れていった。
師のもとでの修業は、滝之助に絵師としての基礎を与えた。
とりわけ、対象を丹念に観察し、形や色、動きの特徴を捉える姿勢は、後年の画風を形づくる重要な礎となった。
彼にとって、自然を描くことは、目に映る姿をそのまま紙に移すことではなかった。対象をよく見て、その特徴を見極め、余分なものを削り何を描けばそのものらしさが表れるのかを考えることだったのである。
文久三年には、虎を写生した作品を残している。動物の骨格や筋肉、毛並みのありようを捉えようとする眼差しには、後年、円山派の絵師として名を成す滝之助の資質がすでに表れていた。
慶応三年、滝之助は江戸へ移った。幕末の世は大きく揺れ、長く続いた秩序が崩れようとしていた。絵師にとっても、従来の庇護や慣習だけに頼って生きることが難しくなりつつあった。
明治五年、彼は洋画家・高橋由一に師事し、油絵を学んだ。日本画を修めた絵師が西洋の技法に触れることは、当時の美術界における新しい試みの一つだった。滝之助は、これまで学んできた伝統を捨てるのではなく、異なる表現の方法にも目を向けていたのである。
同じ年、三井家の依頼を受け、江戸の三囲神社に「狐の嫁入り」と題する扁額を描いた。この作品は現存していないが、彼の名を世に知らしめる契機となった。
もっとも、絵師としての評価が定まるまでの暮らしは、決して安楽なものではなかった。生活を支えるため、錦絵の版下や眼鏡絵、新聞の付録画なども手がけたという。後に画壇で高い地位を築く画家も、初めから名声や安定した収入を得ていたわけではない。求められる仕事を引き受け、筆を動かし続ける日々があった。
明治十年、第一回内国勧業博覧会に出品して褒状を受けると、その実力は次第に広く認められるようになった。明治十五年、十七年の内国絵画共進会でも賞を受け、画壇における地位を着実に築いていく。
玉章は、制作だけにとどまらず、後進の育成にも力を注いだ。明治十一年には画塾を開き、若い画家たちに技術を伝える道を歩み始める。明治十四年頃には深川に画塾「天真社」を開設し、門人たちの指導にあたった。また、明治十二年の龍池会の設立にも関わり、日本の伝統美術を社会のなかでいかに維持し、発展させるかという課題にも向き合っていた。
明治二十三年、玉章は岡倉覚三、後の岡倉天心に招かれ、東京美術学校の教師に就任した。担当したのは、円山派の画法を中心とする写生であった。以後、大正元年まで二十年以上にわたり教壇に立ち、多くの学生に絵画の技術を伝えることになる。
玉章が教師として迎えられるきっかけになったとされるのが、両国で開かれた大規模な書画会である。そこには当時の名だたる画家たちが集まり、河鍋暁斎もまた卓越した技量を示したという。玉章の画は、他の画家たちと図柄が重ならず、それぞれに異なる趣向を備えていた。その点が天心の目に留まったと伝えられている。
玉章の画技を語るうえで、しばしば引き合いに出されるのが、驚くべき筆の速さである。
彼は学校へ出勤する前に、十枚、十五枚と画を描き上げることを自慢にしていたという。筆を持てば、対象の形を捉え、必要な線を迷いなく画面へ置いていく。その手際は、長年の鍛錬によって身につけた技術の確かさを物語っていた。
あるとき、展覧会に出品する壁画のため、学生たちの前で柳の画を描いたことがあった。玉章は筆に墨を含ませると、一間ほども飛び退きながら長い線を引き、そこへ次々と筆を加えた。ほどなく画面には、風を受ける青柳の姿が現れていたという。見守っていた学生たちには、それがまるで曲芸のように映った。
玉章の画は、しばしば「腕の画家」と評された。円山派に連なる写生の技法を身につけ、対象を的確に捉え、筆の運びによって表現する。その技量は、同時代の画家たちのなかでも際立っていた。
一方、東京美術学校で同僚となった橋本雅邦は、絵画の構想や精神性を重んじる画家として知られていた。二人は同じ日本画を教えながらも、画家としての資質や絵画に対する考え方には違いがあった。両者の存在は、明治期の日本画が一つの方向に収まることなく、さまざまな考え方のもとで展開していたことを示している。
玉章の指導は、東京美術学校の学生たちだけに向けられたものではなかった。明治二十四年、若い世代の画家たちが日本青年絵画協会を設立した際にも、彼はその活動を援助した。協会の事務所が玉章邸に置かれたことは、若い画家たちが彼を頼り、その力を必要としていたことを物語っている。
明治二十九年には帝室技芸員に任じられ、翌年には古社寺保存会の委員明治三十一年には
日本美術院の会員となった。文展の開設後は審査員も務め、制作と教育の双方において、明
治画壇を支える存在となっていった。
川端画学校を開設した。東京美術学校での指導に加え、自らの名を冠した学びの場 明治四
十二年には、小石川下富坂町に設けたのである。そこには画家を志す者たちが集まり、玉章
のもとで写生や筆法を学んだ。
玉章は、手の技に優れた画家であった。しかし、その技術は、ただ速く巧みに描く為だけ
のものではなかった。対象を見極め、形の要点を捉え余計なものを加えずに画面を成立させ
る。そのためには、目の前の自然を繰り返し観察し、幾度も筆を動かす必要がある。
玉章が門人たちに伝えたものは、完成した画の描き方だけではなかった。
画を描くための眼を養い、その眼が捉えたものを筆に移す方法でもあったのだろう。
彼の数多くの作品と、その教えを受けた画家たちは、明治から大正へと移り変わる日本画
の世界に、確かな足跡を刻んだ。
そして、その教えを受けることになる者のなかに、遠く名古屋から東京へやってきた矢吹
熊治がいた。
続く。。。




