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筆の花  作者: 璋雲亭紫竹園
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第二部 雲岳誕生――奥村石蘭と二人の師

第一章 名古屋へ


 明治二十二年、秋。


 熊治は、長く暮らした備中国を離れ、名古屋へ向かっていた。


 金井戸の家を出て、真金の画塾で三好雲仙の教えを受けるようになってから、幾年もの歳月が流れていた。師のもとで画を学び、門弟たちと研鑽を重ね、やがては画塾を任されるまでになった。若いながらも、絵師としての道を歩み始めていたのである。


 しかし、雲仙は熊治に、そこで満足することを許さなかった。


 もっと広い世界を見よ。自分の知るものだけを頼りにせず、新たなものを学べと。


 師の言葉には、そうした意味が込められていたのだろ



う。熊治は、雲仙が自分に何を期待しているのか、すべてを理解していたわけではない。それでも、師が示した道を進むことが、いまの自分にできる最善の選択だと考えていた。


 新たな修業の場として名が挙がったのは、尾張名古屋であった。そこには、四条派の画法を身につけ、名古屋の画壇で活動する奥村石蘭がいた。


 熊治は、画道具を収めた荷を確かめた。着替えや身の回りの品も必要だったが、気に掛かるのは、やはり筆や硯のことである。使い慣れた道具は、故郷から遠ざかる心細さを和らげてくれるようでもあった。


 汽車の窓から、見慣れた土地が遠ざかっていく。


 田畑が続き、家々が流れ、やがて景色は少しずつ見知らぬものへと変わっていった。熊治は黙って外を眺めていた。


 これから、自分は何を学ぶことになるのだろう。


 雲仙の教えを身につけたという自負はある。画塾を任された経験も、決して小さなものではなかった。しかし、それらが新しい土地でも通用するとは限らない。これまで積み上げてきたものを、同じ四条派とはいえ別の師の前でどこまで生かせるのか。そのことを考えると、期待とともに、いくらかの不安も胸に浮かんだ。


 やがて名古屋に着いた。


 町には人があふれ、商人の呼び声や荷車の音が絶えなかった。故郷の村とは比べものにならない人の往来である。道を行く者の服装もさまざまで、古くからの暮らしを守る和服の人々の隣を、新しい時代の流行を取り入れた洋装の人々が通り過ぎていく。


 明治という時代は、熊治が想像していた以上に、速やかに姿を変えつつあった。


 その変化を目の当たりにしながら、熊治は思った。


 画もまた、変わっていくのかもしれない。


 古い技法を身につけることと、新しい時代を描くこと。その二つは、必ずしも相反するものではないはずだった。


 まずは石蘭のもとで学ぶことだ。


 熊治は荷を持ち直し、名古屋の町へと歩き出した。




第二章 奥村石蘭――画の世界を広げた師匠 


 奥村石蘭は、天保五年、尾張国名古屋に生まれた。名は庸、通称を源吾という。後に石蘭と号し、絵師として名古屋の画壇にその名を残すことになる。


 尾張藩士の家に生まれた石蘭は、十歳の頃、画僕として呉春の下で修行していた野村玉渓の門に入り、画の稽古を始めた。そこで学んだのは、京都に伝わる四条派直系の画法であった。


 四条派は、与謝蕪村から学んだ詩情や柔らかく情緒的な表現を円山応挙の写実的


表現を融合させた、いわゆる古くから受け継がれてきた文人画の約束事を踏まえな


がら、草木や鳥獣の姿を生き生きと写し取る画風が特徴である。


 もっとも、目の前にあるものを写すという行為は、単に形を正確に描き取れば済む


ものではない。対象の特徴を見極め、何を画面に残し、何を省くかを判断しなければ


ならない。筆の運び、墨の濃淡、構図の組み立て。それらを身につけるには、長い長


い修練が必要であった。


 石蘭は、そうした修業を十五年にわたって続けていた。


 安政二年には京都へ赴き、四条派を代表する絵師の一人、横山清暉に師事した。


名古屋で積んだ経験を携え、さらに本格的な画の世界へ踏み込んだのである。


 京都には、長い年月をかけて培われた文化と技芸が集まっていた。絵師たちは


師から画法を学ぶだけでなく、同時代の作品に触れ、さまざまな表現を知ること


ができた。石蘭が京都で何を見て、何を考えたのか詳しい記録は伝わっていない。


しかし、故郷を離れて研鑽を重ねた経験が、その後の制作を支える大きな基盤に


なったことは想像に難くない。


 修業を終えて名古屋へ戻った石蘭は、絵師として生きる道を選んだ。


 画を描くことと、画によって生計を立てることは、同じではない。注文主の求めに応じて作品を仕上げる一方で、自らの技量を磨き、絵師としての評価を得ていかなければならない。伝統を身につけた者であっても、世の中の変化から自由ではなかった。


 石蘭もまた、そうした現実のなかで筆を執り続けた。


 明治維新によって、社会の仕組みは大きく変わった。尾張藩士の家に生まれた石蘭にとっても、身分や制度の変化は無縁ではなかったはずである。藩の庇護を前提としていた時代が終わり、人々の暮らしや仕事のあり方が変わっていくなか、絵師たちもまた、新しい時代における自らの立ち位置を考えなければならなかった。


 石蘭は、制作を続けるだけでなく、画を教え、仲間と協力しながら、名古屋の美術界を育てることにも力を注いだ。


 明治十六年には、小田切春江、葦原眉山、木村金秋らとともに同好社を設立した。絵師たちが協力して美術の発展を図り、作品を発表する機会を広げようとする試みであった。


 同好社は、大須の総見寺に設けられた名古屋博物館で、作品の展示即売会を開いた。作品を人々に見てもらうだけでなく、販売を通じて社会へ送り出すことにも取り組んだのである。


 絵師が作品を発表し、それを鑑賞する人々がいる。作品が売買されることで、描く者の生活も成り立つ。そうした場を整えることは、個々の絵師の活動を支えるだけでなく、地域に美術文化を根づかせることにもつながっていた。


 石蘭の活動は、画壇の内側だけにとどまらなかった。


 国風学校で画学教師を務め、『小学校毛筆画初歩』や『高等小学校毛筆水墨画』を著したことも、その一例である。絵画を学ぶ機会を、専門の絵師や門弟だけでなく、学校に通う子供たちへと広げたのである。


 筆を持ち、墨を含ませ、目の前のものを観察する。その基本を学ぶことは、子供たちにとっても、ものを見る眼を養う機会となる。石蘭が教本を著した背景には、自らの長年の修業で得た知識を、より多くの人々が学べる形に整えようとする考えがあったのかもしれない。


 伝統を守るということは、昔の技法をそのまま繰り返すことだけではない。受け継いだものを、書籍を通じて次の時代に生きる人々へ伝わる形にすること。切り口を増やすこともまた、伝統を守る営みの一つである。


 石蘭は、そのことを試行錯誤しながら実践していた。


 彼には、絵師としての腕を広く知らしめた、少々変わった仕事もあった。


 名古屋の雁鍋屋「鳥源」に掲げられた、大きな横看板である。石蘭は、店の間口いっぱいに広がる看板に、空を飛ぶ三羽の雁を描いた。用いたのは、掛軸や屏風に用いる日本画の画材ではなく、ペンキであったという。


 伝統的な画法を身につけ、京都で研鑽を積んだ絵師が、町なかの店の看板に雁を描く。床の間に飾られる作品とは、ずいぶん趣の異なる仕事である。しかし、描かれた雁は人々の目を引き、それを目当てに店を訪れる者も多かったと伝えられている。


 絵師の仕事は、限られた人々が鑑賞する作品だけで成り立つものではない。町を歩く人の目を楽しませ、商いの場を彩る画もまた、人々の暮らしに関わる表現である。石蘭の看板は、彼の画技が、広く町の人々に届いていたことを示している。


 制作、教育、そして絵師同士の協力によって石蘭は、明治二十八年二月七日、六十歳で世を去るまでさまざまな形で名古屋の美術界に関わり続けた。


 石蘭が残したものは、作品だけではなかった。師から受け継いだ画法を磨き、自らの制作に生かし、それを門人や学校の児童へと伝えた。さらに、同好社の活動を通じて絵師たちを結びつけ、美術を社会へ開いていった。その歩みは、名古屋の近代美術史の一端を形づくっている。



 そして、石蘭のもとで画を学ぶことになった者の一人が、矢吹熊治であった。


 備中国から名古屋へ出てきた熊治にとって、石蘭は、これまでとは異なる角度から四条派の画法を学ぶための師だった。雲仙のもとで身につけた技術を携えながら、新たな師の眼を通して、自分の画を見直していくことになる。その修業は、単に筆法を増やすためのものではなかった。自分が何を学び、何を身につけ、何をまだ理解していないのか。それを知ることから、新しい一歩が始まるのである。





第三章 もう一度、最初から


 石蘭の画塾を初めて訪れた日、熊治は緊張を覚えていた。


 これまで三好雲仙のもとで学び、門弟たちを教える立場も経験している。画について、まったくの初心者というわけではない。むしろ、自分なりに積み重ねてきたものがあるという自負もあった。


 だが、その自負が新しい師の前でどこまで通用するのかは、まだ分からなかった。


「矢吹雲岳と申します」と取次に名を告げる。


 奥で画を描いていた石蘭が顔を上げた。


「雲岳?」


「はい。本名は熊治と申します」


「三好雲仙のところにいたそうだな」


「はい。教えを受けておりました」


「どのくらい学んだ」熊治は答えた。


石蘭はしばらく黙って熊治を見ていたが「そうか。では描いてみなさい」と一言いい、目の前に紙を置いた。



 石蘭はそれ以上、細かな説明をしなかった。熊治は筆を執り鶴と鷺を描いた。


 長い脚と首、羽の重なり、鳥の姿勢。熊治にとって、鳥は比較的得意な画題だった。筆を進めるうちに、緊張もいくらか薄れた。線を引き、墨を置き、羽の表情を整える。最後に目を入れると、鳥の姿が画面に落ち着いた。


 熊治は筆を置き、石蘭に眼を移し「いかがでしょうか」と尋ねた


 石蘭は、しばらく画を眺めて「悪くない」とひとこと言った。


 その言葉に、熊治はひとまず安堵した。だが、石蘭はすぐに続けた。


「だが、まだお前自身の画ではないな」


「自分の画、ですか」


「雲仙師匠の画を、よく身につけている。だが、身につけたものをそのまま出すだけでは、いつまでも師匠の画だ」


 熊治は、紙に目を落とした。



岡本豊彦門下は、師の画を徹底的に模写する修練を伝統としている。


 そのせいか確かに、描いた鳥には雲仙の教えが表れていた。筆法も、構図も、墨の置き方も、長い修業のなかで身につけたものである。自分では、それらを自分の技量として扱えるようになったつもりでいた。


 しかし石蘭は、その画のなかに、熊治自身の眼がまだ十分に表れていないと見たのだろう。


 師の画を学ぶことは、修業の出発点である。何百何千回と模写を重ね、技法を身につけることなくして、画の基礎は築けない。けれども、学んだ技法を自在に使えるようになることと、自分の表現を獲得することは、同じではなかった。


「画を学ぶ者は、最初は皆そうなる」


 石蘭は、いくらか表情を和らげた。


「だが、いつまでも師匠の影のなかにいてはいかん」


 熊治は返す言葉を探したが、すぐには見つからなかった。反論したい気持ちがなかったわけではない。これまで自分が積み重ねてきた修業を、簡単に否定されたようにも感じた。


 しかし、石蘭は画そのものを否定したわけではない。技術があることは認めたうえで、その先にあるものを求めているのだ。


 熊治は、ようやくそのことを理解しかけていた。


「石蘭先生。ご指導のほど、よろしくお願いいたします」


 頭を下げたとき、胸の内には、安堵よりも緊張が強く残っていた。


 ここでは、これまでの経験だけを頼りにするわけにはいかない。


 熊治は、再び一人の弟子として学び直す覚悟を決めた。



 石蘭のもとでの修業は、容易ではなかった。


「もう一度、描いてみなさい」石蘭は、しばしばそう命じた。



 熊治が描き終えると、画を見つめ、気に入らなければ描き直しを求める。どこがダメなのかを言わない。ただ「違う」と短い言葉が落ちる。



 熊治は新しい紙を広げ、再び筆を取った。


 何が違うのか、どこを直せばよいのかを尋ねれば答えは得られるかもしれない。だが、石蘭は、弟子が自ら気づくことを待つように、細かな説明を与えないことが多かった。


 描いては直し、直しては描く。時には紙を破られるその繰り返しが続いた。熊治の胸には、次第に焦りが募っていった。



 雲仙のもとでも厳しい修業を重ねてきた自負がある。しかし、ここでは、これまで身につけたものがかえって邪魔をしているように思えることさえあった。自分の画には、それなりの自信があったが、その自信があるからこそ、何度も描き直しを命じられることが、思いのほか堪えた。


 技術が足りないのだろうか。それとも、石蘭の求めるものが、自分には理解できていないのだろうかと考えれば考えるほど、筆が重くなった。



 ある朝、熊治は誰よりも早く画塾へ出向いた。


 まだ、ほかの門弟たちは来ていない。庭には静けさが満ち、朝の光が枝葉の間から差し込んでいた。一本の木に目を留めると、葉の先に残った露が、光を受けて小さく輝いていた。


 熊治は、しばらくその木を眺めた。



 これまでは、枝の形を正確に写そうとしていた。葉の形を整え、木の姿を画面に収め、見たものを過不足なく描こうとしていたのである。


 だが、いま目の前にある木は、ただ枝と葉の集まりとして存在しているのではなかった。


 枝の伸び方には、それぞれの方向へ向かおうとする力がある。光の当たる葉と、陰に沈む葉とでは、同じ緑でも見え方が違う。風が吹けば葉は揺れ、朝露はその動きに合わせてかすかに光を変える。


 目に映る形の奥に、その形を成り立たせているものがある。


 熊治は、ようやく筆を取った。



 枝の輪郭をなぞるのではなく、枝が伸びていく勢いを捉えようとした。葉を一枚ずつ描き込むのではなく、葉の重なりや風の通り道を考えながら筆を動かした。


 それまでの修業で身につけた技法を捨てたわけではない。ただ、その技法を何のために使うのか、意識が変わり始めていた。



 筆を動かしているうちに、背後に人の気配がした。


「今のほうがいい」突然の声に驚き慌てて振り返ると、そこには石蘭が立っていた。



「先生……」


石蘭は近づいて画を見た。「ようやく、少し分かってきたな」と石蘭は笑いながら言った。この師匠は気に入らないと厳しく叱咤するが、認めてくれた時の笑い顔はとても魅力的である。その声には、いつもの厳しさとは違う柔らかさがあった。


 熊治は、胸の奥にこみ上げるものを感じた。何度も描き直しを命じられ、時には画を破られ、何が足りないのか分からずにいた。その末に聞いた一言だった。嬉しかった。


 ただ褒められたからではない。自分が苦しみながら探していたものを、師もまた見ていてくれた。そのことが、何よりも嬉しかったのである。


 石蘭は、いつも弟子に優しいわけではなかった。納得できなければ厳しく叱り、妥協を許さない。しかし、認めるべきものを見つけたときには、率直にそれを認めた。


 その厳しさと率直さが、熊治には次第に分かってきた。


 技法を身につけるだけでは足りない。目の前のものを自分の眼で見つめ、何を感じ取ったのかを、自分の筆で表さなければならない。


 その日の朝、熊治は、画を学ぶということの難しさを、改めて知ったのである。




第四章 名古屋の日々


 名古屋での生活は、熊治にとって、画の修業だけでは得られない経験をもたらした。


 町には人が行き交い、商いの声が絶えなかった。なかでも大須界隈は、古くからの寺社や芝居小屋、見世物などが集まる、活気に満ちた場所であった。


 大須総見寺や大須観音に代表される由緒ある寺院がある一方、近代的な設備を備えた劇場も建ち始めていた。宝生座、末広座、音羽座などでは興行が行われ、アーク灯とよばれる電気照明が夜の町を照らすようになっていた。


 熊治が目にした名古屋は、古いものがそのまま残る町ではなかった。伝統を受け継ぐものと、新しい時代の仕組みを取り入れたものとが、同じ場所に並んでいた。


 商人の装いも、通りを歩く人々の姿も一様ではない。和服を着た人々の間を洋装の男性が行き交い、かつて武士であったと思われる者も、町のなかに暮らしていた。



 その光景は、熊治にとって一幅の画のように見えた。


 異なるものが、ひとつの画面に収まっている。



 画も同じではないか。古い技法を学びながら、新しいものを描く。伝統を身につけたうえで、自分の時代を表現する。石蘭のもとで学ぶうちに、熊治はそのことを少しずつ考えるようになっていた。



 石蘭の画塾では、熊治自身も門弟たちの指導にあたるようになった。


 人に教えることは、思いのほか難しい。自分が理解しているつもりのことでも、いざ言葉にしようとすると、十分に説明できない場合がある。相手がどこでつまずいているのかを見極め、その者の理解に応じて伝えなければならない。


 ある日、若い門弟が鳥の羽の描き方について尋ねてきた。


「雲岳先生、ここがうまく描けません」


 熊治は紙をのぞき込んだ。


「羽を描こうとしているのだね」


「はい。形を整えようとしても、どうにも自然に見えません」


 熊治は、しばらく画を見つめた。


「羽の形だけを見ていても、難しいだろうね」


「では、何を見ればよいのでしょうか」


「鳥がどのように動こうとしているのかを見てごらん。飛び立つところなのか、羽を休めているところなのか。それによって、羽の形も違ってくる」


 門弟は、改めて紙を見た。


「羽そのものだけではなく、動きを見るのですね」


「そうだ。鳥の姿を描くというのは、羽を一枚ずつ並べることではない。鳥がそこにいる、そのありようを描くことなのだから」


 言葉にしてみて、熊治自身も気づくことがあった。



 それは、雲仙から学んだことでもあり、石蘭のもとで改めて考えさせられたことでもあった。形を写すだけでは、対象の本質には届かない。観察するとは、目に入るものを拾い集めることではなく、そのものが何によって成り立っているのかを見極めることなのだ。


 教えることは、自らの学びを確かめることでもあった。


 雲仙の教えと石蘭の指導は、熊治のなかで、点と点が少しずつ結びつき線となり始めていた。


 雲仙からは、画に向かう姿勢と、描かれていないものを見ようとする眼を学んだ。石蘭からは、目の前の対象を丹念に観察し、自分の筆で表現することの難しさを教えられた。


 二人の師の教えは、必ずしも同じ言葉で語られたわけではない。しかし、熊治はそれぞれの教えを自分のなかで受け止め、試行錯誤を重ねながら、少しずつ自分の画を探していた。


 いつしか彼は、ただ師の画を模倣するだけの門弟ではなくなりつつあったのだが、まだ、独自の画風を確立したといえる段階ではなかった。それでも、自ら考え、描き、教えるという経験が、熊治を一人の絵師へと育てていた。




第五章 雲岳という名


 熊治が「雲岳」という画号を授かったのは、三好雲仙の門にいた頃であり、名古屋へ移ってからも、その名を使い続けていた。


 画の隅に署名をするとき、熊治は時折、その二文字をしばらく眺めることがあった。


 雲岳。


 その名には、金井戸の空も、真金へ通った道も、雲仙の画塾で過ごした日々も結びついていた。自分がどこから来たのかを忘れないためにも、粗末にはできない名だった。


 ある夜、熊治は画塾に一人残っていた。


 描き終えた画を片づけ、筆を一本ずつ洗う。穂先に残った墨を落とし、余分な水分を手拭いで取り除く。硯を整え、墨をしまい、紙を重ねる。


 そうした道具の扱い方は、雲仙から厳しく教えられたものだった。


 画を描くことだけが修業なのではない。筆をいたわり、硯を整え、次に使うときに困らないようにしておく。日々の細かな所作にも、画に向かう者の心構えが表れる。



 熊治は、ふと雲仙のことを思った。


 今頃、師はどうしているだろう。元気に過ごしているだろうか。また、いつか顔を合わせる機会はあるだろうか。


 遠く離れて暮らすようになって、初めて気づくこともあった。師のもとにいた頃には、教えを受けることが日常であり、いつでも尋ねられることを、どこか当然のように思っていた。


 だが今は違う。


 石蘭という新しい師に学び、名古屋の町で生活を築いている。それでも、画に向かうとき、判断に迷うとき、雲仙の言葉がふと胸に浮かぶことがあった。


 師の教えは、離れたからといって消えるものではない。いや離れているからこそ強く心に響くものだった。


 熊治は、片づけを終えた画道具を見つめた。


 いつか自分も、誰かに何かを伝える立場になるのだろうか。


 まだ、その答えは分からない。ただ、雲岳という名を記すたび、師から受け取ったものを、自分のなかで育てていかなければならないと思うのだった。


続く。。。

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