第七部 玉章の死・璋雲画会・弟子・晩年
第六章 更なる活躍
璋雲の活動は、画会での指導だけにとどまらなかった。
作品を描き、画を教える一方で、日本画について考えたことを文章にまとめ、美術団体の活動にも関わった。帝国書画協会、東海美術協会、日本美術協会をはじめ、愛山書道会、春秋書道会など、書画に関わる人々との交流を続けた。また、振興美術展の運営にも携わった。
画を描くことと、画の世界を支えること。璋雲にとって、その二つは別々の仕事ではなかった。
一枚の画を描くには、技術だけでなく、対象を見つめる時間が必要である。だが、画が描かれただけでは、その作品が人々の目に触れるとは限らない。展示する場があり、作品について語る人がいて、画を学ぶ者がいてこそ、画の文化は次の世代へ伝わっていく。絵師の仕事は、紙の上で完結するものではない。画を描くこと。作品を人に見せること。画について考え、言葉にすること。そして、次に学ぶ者へと知識や技法を伝えること。それらは、互いに結びついていた。
明治三十九年(一九〇六)、璋雲は雑誌『すみれ』第三号に
「画法大概」を寄せている。
画について学んできたことを、文章として残す。自分が得た
知識を、自分の胸の内にだけ留めておく必要はない。
言葉にして伝えることで、直接教える機会のない者にも、その
一端を届けることができる。
文章にまとめるためには、自分の考えを整理しなければなら
ない。日々の修業のなかで身についた技術も、いざ説明しよう
とすれば、なぜそのように描くのかを改めて考える必要がある。
書くことは、教えることであると同時に、自分自身の学び直
しでもあった。
さらに大正十二年(一九二三)には、陰影投影法や遠近投影法などを説いた『近世用器画法外六種』を名古屋市図書館に寄贈した。
この書籍は記録として残っているが、散逸してしまい原本を読むことはできない。いずれにしても自分が知っていることを、自分一人のものとして抱え込むのではなく、後に学ぶ人々のために残す。その思いは、年を重ねるにつれて、璋雲の中で強くなっていったのだろう。
画を描く技術は、師から弟子へ、実際に筆を持つ手を通して伝わる。一方、文章や書籍は、直接の師弟関係を越えて、遠くの土地や後の時代にも届く可能性がある。画を残すことと、知識を残すこと。
その両方を通して、璋雲は自分が受け取ったものを次の世代へ渡そうとしていた。
画以外にも、璋雲にはさまざまな関心があった。篆刻に親しみ、人との交流を楽しみ、書家や文人など、異なる分野の人々とも交わった。
画室には、絵師だけでなく、書や詩文に関わる人々が訪れることもあっただろう。画について話し合うこともあれば、世間の出来事や日々の暮らしについて語ることもあったに違いない。人と人が出会えば、思いがけない発見がある。
ある人の言葉が、別の人の考えを動かす。見慣れた景色も、異なる目を持つ者と話すことで、別の姿を見せることがある。璋雲にとって、人との交流は、画を描くことから切り離された余暇ではなかった。人と交わり、話を聞き、自然を見つめ、心を動かされる。その積み重ねが、やがて筆の動きにも表れてくる。だからこそ、師たちとの出会いは、彼の人生にとって大きな意味を持っていた。
雲仙の教えがなければ、画の道を歩み始めた頃の自分は違っていただろう。石蘭のもとで学ばなければ、身につかなかった技術もあったはずだ。そして、玉章と出会わなければ、自分の画をどのように育てていくべきか、別の道をたどっていたかもしれない。師たちは、すでにこの世にいない。しかし、教わったことまで失われたわけではなかった。
璋雲が筆を持ち、弟子たちに教えるたびに、師たちから受け取ったものは、形を変えて生き続けていた。
ある夕暮れ、璋雲は画室で一人、山水画に向かっていた。
紙の上には、途中まで描いた山と木々がある。遠くの山並みは淡い墨で表し、手前の木々には濃い墨を用いている。画面にはまだ、描き足すべきところが残されていた。璋雲は筆を持ったまま、しばらく動かなかった。
ふと、若い頃に聞いた雲仙の声が、記憶の中によみがえった。
――よく見なさい。
続いて、石蘭の厳しい指導が思い出された。
――形だけを追うな。
そして、玉章から受け取った教えが胸に浮かんだ。
――自分の画を描け。
それらは、同じ言葉ではなかった。それぞれの師が、異なる経験と考えを通して伝えてくれたものだった。璋雲は、目を閉じた。
「先生方……」小さく呟き、再び目を開いた。
筆先に墨を含ませ、紙の上に一本の線を引く。
若い頃なら、師の筆遣いを思い浮かべながら描いたかもしれない。だが、今の璋雲には、長い年月を経て身につけた自分自身の筆があった。
力強さのなかに柔らかさがあり、描き込むところと余白を残すところとが、画面の中で釣り合っている。一本の線が次の線へとつながり、やがて山が形を成し、木々が生まれ、遠くの空が広がっていった。
描き終えた璋雲は、筆を置いた。
画室には、墨の匂いが微かに、そして静かに残っていた。
そのとき、彼はふと、自分が歩いてきた道を思った。
金井戸。真金。名古屋。東京。そして、再び名古屋。
その途中には、雲仙がいた。石蘭がいた。玉章がいた。たきがいた。熱子がいた。香国や子規をはじめ、さまざまな人々との出会いもあった。一人ひとりとの関わりが、自分の考えを形づくり、筆を育ててきた。画は、一人で描くものかもしれない。
けれど、画を描く人間は、一人だけで形づくられるのではない。
人との出会い、学んだこと、別れ、喜び、悲しみ。そのすべてが、画面に直接描かれなくとも、筆を持つ者の中に残っていく。璋雲は、そう考えるようになっていた。
晩年の璋雲が、どのような日々を送っていたのか、そのすべてを詳しく知ることはできない。ただ、長年にわたって作品を描き、教壇に立ち、弟子を育て、書画の世界に関わり続けたことは、彼の歩みを考えるうえで重要な意味を持つ。画を描くことだけが、絵師の仕事ではない。
画を通して人と関わり、教えを伝え、次の世代が自らの道を見いだす手助けをする。その仕事もまた、璋雲の生涯を形づくっていた。
弟子たちが画稿を持ってくると、璋雲はすぐに答えを与えるのではなく、しばらく画面を見つめることがあった。
「先生、これでよいでしょうか」
そう尋ねられれば、よいと答えることもあった。もう少し考えるようにと伝えることもあった。しかし、最後には、自分で判断するよう促した。
「自分で決めなさい」その言葉には、弟子に対する信頼があった。
師がいつまでも弟子の手を取り、すべてを決めてしまえば、弟子は自分の足で歩けない。師の教えを受け入れたうえで、それを自分のものとして育てていく。そのためには、最後に自分で判断することが欠かせなかった。璋雲が弟子たちに求めたのは、自分と同じ画を描くことではない。自分の目で見て、自分の手で描き、自分の画を見いだすことだった。それは、彼自身が師たちから受け取り、長い年月をかけて学んできた道でもあった。
第七章 筆の花咲く道
昭和二年(一九二七)、璋雲は七十五歳で生涯を終えた。
嘉永五年(一八五二)、備中国の小さな村に生まれた少年は、明治という激動の時代を生き、大正を経て、昭和の初めまで歩み続けた。
その間、日本の社会は大きく変わった。
鉄道が各地へ伸び、街には電灯が灯り、人々の暮らしや服装も変化した。江戸時代の名残を色濃く残す時代から、近代的な都市の姿が広がる時代へ。美術を取り巻く環境も、少しずつ変わっていった。
しかし、璋雲が筆を持ち、紙の上に一本の線を引くという行為は、基本的には変わらなかった。
硯に水を注ぎ、墨を磨る。
筆先を整え、紙を広げる。
そして、対象を見つめる。
その一つひとつの動作の中に、長い修業の年月が積み重なっていた。
ある日、璋雲は、古い画稿を整理していた。
そこには、雲岳と号していた頃の作品もあった。石蘭のもとで学んでいた時代のものもあれば、東京で玉章に師事していた頃の作品もあった。そして、璋雲という名を得てから描いた画も残されていた。
一枚ずつ手に取り、画面を確かめる。
若い頃の画には、形を正確に描こうとする意識が強く表れているものがあった。筆の運びに勢いはあるが、画面の構成がまだ定まっていないものもある。年月を経た作品には、線の選び方や墨の濃淡に、経験を積んだ者ならではの落ち着きが見られた。
どの作品にも、その時々の自分がいた。
「ずいぶん描いたものだな」璋雲は、小さく笑った。
だが、画稿を重ねていくうちに、別の思いも浮かんできた。
まだ、伝えるべきことが残っている。
画を描くことだけなら、これまで十分に続けてきたと言えるかもしれない。しかし、画を通じて学んだことを、すべて自分一人の中に留めておくわけにはいかなかった。
自分が見てきたもの。
師から教わったこと。
人との出会いを通して知ったこと。
そして、弟子たちに伝えてきたこと。
それらは、すべて自分だけの所有物ではない。
雲仙から受け取ったものを、石蘭から学んだものと重ね、玉章からの教えを加え、自分の画として育ててきた。今度は、自分が学んだことを弟子たちに渡す番だった。師から受け取ったものを、一時預かっている。そんな思いが、璋雲の中にあったのだろう。
金井戸の故郷にも、名古屋にも、璋雲が歩んだ跡が残っていた。
総社宮に奉納された二羽の鶴の画。故郷の人々とのつながり。名古屋で教えた生徒たち。東京で学んだ経験。そして、璋雲画会から巣立っていった弟子たち。一本の筆から生まれた線は、紙の上ではそこで終わる。
しかし、その画を見た者が何かを感じ、別の画を描こうと思えば、その線は別の場所で続いていく。師の教えを受けた弟子が、自分の画を描き始めれば、師の筆は新しい形で生きることになる。
璋雲は、そのことを知っていた。だから、自分の生涯がいつか終わることよりも、自分が歩んできた道の先に何が残るのかを考えるようになっていたのだろう。
画。言葉。弟子。そして、人との縁。
それらが残れば、自分が学んできたもののすべてが、失われるわけではない。 晩年のある朝、璋雲は、いつものように筆を取り出した。
墨を磨る音が、静かな画室に響いた。その音を聞きながら、彼は遠い日のことを思い出していた。
雲仙に初めて会った日。
石蘭に学んだ日々。
東京で玉章の前に座った日。
そして、玉章から新しい画号を授かった日。
――璋雲。
その名には、自分だけではなく、師たちから受け取ったものが込められている。璋雲は紙を広げた。
一本の枝を描く。
枝は、わずかに曲がっていた。真っすぐに伸びているのではない。風に押され、葉や花の重みを受け、それでも折れることなく伸びている。
その先に、小さな花を置いた。筆を置き、しばらく画面を眺める。
花は、自分の力だけで咲くのではない。土があり、水があり、陽の光がある。風が吹き、季節が巡り、長い時間が積み重なって、ようやく花は咲く。人もまた、同じなのかもしれない。
雲仙がいた。石蘭がいた。玉章がいた。たきがいた。熱子がいた。そして、今、自分の教えを受け取った弟子たちがいる。それぞれの人が、璋雲という一人の絵師を形づくっていた。
彼らと過ごした時間は、すでに過去のものとなっている。しかし、過去になったからといって、その意味まで失われるわけではない。教わったことは、自分の中に残っている。ともに暮らした人々の記憶も、失った悲しみも、消えることなく、今の自分を形づくっている。
そして、自分が学んだことは、弟子たちの中で、また別の形へと育っていく。璋雲は、画を見つめながら静かに微笑んだ。
若い頃、彼は師の画を学び、自分の画を探し続けていた。やがて、自分の名を掲げて教える立場となり、弟子たちが独り立ちしていく姿を見送るようになった。その道の先に、どのような画が生まれるのか。自分には分からない。だが、分からないからこそ、次の世代へ渡す意味があるのだろう。
璋雲は、再び筆を取った。窓の外には、朝の光が差していた。筆先が、静かに動き始めた。
――今日よりは筆の花さく時世哉。
玉章から贈られた句は、長い年月を経ても、璋雲の胸に残っていた。
その句を授かったとき、彼は新たな画号を得たばかりだった。これから何を描き、どのように生きていくのか、まだ分からないことも多かっただろう。
それから年月が過ぎ、師を失い、家族を失い、弟子を育てる立場となった今、句の意味は、かつてとは違う重みを持っていた。
筆の花とは、ただ一枚の優れた画のことではないのかもしれない。
自然を見る目。
筆を動かす技。
画に向かう心。
そして、師から弟子へと渡される教え。
それらが人から人へ伝わり、それぞれの時代に新たな画を生み出していく。その営みそのものが、筆の花なのではないか。璋雲が生涯をかけて受け継ぎ、育て、次の世代へ渡そうとしたものは、そうしたものだった。筆の花は、璋雲一人の画室の中だけで咲くものではない。
弟子たちの画室で咲き、彼らが教えた者たちの筆にも咲く。師から受け取ったものを、自分の目と手で育てる者がいる限り、その花は形を変えて咲き続けていく。
璋雲は、筆を置いた。画面には、一本の枝と、小さな花が残されていた。その花は、決して派手なものではなかった。けれど、枝の曲がり方にも、花の置かれた位置にも、長い年月を生きた絵師の目があった。
金井戸の少年が、初めて筆を握った日。
その小さな手にあった一本の筆は、七十五年の歳月を経て、数多くの画を生み出した。そして、その筆から学んだ者たちが、それぞれの画を描くようになった。
璋雲の生涯は、ここで終わる。
しかし、彼が受け取ったもの、そして次の世代へ渡したものまで、ここで途切れるわけではない。
誰かが一幅の掛軸を床の間に掛ける。
誰かが墨を磨り、紙を広げる。
そして、誰かが筆を取り、最初の一線を引く。
そのとき、過去の絵師が残したものは、再び新しい意味を持つ。
画は、描かれた瞬間だけに生きるのではない。
誰かがそれを見つめ、何かを感じ取ったとき、もう一度、その人の心の中に生まれる。璋雲の筆もまた、そうして歩き続けていくのだろう。
――今日よりは筆の花さく時世哉。
師から弟子へ。過去から未来へ。人から人へ。筆の花は、何度でも咲く。静かに、時を越えて。そして、その花は、今もどこかで咲き続けている。
続く。。。




