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筆の花  作者: 璋雲亭紫竹園
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第七部 玉章の死・璋雲画会・弟子・晩年

第一章 再生


 東京から名古屋へ戻った璋雲は、再び筆を取るようになった。


 それは、かつての自分に戻ったということではなかった。明治四十三年(一九一〇)の夏、川端玉章から新たな画号を授けられたとき、熊治は、雲岳として生きてきた年月を胸に抱いたまま、別の一歩を踏み出そうとしていた。だが、その後も人生は続き、悲しみがすべて消えたわけではない。熱子とたきを失った痛みは、日々の暮らしのなかに残っていた。


 人は、何かを失ったからといって、すぐに別の何かを得られるわけではない。失ったものの大きさを知るには時間が必要であり、その喪失を抱えたまま生きる術を身につけるにも、また時間が必要だった。


 璋雲は、少しずつそのことを理解し始めていた。



 朝、机に向かう。硯に水を注ぎ、墨を磨る。紙を広げ、筆先を整える。そうした動作は、若い頃から何度も繰り返してきたものだった。にもかかわらず、同じ動作を続けることが、以前とは違う意味を持つようになっていた。筆を取ることは、ただ画を描くためだけではない。



 自分がこれまで何を学び、何を失い、何を受け取ってきたのか。そのすべてを抱えながら、今日を生きるための営みでもあった。


 璋雲が学んだ三人の師、三好雲仙、奥村石蘭、川端玉章。それぞれに画風も教え方も異なっていた。


 璋雲にとって三人の師匠を一言で表すなら



三好雲仙――画の道を開いた師匠


雲仙からは、師匠の画を手本に筆の運びや画面の構成について捉える姿勢を学んだ。


奥村石蘭――画の世界を広げた師匠


石蘭のもとでは、対象をよく見つめ、目に見える形の奥にあるものを描くようにと厳しい指導を受けた。


川端玉章――画の道を深めた師匠


そして玉章との出会いは、受け継いだ技法を自分のものとして育てていくことの大切さを、改めて考える機会となった。



熊治が雲仙のもとで画の基礎を学び、石蘭との出会いによって画の世界を広げ、やがて玉章のもとで画家としての研鑽を積んでいく。師たちの教えは、同じ形で璋雲の中に残っているわけではない。それぞれが彼の経験となり、年月を経て、少しずつ自分の考え方や筆遣いに溶け込んでいた。



 ある日、弟子が画稿を持ってやってきた。


「璋雲先生、こちらをご覧いただけますか」


 璋雲は画稿を受け取り、すぐには口を開かなかった。



 描かれているのは、一羽の鳥だった。輪郭は整い、羽の模様も丁寧に描き込まれている。若い画工の作品としては、よくできていた。


「上手に描けている」


「ありがとうございます」


「だが、少し上手に描こうとしすぎているようだな」


 弟子は戸惑ったように画稿を見直した。


「形が違っておりますでしょうか」


「形だけの話ではない」


 璋雲は、画面の鳥を筆先で示した。



「鳥の形をよく写すことは大切だ。しかし、形が正確であれば、それだけで生きた鳥になるわけではない。鳥がどこにいて、何を見て、どのような気配のなかにいるのか。そうしたことまで考えてみなさい」


「鳥が何を見ているか、ですか」


「そうだ。鳥の目を描けばよいということではない。鳥がそこにいる理由を、よく見つめるのだ」


 弟子は、しばらく画稿を見つめていた。


 璋雲は、それ以上、言葉を重ねなかった。何を直すべきかをすべて教えてしまえば、その場では画がよくなるかもしれない。しかし、弟子自身が考え、試し、失敗する機会まで奪ってしまうことになる。


 画を教えるということは、手本を示すだけでは済まない。どこまで助言し、どこから先を本人に委ねるか。その見極めもまた、師の仕事だった。


 弟子が帰ったあと、璋雲は自分の画稿を広げた。



 若い頃に描いた作品には、今なら直したいと思う箇所がいくつもあった。形を整えることに気を取られ、筆の勢いを損なっているものもある。反対に、思い切って筆を運んだ線には、技術の未熟さを超えて、当時の自分にしか描けないものが残っていた。若い頃の画を、今の技術だけで判断することはできない。そこには、その時々の自分がいた。


 璋雲は、古い画稿を一枚ずつ重ねた。


 雲岳と名乗っていた頃の作品も、璋雲となってからの作品も、すべて自分が歩んできた年月の一部だった。筆は、ただ上手になるためだけにあるのではない。


 その時々に見たもの、考えたこと、心を動かされたことが、線となり、墨の濃淡となり、余白となって紙に残る。だからこそ、同じものを描いても、描く人間が違えば画は変わる。年月を経た同じ人間が描いたとしても、そこには違いが生まれる。


 璋雲は、改めて筆を手にした。


 これからは、自分の画を描くだけでなく、若い者たちにその道を伝えていくことになる。それがどれほど難しい仕事なのか、まだ十分には分かっていなかった。だが、教えることを通して、自分自身もまた学び直すことになるのだろう。


 璋雲は紙に向かった。師から受け取ったものを、今度は自分の言葉と筆で伝える。その仕事が、少しずつ始まっていた。




第二章 川端玉章の死


 大正二年(一九一三)、川端玉章が亡くなった。


 知らせを受けた璋雲は、しばらく何も言わなかった。


 筆を置き、窓の外を見つめた。名古屋の街を行き交う人々の姿は、いつもと変わらない。遠くから生活の音が聞こえ、時間は何事もなかったかのように流れていた。


 しかし、璋雲のなかでは、ひとつの時代が終わろうとしていた。


 玉章に初めて会った日のことが、ふと脳裏によみがえった。


 東京の画人たちが集う場所で、雲岳と名乗っていた自分は、玉章の前に座った。師の作品に接し、その技法や考え方に学びながら、これまで自分が身につけてきたものを、どのように生かしていくべきかを考えた。


 玉章は、単に画の描き方を教えるだけの人物ではなかった。


 先人から受け継いだ技法を、ただ忠実に繰り返すだけでは、絵師のままで画家として自立することはできない。学んだものを自分の目で確かめ、自分の手で試し、自分の表現へと育てていく必要がある。玉章との交流を通じて、璋雲はそのことを学んできた。そして、最後には新たな画号まで授けてくれた。


 玉章の名に含まれる「玉」と「章」にちなみ、「璋」の一字を与え、雲岳の「雲」と合わせて「璋雲」としたのである。その名を授かった日のことを、璋雲は折に触れて思い出していた。あのとき、玉章は笑っていた。



「これからだ」そう言ったように思えた。


 実際にその言葉を口にしたのかどうか、今となっては確かめようがない。けれど、璋雲の心には、確かにそのような言葉が残っていた。



 ――これからだ。


 玉章は、璋雲に過去を捨てるよう求めたのではない。これまで学んできたものを否定したのでもない。雲岳として歩んだ年月を認めたうえで、これからの人生を生きるための名を授けてくれたのだ。


 その師が、もういない。璋雲は、静かに頭を下げた。


「玉章先生……」声にはならなかった。


 しかし、その一言には、長い年月にわたる感謝と、師を失った悲しみが込められていた。雲仙が亡くなったとき、璋雲はまだ、師の教えを追いかける弟子だった。石蘭を失ったときにも、学ぶべきことは尽きていなかった。そして玉章が亡くなった今、璋雲は、自分が教えを受ける側から、教えを次へ伝える側へと移りつつあることを感じていた。


 師は、いつまでも自分の前に立っていてくれるわけではない。いつかは、その背中が見えなくなる。そのとき、弟子は自分の足で歩かなければならない。



 璋雲は、これまで何度も師との別れを経験してきた。だが、別れを重ねるたびに、受け継いだものの意味が変わっていくように思えた。


 教えは、師が生きている間だけのものではない。


 その人の言葉や筆遣いを覚えている者が、学んだことを自分の仕事のなかで生かしていく。その営みが続く限り、師の教えは形を変えながら残っていく。玉章の死後、璋雲は、これまで以上に教えることへ心を向けるようになった。


 それは、師を失った悲しみを忘れるためではなかった。むしろ、師から受け取ったものを、自分のなかに留めたまま終わらせてはならないという思いがあったのだろう。



 雲仙から学んだこと。


 石蘭から学んだこと。


 玉章から学んだこと。


 それらを自分の画に生かし、次の世代へと伝えていく。それが、今の自分にできることだった。



 璋雲は、再び筆を手にした。紙の上に線を引く。


 その線は、玉章の線ではない。雲仙の線でも、石蘭の線でもなかった。それは、彼らから学んだ年月を経て、璋雲自身の手から生まれた線だった。師たちがいなくなったあとも、筆は残る。そして、その筆を持つ者がいる限り、教えは途絶えない。




第三章 再び教壇に立つ


 大正三年(一九一四)九月、璋雲は私立皇華女学校で画を教えることになった。


 若い女学生たちを前に、璋雲は筆を取った。


 教壇に立つことは、初めてではない。名古屋で女子教育に携わり、画の指導を続けてきた経験があった。しかし、教えるという仕事は、経験を重ねれば自動的に容易になるものでもなかった。


 相手が変われば、伝え方も変わる。


 自分が身につけてきた技法や知識を、そのまま話せばよいわけではない。生徒がどこでつまずき、何を見落とし、何を理解しようとしているのか。それを見極めなければ、教えたことは相手の身につかない。



「今日は花を描きます」


 璋雲がそう告げると、教室に小さなどよめきが起こった。


「先生、どの花を描くのでしょうか」


「何でもよい」


「何でも、ですか」


「そうです。君たちが好きな花を、一つ選びなさい」


 女学生たちは顔を見合わせた。



 あらかじめ決められた手本を写すのではなく、自分で花を選ぶ。そのことに戸惑う者もいたようだった。


 璋雲は、教室をゆっくりと歩き、一人ひとりの画面を見て回った。



 ある生徒は、花びらを一枚ずつ丁寧に描いていた。形は整っているが、画面全体が窮屈に見える。別の生徒は、枝を真っすぐに伸ばし、葉を左右対称に並べていた。また別の生徒は、花の色を細かく描き分けようとするあまり、枝や葉の動きを見失っていた。


 璋雲は、一人の生徒の画面の前で足を止めた。


「この枝を、少し曲げてごらんなさい」


「曲げるのですか」


「ええ」


「でも、見本では、もっと真っすぐでした」


「見本は、見本です。実際の枝を見てごらんなさい」璋雲は窓の外を指した。



 校庭の木々は、風に吹かれて枝先を揺らしていた。幹から伸びた枝は、どれも同じ角度ではない。葉の重みを受け、光の当たる方へ伸び、風の力に押されて、わずかに形を変えている。


「枝は、定規で引いた線のようには伸びません。風が吹けば揺れる。花が重ければ垂れる。日の当たる方へ伸びることもあるでしょう」


 生徒は、窓の外を見た。


「植物を描くというのは、植物の形だけを描くことではありません。そこに働いている力まで考えてみることです」


「力、ですか」


「そうです。花の重みや、風の向きや、枝が伸びようとする方向です。形には、そうなるだけの理由があります」


 女学生たちは、静かに耳を傾けていた。



 璋雲が教えていることは、単なる描画の技術ではなかった。自然の姿を観察し、その形が生まれた理由を考えること。見たままを写すだけではなく、対象が持つ性質を理解して画面に表すこと。それは、若き日の雲仙から学んだ姿勢でもあった。


 雲仙は、目に見える形だけを追っていては、本当に対象を捉えたことにはならないと教えた。石蘭のもとで学んだ経験も、筆遣いや画面の構成を考えるうえで、璋雲の中に生きていた。


 そして、玉章からは、学んだものを自分の表現へと育てることの大切さを教えられた。今、璋雲は、その教えを自分の言葉に置き換え、若い女学生たちに伝えている。教壇に立つということは、過去を語ることではない。過去から受け取ったものを、目の前にいる人々が理解できる形にして渡すことである。授業の終わりに、璋雲は生徒たちの画をもう一度見て回った。


 最初に見たときより、枝の描き方が変わっている生徒がいた。花びらを描き込む手を止め、画面の余白を見直している者もいた。わずかな変化だった。だが、璋雲には、それで十分だった。



 すぐに上手になる必要はない。大切なのは、自分の見方が少しでも変わることだ。その変化が積み重なれば、やがて自分にしか描けない画へとつながっていく。授業を終えた璋雲は、筆を片づけながら、静かに教室を見渡した。師から弟子へ。そして、弟子から次の世代へ。自分は、その長い流れの途中にいる。


 そう思うと、教えるという仕事が、以前よりも重い意味を帯びて感じられた。




第四章 璋雲画会


 大正五年(一九一六)八月、璋雲は自らの画塾「璋雲画会」を開いた。自分の名を掲げた画塾を持つことは、絵師として一つの節目だった。看板に記された「璋雲」の二字を見つめながら、彼は、これまで歩んできた年月を振り返っていた。



 金井戸で生まれ、画を学びたいと願った少年時代。三好雲仙のもとで修業を重ねた日々。奥村石蘭に学び、名古屋で暮らした年月。東京へ出て、川端玉章と出会ったこと。そして、玉章から新しい画号を授かったこと。


 その一つひとつが、今の自分につながっていた。かつては、師のもとで学ぶことが自分の務めだった。師の作品を見て、筆遣いを学び、技法を身につける。自分の画が師の画に近づけば、学んだ成果を実感することもできた。しかし今度は自分が教える側に立つ。


 自分の教えを受けた者が、やがて自分の画を描き、その画を誰かに見せることになる。さらに、その弟子が次の世代を育てるかもしれない。


 自分の教えが、思いもよらないところまで伝わっていく可能性がある。そのことは誇らしくもあり、同時に責任の重さを感じさせるものでもあった。



 もし、自分が誤ったことを教えれば、その誤りまで受け継がれてしまうのではないか。自分の画風を押しつければ、弟子たちが本来持っている個性を損なうことになるのではないか。璋雲は、看板を見つめながら、そんなことを考えていた。やがて、彼は小さく息をついた。


 教えることに、迷いがなくなる日は来ないのかもしれない。


 だからこそ、学び続けなければならないのだろう。



 画会には、年齢も職業も異なる人々が集まった。生まれ育った土地も、それまでの経験も、それぞれ違っている。ただ、画を学びたいという思いだけは共通していた。


 璋雲は、弟子たちの画稿を見るとき、技術の巧拙だけで判断しないようにしていた。


 器用に筆を運ぶ者が、必ずしもよい画を描くとは限らない。不器用であっても、対象をよく見つめ、何度も考えながら描く者には、時間をかけて伸びていく力がある。画の上達には、個人差がある。


 生まれつき手先の器用な者もいれば、形を捉えるまでに時間のかかる者もいる。だが、初めの段階での差が、そのまま最後まで続くわけではない。長い年月のなかで、見る力も、考える力も、少しずつ変わっていく。


 ある日、弟子が尋ねた。


「先生、早く上手になるには、どうすればよいのでしょうか」


 璋雲は、すぐには答えなかった。


「毎日、描くことだろうな」


「やはり、たくさん描くことですか」


「描くことも大切だ。しかし、その前に見ることだ」


「見る……」


「描く前によく見る。描いたあとにも、もう一度見る。そして、昨日見たものと今日見たものが、同じに見えているかを考える」


 弟子は、黙って聞いていた。


「画を描く者は、まず見る者、観察者でなければならん。目の前のものを見ずに、覚えている形だけを描いていては、いつまでも同じところを果てしなく回ることになる」


 璋雲は、弟子の画稿を机に置いた。


「上手になろうと焦る必要はない。だが、見ようとすることを怠ってはいけない」


 弟子は、画稿を受け取り、もう一度自分の画を見つめた。


 璋雲は、その様子を見守っていた。



 自分が教えた言葉が、すぐに相手の身につくとは限らない。今日理解できなかったことが、何年も経ってから腑に落ちることもあるだろう。教えとは、その場で答えを与えることだけではない。後になって思い返し、改めて考えるための手掛かりを渡すことでもある。



 画会は、作品を上達させるためだけの場所ではなかった。自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の手で描く。そのための時間を積み重ねる場所だった。璋雲は、そうした場を育てていこうとしていた。




第五章 璋雲の弟子たち


 璋雲画会には、やがて、それぞれの場所で画業を深めていく弟子たちが集まった。郷里の友人である中島雲哉から頼まれ、璋雲は国府宗一を内弟子として迎えた。


 若い宗一は、師のそばで暮らしながら画を学んだ。画を学ぶということは、画塾で筆を動かす時間だけを指すのではない。師が何を見ているのか、どのようなときに筆を取り、どのようなときに筆を置くのか。日々の仕事を間近で見ることも、修業の一部だった。宗一は、描いた画稿を持って璋雲の前に座った。


「先生、もう一枚描いてもよろしいでしょうか」


「描きなさい」


「夜遅くなりますが」


「画は夜を嫌わん」璋雲は、そう言って笑った。


 もちろん、夜通し描けばよいという意味ではなかった。大切なのは、時間の長さではなく、画に向き合う姿勢である。だが、描きたいという気持ちがあるなら、必要以上に自分を抑えることはない。宗一の熱意を、璋雲は好ましく感じていたのだろう。


 宗一は、やがて璋泉、天童、さらに清山と号を改めながら画業を深めていった。のちに総社へ帰郷し、同好者数十名を集めて「杉風社」を結成。近くの宝満寺を借りて、作画の指導にあたった。



 璋雲にとって、弟子が自分のもとを離れ、独自の活動を始めることは、寂しさよりも喜びの大きいことだったに違いない。弟子がいつまでも師のそばに留まっているだけでは、教えは次へ広がっていかない。学んだものを自分の中で育て、別の土地で、別の人々に伝えていく。そうして初めて、師から受け取ったものが新しい意味を持つようになる。


 璋雲自身も、雲仙や石蘭のもとを離れ、玉章に学びながら、自分の画を探してきた。だからこそ、弟子が自分の名を離れて歩き始めることを、自然なこととして受け止めていたのだろう。



 小笠原庸雄もまた、璋雲の門をくぐった人物の一人だった。


 庸雄は、璋雲とは異なる師につながる人物でもあった。その縁を取り持ったのは、かつて石蘭に学んだ三浦石斎だった。画の世界には、師から弟子へと続く系譜が幾重にも重なっている。一人の絵師が、ただ一人の師からすべてを学ぶとは限らない。別々の師の教えが交わり、新たな表現が生まれることもある。庸雄は、やがて華文と号し、愛知県田原の西光寺を拠点に作品を残した。帝国絵画共進会や中央南宗画会などにも出品し、活動の幅を広げていった。庸雄は、璋雲の画に強く惹かれていたのかもしれない。


「先生のように描けるようになりたいのです」


 そう言う弟子に、璋雲は笑って答えた。


「私のような画を描くのは、私一人で十分だ」


 庸雄は、意外そうな顔をした。


「君には君の手がある。君の目がある。君が見たものを、君の筆で描きなさい」


 それは、師の画を学ぶなという意味ではなかった。師の技法を身につけることと、師の画をそのまま繰り返すことは違う。伝統を守る絵師として学んだものを自分の表現へと変えていかなければ、画家として独り立ちしたことにはならない。その教えは、かつて玉章から璋雲自身が受け取ったものでもあった。



 和田佐右衛門も、璋雲に師事した人物である。岐阜で警察の仕事に携わりながら画を学び、後に璋仙と号した。日中は公務に従事し、仕事を終えてから筆を持つ。画だけを仕事にできる者もいれば、別の職業を持ちながら画を続ける者もいる。生活の形は、それぞれ違っていた。


 璋雲は、画を学ぶために特別な暮らしが必要だとは考えていなかったのだろう。大切なのは、画を描きたいという思いを持ち続けることだった。日々の仕事に追われ、まとまった時間が取れないこともある。それでも、目の前の景色を観察し、心に留め、折に触れて筆を取ることはできる。画を描くことは、生活から切り離された特別な行為ではなく、日常の中で育てていくものでもある。璋雲のもとで学んだ弟子たちは、それぞれ異なる道を歩んでいった。その筆遣いも、画題も、活動の場も同じではない。だが、師のもとで学んだ時間は、それぞれの人生の中に残っていた。璋雲は、弟子たちの画を見るたびに、若き日の自分を思い出した。



 金井戸を出た少年。


 雲仙の前に座り、教えを受けた少年。


 石蘭の厳しい指導に向き合った青年。


 東京で玉章と出会い、雲岳として画を描いた日々。


 そして、璋雲という名を得た今の自分。


 それらは、すべて一本の線のようにつながっていた。



 女学校で生徒たちに教えることも、璋雲画会で弟子を育てることも、根本にあるものは同じだった。


 見る。考える。描く。そして、もう一度見る。


 璋雲は、女学生にも弟子たちにも、分け隔てなく画の基本を伝えた。


 花鳥画を得意とする者もいれば、山水画に心を寄せる者もいた。墨の濃淡を追求する者もいれば、彩色に工夫を凝らす者もいた。それぞれに向き不向きがあり、上達の速さにも違いがあった。



 璋雲は、誰かを急がせることはしなかった。


「今日、うまく描けなくてもよい」


「では、いつうまくなりますか」


「明日かもしれんし、十年後かもしれん」


 弟子は、困ったような顔をした。


 璋雲は、画稿を指しながら続けた。


「だが、今日見たものは、今日しか見られない。同じ花でも、明日になれば形が変わる。今日、何を見たかを大切にしなさい」


 弟子は、再び紙に向かった。璋雲は、その背中を見守った。


 師の仕事は、弟子に代わって画を描くことではない。自分で見て、自分で考え、自分の手で描くための力を育てることなのだ。


 そうした静かな時間の積み重ねが、璋雲画会を形づくっていった。


続く。。。

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