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筆の花  作者: 璋雲亭紫竹園
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第六部 熱子とたきの死・「璋雲」誕生

第六章 師との再会


 明治四十三年(一九一〇)八月、熊治は東京へ向かった。


 東京の街は、以前と変わらぬ活気を見せていた。人々が行き交い、店先には品物が並び、町のあちこちから生活の音が聞こえてくる。



 かつて熊治は、この街に自らの可能性を求めてやって来た。新しい画の世界に触れ、画人たちと交流し、玉章のもとで学んだ日々があった。


 しかし、今の熊治は、あの頃とは違っていた。


 街並みが同じであっても、そこを歩く自分は同じではない。人は、場所を移るだけで生まれ変われるわけではない。過去に経験したことは、どこへ行こうとも、自分の内に残り続ける。



 玉章との再会は、静かなものだった。


「よく来たな、雲岳」


 師の声を聞き、熊治は深く頭を下げた。


「ご無沙汰しております」


 玉章は、しばらく弟子の顔を見つめた。


「少し痩せたな」


「いろいろありましたので」


 熊治は、それ以上を語らなかった。



 玉章も、詳しい事情を問いただそうとはしなかった。師がどこまで事情を知っていたのかは分からない。ただ、久しぶりに顔を合わせた弟子が、以前とは違う重荷を背負っていることは、察していたのかもしれない。二人の間に、しばらく沈黙が流れた。


 かつての熊治なら、その沈黙を埋めようとしただろう。師に何かを尋ね、画の話をし、東京で見聞きしたことを語ったかもしれない。


 だが、今は、言葉を探す気力さえ乏しかった。



「雲岳」


「はい」


「画は描いているか」


 熊治は、答えに詰まった。


「……あまり描いておりません」



「そうか」玉章は、それだけ言った。


 描けと叱ることも、すぐに励ますこともしなかった。ただ、弟子の顔を静かに見つめていた。



 その沈黙は、熊治にとって、かえってありがたいものだった。無理に事情を説明しなくてもよい。悲しみを言葉にして聞かせなくてもよい。今の自分がどのような状態にあるのか、すべてを説明できるはずもなかった。



 やがて、玉章が口を開いた。「今のお前なら、描けると思うがな」



 熊治は顔を上げた。「私に、まだ描けるでしょうか」



「描けるかどうかではない」玉章は、落ち着いた声で言った。


「描かなければならない時が来る」


 熊治は、師の言葉を胸の内で繰り返した。


 描かなければならない。しかし、それは、以前のように描けという意味ではないのだろう。熱子を失う前の自分に戻れということでもない。失ったものを抱えた今の自分にしか描けないものが、いつか生まれる。その時が来るまで、筆を捨てるなということなのかもしれなかった。


 玉章は、さらに言葉を続けた。



「人間は、失ったものを画に戻すことはできない。だが、失ったものを抱えて生きた時間まで、なくす必要はない」


 熊治は黙って聞いていた。それは、安易な慰めではなかった。



 失ったものは戻らない。その現実を、玉章は否定しなかった。悲しみを忘れよとも、前を向けとも言わなかった。


 ただ、失ったものを抱えて生きた時間まで、なかったことにする必要はないのだと告げた。熊治は、胸の奥が震えるのを感じた。



 熱子と過ごした時間も、たきと暮らした年月も、失われたからといって、無意味になるわけではない。二人がいたからこそ、自分の暮らしがあり、画を描く時間があった。そのことは、今も変わらない。



 ならば、失ったものを抱えたまま、これからの画を描いていくこともできるのではないか。熊治は、すぐには答えなかった。


 しかし、玉章の言葉は、心の奥に残った。




第七章 親友土居香国


 玉章との再会の場には、土居香国も加わった。


 香国は、熊治にとって、東京時代からの親しい知人であり、画人たちとの交流を通じて長く縁を結んできた人物だった。詩文をよくし、玉章とも親交が深かった。



「矢吹さん」


「香国さん」


 二人は、久しぶりに顔を合わせた。



 香国は熊治の顔を見て、すぐには言葉を続けなかった。かつての面影を残しながらも、以前とは違うものがその表情に刻まれている。親しい間柄であればこそ、安易な慰めがかえって相手を傷つけることもある。


「いろいろありましたな」


「ええ」熊治は、短く答えた。



 香国は、それ以上、家族のことを尋ねなかった。


「しかし、まだ終わってはいないでしょう」



 熊治は、わずかに眉を動かした。


「何がです」



「あなたの画が」


 熊治は、すぐには答えられなかった。


 画を描くこと。それは、これまで自分が歩んできた道である。だが、その道を、これからも歩き続けられるのか。


自分でも分からなくなっていた。



 香国は、玉章と視線を交わした。


「実は、玉章先生とも相談していたのです」


「何をですか」


「あなたの画号のことです」



 熊治は、思いがけない話に驚いた。


「画号……」



「ええ。いつまでも雲岳という名で通すのではなく、新しい名を考えてはどうかと」



 熊治は、しばらく黙っていた。


 雲岳。その二字には、若い頃からの自分が詰まっていた。


 金井戸を離れ、雲仙に学び、石蘭のもとで修業を重ねた日々。名古屋での暮らし。東京へ出て玉章と出会ったこと。


そして、たきと熱子と過ごした時間。


 雲岳という名は、単なる署名ではなかった。これまでの自分が歩いてきた年月そのものだった。その名を変えるということは、過去を捨てることになるのではないか。



 熊治は、そう考えた。


「なぜ、今さら名を変えるのです」



 香国は玉章に目を向けた。


 玉章が静かに答えた。



「お前は、もう昔の雲岳ではない」


 熊治は、師を見つめた。


「それは、画が変わったという意味でしょうか」


「画だけではない」


 玉章は、言葉を選ぶように間を置いた。


「人生が変わったのだ」


 熊治は、目を伏せた。



 熱子の顔が浮かんだ。


 たきの声が聞こえるような気がした。



 雲仙も石蘭も、すでにこの世にはいない。家族も失った。それでも、自分は生きている。筆を持つ手も、画を描くために積み重ねてきた年月も、なくなったわけではない。



 これから何を描くのか。


 これから、どのような絵師として生きていくのか。


 画号を変えるという提案は、その問いを改めて突きつけるものだった。



 玉章は、一枚の紙を取り出した。


 筆を執り、そこに「玉」と書いた。続いて「章」と書く。


 熊治は、紙の上の二字を見つめた。


「先生……」



「私の号から合わせて一字を取り、お前のこれまでの名も残す。そう考えてみた」


 玉章は、筆を進めた。「璋」という字が、紙の上に記された。


 玉に関わる、美しい玉石を表す字である。



「璋……」 熊治は、その一字を口にした。



「そうだ。これを、お前にやろう」


 熊治は、しばらく何も言えなかった。


 画号を授かること自体は、初めてではない。雲岳という名も、画の道を歩むなかで自分のものとしてきた名だった。


しかし、今度は違う。


 師から授けられる一字は、これからの人生を歩むための名として差し出されていた。


熊治は、紙の上の「璋」を見つめた。



 新しい名を得ることは、これまでの自分を否定することではない。むしろ、これまでの年月を受け止めたうえで、新たな一歩を踏み出すことなのかもしれなかった。



 玉章が言った。


「雲岳の『雲』は残せばいい」


 熊治は顔を上げた。


 璋と雲。二つの字を合わせる。



「璋雲……」



 その名を口にしたとき、熊治の胸に、言葉では説明しがたい感覚が広がった。雲岳だった時間が消えるわけではない。


 雲仙から学んだことも、石蘭から学んだことも、玉章から受け取ったものも残る。たきと暮らした年月も、熱子と過ごした日々も、失った悲しみも、すべて自分の中にある。それらを抱えたまま、新しい名を生きていく。



 熊治は、もう一度、その名を口にした。


「璋雲……」玉章は頷いた。


「いい名だ」香国も、静かに微笑んだ。



「これで、また一歩進めますな」


 熊治は、すぐには答えなかった。



 目の前の紙に記された二字を、長い間見つめていた。


 そのとき玉章が再び筆を取り、一首の句を書き記した。



 ――今日よりは筆の花さく時世哉。


 熊治は、その言葉を読んだ。



 今日よりは。


 その一節が、胸の奥に響いた。



 過ぎ去った時間は戻らない。失ったものを取り戻すこともできない。


しかし、過去が失われないのと同じように、未来まで閉ざされたわけではない。今日から、また筆を持つ。


 これまでとは違う自分として、画を描いていく。


 その先に、どのような花が咲くのかは分からない。それでも、筆を取らなければ、何も始まらない。


 熊治は、紙の上の句を見つめた。


 涙がこみ上げてきたが、すぐには顔を伏せなかった。



 熱子のことを思った。


 たきのことを思った。


 二人が生きていた時間は、もう戻らない。だが、その時間を自分の中から消してしまう必要はない。


これから描く一枚一枚の中に、その年月が何らかの形で残っていくのなら、それもまた、二人と生きた証になるのかもしれなかった。


 熊治は、ようやく顔を上げた。


その日、彼は「璋雲」という新しい画号を得た。



第八章 名古屋の夜


 東京から名古屋へ戻った夜、熊治は一人で机に向かった。家の中は静かだった。



 熱子がいた頃も、たきがいた頃も、夜になれば家は静けさに包まれた。


だが、今の静けさは、かつてのそれとは違っていた。誰かが眠っている気配も、隣の部屋から聞こえる足音もない。



 それでも、机の上には、筆と硯があった。そして、紙の上には、新しい名がある。



 ――璋雲。熊治は、その二字を見つめた。



 硯に水を落とし、墨を磨り始める。墨が硯に触れる音が、静かな部屋に響いた。久しぶりに嗅ぐ墨の匂いが、遠い記憶を呼び起こした。



 金井戸の少年時代。


 三好雲仙のもとへ通った日々。


 真金への道。


 名古屋で石蘭に学んだこと。


 東京で玉章と出会ったこと。



 たきとの結婚。


 熱子の笑顔。


 妻の声。


 そして、二人を失った日々。



 それらは、別々の思い出として胸の内に残っていた。けれど、今、振り返ってみると、すべてが一本の線につながっているようにも思えた。



 自分が歩いてきた道は、決して平坦ではなかった。望んだものを得ることもあれば、思いがけない別れに直面することもあった。


画を学ぶために故郷を離れ、師のもとで技を磨き、新しい人々と出会った。その一方で、家族と過ごした時間は、何にも代えがたいものだった。



 熊治は紙を広げた。


 何を描くか、まだ決めてはいなかった。


 ただ、筆を持ち、紙に向き合った。


 一筆。線が紙の上に伸びた。


 次の一筆。枝が生まれ、葉が添えられた。


 熊治は、急がなかった。



 以前の自分なら、形を整えようとしたかもしれない。枝の角度を考え、葉の重なりを確かめ、画面全体の釣り合いを整えようとしただろう。もちろん、今もその技術は身についている。


 しかし、今夜の筆は、以前とは違う感覚を帯びていた。



 何かを上手に描こうとするよりも、まずは紙に向かい、筆を動かす。その行為そのものを確かめるように、熊治は一筆ずつ線を重ねていった。やがて、枝の先に花が咲いた。



 描き終えた熊治は、しばらく黙って画を見つめていた。



 そこに熱子はいない。


 たきもいない。



 画面に二人の姿が描かれているわけではなかった。思い出を直接、画にしたものでもない。



 それでも、二人と生きた時間が、筆の動きのどこかに残っているように感じられた。それが何であるのか、熊治には説明できなかった。


 ただ、以前とは違う画を描いたのだということだけは、確かだった。


 熊治は筆を置き、窓の外を見た。夜空には雲が流れていた。



 かつてなら、その雲を見て、自分の画号であった「雲岳」を思い浮かべたかもしれない。雲の形や流れを眺めながら、画題としての面白さを考えたこともあっただろう。



 今は、ただ雲を見つめていた。


 風に押され、形を変え、やがて遠くへ流れていく雲。


 人の人生も、似たところがあるのかもしれない。



 生まれ、出会い、ともに暮らし、別れる。望んでいたものが手元に残るとは限らない。それでも、残された者は、その先を生きていかなければならない。


 熊治は、もう一度、机の上の画を見た。



 明日も、筆を持とう。


 その思いが、静かに胸の内に生まれていた。


 今日よりは。


 筆の花が咲く。



 熊治は、その言葉を胸に刻むように、しばらく画の前に座っていた。




第九章 矢吹璋雲


 明治四十三年(一九一〇)、熊治は「雲岳」から「璋雲」へと画号を改めた。


 川端玉章から授けられた「璋」の一字に、これまでの画号「雲岳」の「雲」を合わせた名である。


 それは、単なる改名ではなかった。


 雲岳という名を生きた年月には、若き日の修業があった。三好雲仙から学び、奥村石蘭から教えを受け、川端玉章との出会いを経て、自らの画を模索してきた日々があった。そして、その年月には、家族とともに暮らした時間も含まれていた。



 熱子の笑顔。


 たきの声。


 二人を失った悲しみ。



 それらは、画号を変えたからといって消えるものではなかった。新しい名を得ることは、過去を捨てることではない。過去のすべてを抱えたまま、これからの人生を歩むことだった。


 雲仙から受け取ったもの。


 石蘭から受け取ったもの。


 玉章から受け取ったもの。



 そして、たきと熱子と暮らすなかで得たもの。


 それらが、璋雲という一人の絵師の中で、静かに重なっていた。


 これからの璋雲には、まだ果たすべき仕事が残されていた。



 画を描くこと。教えること。弟子を育てること。


 そして、自分が受け取った筆を、次の世代へと渡していくこと。



 その道の先に何が待っているのか、今の彼には分からなかった。けれど、再び筆を持つことはできる。玉章との再会によって、そのことを確かめることができた。


 雲岳という名を生きた日々は、終わった。しかし、それは消えたのではない。雲岳として歩んだ年月をすべて抱き、その先へ進むために、新たな名が与えられたのである。



 ――今日よりは筆の花さく時世哉。


 玉章から贈られたその句は、璋雲にとって、これからの人生を歩むための言葉となった。


 筆の花は、ようやく咲き始めた。それは、過去を忘れた者に咲く花ではない。失ったものを胸に抱きながら、それでも筆を取り続ける者にこそ、咲く花だった。


続く。。。

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