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筆の花  作者: 璋雲亭紫竹園
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第六部 熱子とたきの死・「璋雲」誕生

第一章 日常を壊すもの


 明治四十年(一九〇七)、熊治の暮らしに、思いもよらぬ変化が訪れた。娘の熱子が病に倒れたのである。


 初めのうち、熊治は、それほど深刻なものとは考えていなかったのかもしれない。しばらく養生すれば、やがて元気を取り戻すだろう。そう考えることは、父親としてごく自然なことだった。日々の仕事に追われる暮らしのなかで、病は一時的な不調として受け止められていた。



 しかし、日が経っても、熱子の顔色は戻らなかった。


 以前なら食卓でよく話していた娘が、口数を減らした。食事も思うように進まず、横になっている時間が長くなった。家の中には、これまで意識することのなかった静けさが、少しずつ広がっていった。


 熊治は、できるだけ普段どおりに振る舞おうとした。教師としての務めを放棄するわけにはいかない。学校へ出向き、生徒たちの前に立ち、画の指導を続けた。


「今日は花を描きます」


 生徒たちに紙を配り、筆の持ち方を確かめさせる。


「まず、よく見なさい。花の形だけでなく、枝がどちらへ伸びているか、葉がどのようについているか、よく観察するのです」


 いつもと変わらぬ言葉だった。花を描くには、花そのものを見つめるだけでは足りない。枝の伸び方、葉の重なり、光の当たり方。それらを確かめてこそ、画面の中に植物の姿が生きてくる。


 熊治は、長年の修業によって身につけた技術を、生徒たちに伝えようとしていた。


 だが、その日ばかりは、自分の声がどこか遠くから聞こえてくるようだった。



 生徒の画稿を添削し、求められれば手本を描く。授業を終えれば、道具を片づけて帰宅する。その一つひとつの動作は、以前と変わらない。それでも、心のどこかが絶えず家に引き戻されていた。


 今朝の熱子は、いつもより顔色が悪くなかったか。


 食事はきちんと取れただろうか。


 帰ったら、もう一度、様子を見なければならない。


 そんな考えが、授業の合間にも浮かんでは消えた。


 画を描く者にとって、観察することは仕事の根幹である。熊治は、枝先のわずかな揺れや、鳥が首を傾ける一瞬の動きさえ見逃すまいとしてきた。目の前のものをよく見つめ、その奥にある性質を捉えること。それが、雲仙や石蘭から学び、長い歳月をかけて身につけた姿勢だった。



 それなのに、娘の変化を前にすると、熊治の目はかえって曇った。


 いや、変化は見えていたのだろう。見えているからこそ、認めたくなかった。


 帰宅すると、熊治はまず熱子の部屋へ向かった。娘が眠っていれば、その顔をしばらく眺めてから自室へ戻った。机に向かって画を描いていても、隣の部屋から物音がすれば筆を置いた。熱子が咳をすれば、襖の向こうへ耳を澄ませた。たきもまた、娘のそばを離れなかった。



 家事をこなしながら、熱子の様子を見守る。食べられそうなものを用意し、寝具を整え、折に触れて額に手を当てる。母親として、できることを一つずつ続けていた。



 熊治が帰宅すると、たきは娘の様子を伝えた。今日は少し食べられた、昼間はよく眠っていた、熱はまだ下がらない。話の内容は、日ごとに似通っていった。しかし、そのどれもが、熊治にとっては聞き流すことのできない報告だった。


「今日はどうだ」


 仕事へ出る前、熊治は娘に尋ねるようになった。


「昨日よりいいよ」熱子は、そう答えて笑うことがあった。


「本当か」


「本当……」


 声は細く、笑顔にも以前の張りはなかった。それでも熊治は、その言葉を信じたかった。娘が元気になっていくのだと思いたかった。



 病の日々は続いた。熊治は仕事の合間を見つけて帰宅し、医師を呼び、薬を用意した。少しでも口にできそうなものがあれば、たきと相談して食卓に並べた。父親としてできることは、何でもしたつもりだった。



 しかし、人の力ではどうにもならないことがある。


 その事実を、熊治は受け入れられずにいた。


 ある晩、熱子が父を呼んだ。


「お父さん」


「どうした」


「画、描いてる?」


 熊治は、少し意外な問いに目を向けた。


「描いているよ」


「最近、あまり見ないから」


 娘は、以前のように父の画を楽しみにしていたのだろう。熊治は、胸の奥を締めつけられるような思いを覚えた。


「そうか。元気になったら、また見せてやる」


「本当?」


「ああ。いくらでも見せる」


 熱子は、かすかに笑った。


「約束ね」


「ああ、約束だ」


 その約束が果たされることはなかった。


 翌日、熱子は亡くなった。




第二章 熱子の死


 熱子の死を、熊治はすぐには理解できなかった。


 昨日まで、娘はそこにいた。声をかければ返事をし、父の画を見たいと言った。元気になったら見せると、自分は約束した。それなのに、もういない。


 目の前に横たわる娘を見つめながら、熊治は何度も、つい先ほどまでの暮らしを思い返していた。病に倒れる前の姿。食卓で話す声。父の画を覗き込む顔。そうした記憶は鮮明であるのに、目の前の現実だけが、どうしても一つにつながらなかった。



「熱子……」名を呼んでみる。


 返事はない。


 もう一度呼んでも、静けさが戻ってくるだけだった。



 熊治は、これまでにも大切な人との別れを経験してきた。三好雲仙も奥村石蘭も、自分より先に世を去った師である。師との別れは、深い悲しみを伴うものであったが、年長者をいつか見送らねばならないことは、頭のどこかで理解していた。


 しかし、子を失うことは違った。


 親が子を見送る。そんなことを、熊治は考えたことさえなかった。考えなかったからこそ、いざその時が訪れても、悲しみを受け止める言葉が見つからなかった。


 熱子の部屋には、娘が使っていたものが残されていた。


 櫛や髪飾り。お気に入りの着物。絵本や、日々の暮らしのなかで手にしていた小さな品々。どれも、そこに娘が生きていたことを示していた。枕元には、熊治が描きかけていた画も置かれていた。


 一本の枝を描いた、未完成の画だった。



 以前、熱子がそれを覗き込んで、「これ、花じゃないよ」と言ったことがある。熊治は、まだ描きかけなのだと答え、娘は早く完成させてほしいとせがんだ。


 そのときの声が、耳の奥に残っていた。


 熊治は紙を手に取った。


 枝の先には、まだ花がない。


 今から描けばよい。花を咲かせて、約束を果たせばよい。そう考えようとして、筆を取った。


 だが、筆先は紙の上で止まった。



 どのような花を咲かせればよいのか、分からなかったのではない。花を描く技術を失ったわけでもない。ただ、筆を進めることができなかった。


 墨が紙に落ち、小さな点をつくった。熊治は、それを見つめた。


 一本の枝を描くことならできる。葉をつけることも、花を咲かせることもできる。長年の修業で、その手は十分に覚えている。それなのに、今は、次の一筆を置くことができなかった。


 紙の上の小さな墨の点が、にじんで見えた。


 熊治は筆を置いた。もっと早く描いてやればよかった。完成させておけばよかった。


 そんな思いが胸に浮かんだが、今さら何を悔やんでも、娘の声が戻ってくるわけではなかった。その日から、熊治はしばらく画を描けなくなった。


 画を描くことは、彼にとって単なる仕事ではなかった。幼い頃から筆を手にし、雲仙の教えを受け、石蘭のもとで技を磨き、東京で玉章に学んだ。画は、これまでの人生そのものと深く結びついていた。


 だからこそ、筆を持てなくなるということは、日々の仕事を失う以上の意味を持っていた。


 自分は何のために描いてきたのか。これから何を描けばよいのか。


 その問いに答えることができなかった。


 たきもまた、悲しみのなかにいた。


 娘の部屋を片づけようとしては、手を止めた。着物を畳もうとしても、櫛をしまおうとしても、その品を手にした途端、熱子の姿が目に浮かぶ。結局、何も片づけられずに部屋を出ることもあった。


 熊治も同じだった。



 二人は、熱子のいない家で、熱子がいた頃と同じように暮らそうとした。しかし、以前と同じ生活を続けようとすればするほど、そこに欠けたものの大きさを思い知らされた。


 ある晩、二人で食卓を囲んだ。


 いつもなら三人で座っていた場所に、今は二人しかいない。食事の支度も、茶碗の並びも、以前と大きく変わったわけではなかった。それでも、食卓の様子はまるで違っていた。


 たきが箸を置いた。


「静かですね」


 熊治は、すぐには答えなかった。


「前は、あの子が何かしら話していたでしょう」


「ああ」


「あの子がいないと、こんなに静かだったんですね」


 熊治は、食卓に目を落とした。



「そうだな」


 それ以上、言葉は続かなかった。



 慰めの言葉を探しても、二人の悲しみを埋めることはできない。娘を失ったという事実は、どちらか一方だけのものではなかった。二人は、それぞれの胸に同じ喪失を抱えながら、同じ家で暮らしていかなければならなかった。


 それまで当たり前に聞こえていた声が、もう聞こえない。その事を、二人は日々の暮らしのなかで、繰り返し確かめることになった。





第三章 たきの病


 熱子を失ってからも、たきは家を守ろうとした。


 熊治の食事を用意し、衣服を整え、仕事へ送り出す。悲しみを忘れたわけではない。忘れられるはずもなかった。それでも、日々の暮らしを続けることが、今の自分にできることだと考えていたのだろう。



 だが、家の中には、熱子がいない。


 何をしていても、その不在は目に入った。食卓に向かえば、娘が座っていた場所がある。部屋を通れば、使われなくなった品々が目に留まる。暮らしを整えるという行為そのものが、失ったものを思い出させた。熊治もまた、娘のいない生活に慣れることができなかった。


 以前のように筆を取ろうとしても、気持ちは容易に戻らない。仕事に出ている間は、何とか日常を保つことができた。しかし、帰宅して一人になると、家の静けさが身にしみた。



 それでも、二人は日々を重ねた。


 悲しみは、ある日突然消えるものではない。時が経てば薄らぐと、人はよく言う。けれど、熊治にとっては、時が経つことで悲しみの形が変わるだけだった。熱子の姿を思い出さない日はない。思い出すたびに胸が痛んだが、痛みを抱えたまま朝を迎え、仕事へ出かける。それが、残された者の生活だった。



 明治四十二年(一九〇九)、今度は、たきが病に倒れた。


 熊治は、すぐにはその事実を受け入れられなかった。


 熱子を失ったばかりである。ようやく、妻と二人で暮らしを立て直そうとしていたところだった。今度こそ、病は一時的なものであってほしい。休めばよくなる。養生すれば、きっと回復する。熊治は、そう考えようとした。



「大丈夫だ」たきに向かって、そう言った。


「大丈夫になる」その言葉は、妻を励ますためのものだったはずだ。けれど、口にするうちに、いつしか自分自身に言い聞かせているような響きを帯びていった。


 たきは、弱々しく笑った。


「あなたは、昔からそうですね」


「何がだ」


「自分に言い聞かせるように話すところ」


 熊治は、返す言葉を失った。



 妻は、長い年月をともに過ごしてきた人だった。自分が何を言い、何を言わずにいるのか。


何を望み、何を恐れているのか。言葉にしなくとも、分かることがあったのだろう。



 熊治は、たきの顔を見つめた。


 熱子のときと同じ思いが、胸の内に広がっていた。


また失うかもしれない。その考えを振り払おうとしても、振り払うことができなかった。



「たき」


「はい」


「無理をするな」


「あなたも」


「私はいい」


「よくありません」たきの声は静かだったが、言葉には確かな意志があった。



「あなたは、画を描く人でしょう」


 熊治は黙った。


「画を描いてください」


 その言葉を、熊治はすぐには受け止められなかった。


 今は、画のことなど考えられない。熱子を失った悲しみも癒えぬまま、妻まで失うかもしれない。そのようなときに、以前と同じように筆を持てというのか。



 そう思う一方で、たきが自分の画を大切にしてくれていたことも、熊治は知っていた。熊治が画に向かう時間を、たきは長年支えてきた。筆を持つことに夢中になり、周囲が見えなくなることもあっただろう。思うように描けず、言葉少なになる日もあったはずだ。それでも、たきは日々の暮らしを守り、熊治が画を描く時間を支えてくれた。



 そのことを、今になって改めて思い知らされていた。


「また元気になったら……」熊治は、そこまでしか言えなかった。


 たきは、わずかに笑った。


「そうですね」


 その笑顔を見ながら、熊治は祈るような思いで妻の回復を願った。


 しかし、病はたきから少しずつ力を奪っていった。


 熊治は仕事を休むことが増えた。学校へ出向いても、心は家に残してきた妻のもとへ向かってしまう。生徒の前では、教師としての務めを果たそうとした。授業が終われば、できるだけ早く帰宅した。


 家に着くと、たきのそばに座った。


 話をすることもあれば、何も言わずにいることもあった。何かを話せば、気持ちが少しは紛れるかもしれない。だが、言葉を交わすことさえ、時には難しかった。



 ある日、たきが熊治に言った。


「あなた、昔の話をして」


「昔?」


「そう。若い頃の話」


 熊治は、少し考えた。


「何の話だ」


「雲仙先生の話を聞きたいのです」


 熊治は、妻の顔を見た。



 たきは、熊治が画の道を歩んできた年月を知っていた。けれど、彼が幼い頃に何を思い、どのような気持ちで師のもとへ通ったのか、そのすべてを知っているわけではなかったのだろう。


 熊治は、ゆっくりと話し始めた。


 備中国金井戸で生まれたこと。幼い頃から画を描くのが好きだったこと。家業を継ぐ身でありながら、画を本格的に学びたいと願うようになったこと。真金へ通い、三好雲仙に師事したこと。雲仙のもとで学んだ後、奥村石蘭のもとへ赴き、さらに修業を重ねたこと。名古屋で暮らし、東京へ出て、川端玉章と出会ったこと。



 話しながら、熊治自身も、自分が歩いてきた道を振り返っていた。


 遠くまで来たものだと思った。故郷を離れ、師を求め、画を学び、人と出会い、仕事を得た。振り返れば、人生には幾つもの転機があった。その一つひとつが、今の自分を形づくっている。


 たきは、黙って聞いていた。


「ずいぶん、いろいろあったのですね」


「ああ」


「その全部が、今のあなたなのですね」


 熊治は答えなかった。



 自分の人生を、これほど長く語る機会はなかったのかもしれない。画を描くことについては話しても、その道を歩んできた自分自身について、改めて言葉にすることは少なかった。



 たきは目を閉じた。


「大切にしてください」


「何を?」


「その画を」


 熊治は、妻の言葉を聞きながら、胸の奥に痛みを覚えた。



 たきは、自分が何を失い、何を守ろうとしているのかを分かっていたのだろう。熱子を失った悲しみのなかで、熊治が画から遠ざかっていることも、気づいていたに違いない。



「分かった」熊治は、ようやく答えた。


「約束ですよ」


「ああ。約束する」



 そう答えながらも、熊治には確かな見通しがあったわけではなかった。再び筆を持てるのか。以前のように画を描くことができるのか。何一つ、はっきりとは分からなかった。


 ただ、たきとの約束だけは、心に留めておこうと思った。






第四章 たきの死


 数日後、たきは亡くなった。熊治は、また一人になった。



 娘を失い、妻を失った。二人とも、自分より先に逝ってしまった。残された熊治には、その事実を受け止めるだけの言葉も、心の準備もなかった。家の中には、三人で暮らしていた頃の名残があった。



 たきが使っていた茶碗。箪笥にしまわれた着物。熱子の小さな持ち物。家のあちこちに、二人が生きていた時間が残されている。


 熊治は、一人で家の中を歩いた。



 以前なら、帰宅すれば、たきが迎えてくれた。熱子の声が聞こえることもあった。出かけるときには見送る者がいて、戻ってくれば帰りを待つ者がいた。今は、誰もいない。


「ただいま」口にしてみても、返事はなかった。


 翌朝、出かけるときにも、誰も見送ってはくれなかった。



 そのような小さな変化が、熊治には耐えがたかった。大きな悲しみは、葬儀の日にだけ訪れるのではない。何でもない日常の中で、ふいに姿を現す。茶碗を手にしたとき、襖を開けたとき、家に帰ったとき。そこにいるはずの人がいないという事実が、繰り返し胸に突き刺さるのである。



 夜になり、熊治は灯りをともした。机に向かい、紙を広げる。


 筆を取った。久しぶりに、画を描こうと思ったのだった。


 しかし、紙に筆を置くと、線は震えた。



 もう一度、筆を動かした。今度は少し力を込めた。それでも、思うようには描けなかった。熊治は筆を置いた。



 描けないのではない。描くための技術を失ったわけではなかった。だが、これまで自分を支えてきたものが、根こそぎ失われたように感じられた。



 何のために描くのか。誰に見せるために描くのか。


 その問いに、答えを見つけることができなかった。



 師を失ったとき、熊治は仕事に打ち込んだ。故郷を離れ、修業を続け、東京へ出た。新しい人々と出会い、画を描き続けることで、別れを乗り越えようとしてきたのだろう。


 しかし、今度は違った。


 熱子とたきは、熊治の暮らしそのものを支えていた人たちだった。画を描く自分の背後には、帰る場所があり、日々の生活があり、家族がいた。熊治は、そのことを深く意識せずに過ごしてきた。



 画を描いているとき、自分は一人なのだと思うことがあった。筆を動かすのは自分であり、画面に向き合うのも自分である。だが、実際には、画に向かう時間を守ってくれる人がいた。暮らしを整え、帰る場所を作ってくれる人がいた。


 その人たちを失って初めて、熊治は自分がどれほど支えられていたのかを知った。その夜、熊治は初めて声を上げて泣いた。



 雲仙や石蘭を失ったときには、悲しみを胸に収め、前へ進もうとした。仕事に打ち込み、修業を続け、新しい場所へ移ることで、何とか自分を保ってきた。けれど、今度は、どこへ行けばよいのか分からなかった。



 家の中に残る品々は、二人が生きていたことを示している。だが、その品を手に取っても、二人が戻ってくるわけではない。


熊治は、泣きながら、その事実を受け止めようとしていた。


 それからの熊治は、以前よりも口数が少なくなった。



 学校では、教師としての務めを続けた。


生徒たちの画稿を見て、必要な助言を与え、時には笑顔を見せることもあった。


外から見れば、これまでと変わらぬ日常を送っている様に見えたかもしれない。


 しかし、授業を終えて一人になると、深い静けさが戻ってきた。



 机に向かい、筆を取る。紙を広げる。


それでも、描いた画を眺めるたびに、何かが欠けているように感じられた。


それが何であるのか、熊治には分かっていた。



 失ったものは、もう戻らない。


そのことを知りながら、それでも生きていかなければならなかった。


第五章 東京からのたより


 そんな折、東京から手紙が届いた。


 差出人は、川端玉章だった。土居香国の名も添えられてあった。



 熊治は封を切り、書かれた言葉を読んだ。


 東京へ来てほしいという。


 熊治は、しばらく手紙を見つめていた。


 なぜ、今なのだろう。自分に何を求めているのだろう。



 以前の自分なら、玉章からの呼びかけを受けて、すぐに出立の準備を始めたかもしれない。東京には、画を学ぶ機会があり、旧知の画人たちがいた。玉章との再会は、絵師としての自分にとって、大きな意味を持つものだった。


 しかし、今の熊治は、かつてのように心を弾ませることができなかった。熱子も、たきも、もういない。自分には、何が残されているのだろう。



 そう考えると、東京へ出ることにも、以前ほどの意味を見いだせなかった。熊治は手紙を閉じようとした、そのとき、玉章の顔が脳裏に浮かんだ。


 東京で初めて会った日のこと。師の前に座り、画を描いたこと。自分がそれまで学んできたものを、どう生かしていくべきか、考えさせられたこと。



 玉章は、ただ技法を授けるだけの師ではなかった。先人から受け継いだものを、そのまま真似るのではなく、自分のものとして育てていく。その大切さを、熊治に教えてくれた人だった。



 そして、たきの言葉が思い出された。


 ――その画を、大切にしてください。


 妻は、自分が再び筆を持つことを願っていた。



 その願いに応えるためにも、いつまでも立ち止まっているわけにはいかないのではないか。熊治は、もう一度、手紙を読み返した。


 すぐに悲しみが消えるわけではない。東京へ行ったからといって、失ったものが戻るわけでもない。それでも、師の呼びかけを無視することはできなかった。熊治は、東京へ行くことを決めた。


 それは、かつての自分を取り戻すための旅ではなかった。


 失ったものを抱えたまま、これからどのように生きていくのか。その答えを求めるための旅だった。


続く。。。

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