第9話 聖域の終わり
事務所の会議室。
防音加工が施されたその部屋は、不気味なほど静まり返っていた。
正面に座るのは、いつもは温厚な担当マネージャーと、制作部門の責任者である冷徹な目をした中年男性だ。
テーブルの上には、昨夜の炎上騒動の推移を記したデータと、凛の契約書が置かれている。
「……結城くん。君が犯したミスの重さは、理解しているね」
責任者の低い声が、部屋の空気を凍らせる。
「『陽太』という名前が出た。それだけならまだ、機材スタッフだとか、親戚だとかで押し通せたかもしれない。だが、学校側が君の活動を把握し、停学という具体的な処分を下した。これは、クリーンな『聖女』というブランドにとって致命的なダメージだ」
凛は、隣で僕のシャツの袖をぎゅっと握りしめている。
その指が、かすかに震えているのが伝わってきた。
「……申し訳、ありませんでした」
「謝罪が聞きたいわけじゃない。我々はビジネスの話をしているんだ」
責任者は、僕に鋭い視線を向けた。
「そして、君。協力していたのは君だね。……本来なら部外者の立ち入りは固く禁じているが、結城くんから君への依存度の高さは我々も把握している。今回、君をここに呼んだのは、最後通牒を伝えるためだ」
責任者は、ペンでデスクを一度だけ叩いた。
「道は二つだ、結城くん」
「一つは、このまま引退。ほとぼりが冷めるまで活動を休止し、そのまま契約満了で消える。当然、君が積み上げてきたキャリアも、収益も、ここで全てストップだ」
凛の肩がビクッと跳ねる。
彼女にとって、Vtuberとしての居場所は、ズボラな自分を肯定してくれる唯一の「外」の世界だった。それを失うことは、翼をもぎ取られるのに等しい。
「……もう一つは?」
凛が、震える声を振り絞って聞いた。責任者は、無機質な笑みを浮かべて答えた。
「今夜、緊急の生放送を行いなさい。そこで『陽太』の存在を完全に否定し、学校での噂もすべて事実無根だと訴えるんだ。……その後、君(陽太)とは今後一切の接触を断つこと。連絡先も消し、私生活でも二度と会わない。それが、活動継続の条件だ」
「……っ!」
部屋の空気が一気に重くなる。
僕との縁を切らなければ、活動は続けさせない。
それは、彼女の夢と、彼女の生活の支えである「僕」の、どちらを捨てるのかという究極の問いだった。
「陽太くん。君からも彼女に言ってやりなさい。彼女の将来を思うなら、身を引くのが筋だろう?」
マネージャーが、同情を含んだ、けれど残酷な視線を僕に向ける。
確かに、僕が消えれば彼女は救われるのかもしれない。僕という「綻び」さえなくなれば、彼女はまた、輝かしいステージに戻れる。
僕は、握りしめられた凛の手を、静かに解こうとした。
「……凛。僕は、いいよ。お前が、歌いたいなら――」
「嫌だ」
凛の声は、小さかった。けれど、今まで聞いたどんな「聖女」のセリフよりも、強固な意志がこもっていた。
「嫌だよ、そんなの。陽太がいない私なんて、誰が幸せにしてくれるの? 陽太がいなかったら、私、朝起きることだって、マイクの前に立つことだってできないのに……!」
「結城くん、感情的になるな」
「感情的じゃないです!」
凛が立ち上がり、机に身を乗り出した。
「嘘をついて、自分を助けてくれた人を悪者にして、それで笑うのが『聖女』なんですか? ……そんなの、私が一番なりたくなかった大人です」
凛は、解けそうになった僕の手を、再び、さっきよりもずっと強く、痛いほどに握りしめた。
「……私は、辞めます。陽太と会えなくなるくらいなら、聖女なんていりません。……今まで、ありがとうございました」
「……本気かね? 違約金や、これまでの投資を無にすることになるんだぞ」
責任者の脅しのような言葉が飛ぶ。
だが、凛はもう、一度も目を逸らさなかった。
「はい。……だって私、陽太が作ってくれる、少し焦げたハンバーグを一生食べられなくなる方が、ずっと怖いんです」
凛が、僕を見てふにゃりと笑った。
それは、学校で見せる「高嶺の花」の微笑みでも、配信で見せる「聖女」の微笑みでもない。
僕の部屋で、僕の膝の上で、コーラを飲みながら見せる、世界で一番ズボラな幼馴染の顔だった。
「……行きましょう、陽太。もう、帰ってゲームでもしよ?」
驚愕し、言葉を失う大人たちを会議室に残し、僕たちは手を繋いだまま部屋を出た。
重い防音扉が閉まる音が、僕たちの「公式な活動」の終わりを告げた。
エレベーターに乗り込んだ瞬間、凛は僕の肩に頭を預けて、大きく息を吐き出した。
「……ふぅ。言っちゃった。陽太、私、無職になっちゃった」
「……ああ。おまけに停学中だ」
「あはは、最悪だね。……でも、すっごく気持ちいい」
夕焼けに染まるオフィス街へ、僕たちは二人きりで踏み出した。
全てを失ったはずなのに、繋いだ手の熱だけは、今までで一番熱く、確かなものに感じられた。
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