第10話 逃避の終わり
事務所を出た僕たちの前には、燃えるような夕闇が広がっていた。
「活動辞めます」と宣言した後の会議室の沈黙は、学校の廊下で感じたものよりずっと重く、けれど、どこか清々しいものだった。
「……良かったの? 凛。あんな言い方して」
地下鉄の駅へ向かう道すがら、僕は隣を歩く彼女に問いかけた。
あんなにズボラで、いつも僕に判断を委ねていた彼女が、初めて自分の足で「聖女」というステージを降りたのだ。
「良くないよ、全然。契約解除になったら、きっと違約金とか……すごいこと言われるもん」
凛はそう言って苦笑いしたが、その表情には憑き物が落ちたような明るさがあった。
「でもね、陽太。あのまま嘘をついて、陽太を隠して、誰か知らない男の人と仲良くするフリを続けるなんて……私、死んでも嫌だった。それなら、ただのズボラな女子高生のままでいい」
彼女は僕の腕にぎゅっと抱きついてきた。
学校でも、事務所でもない場所。ようやく取り戻した、僕たちだけの時間。
「……それにさ。陽太が『凛のいない将来なんていらない』って言ってくれたの、忘れないから。一生言いふらしてやるんだから」
「……そんなの、今言わなくていいだろ」
僕は顔を背けた。
あんなに必死だった自分の言葉を思い返すと、急に猛烈な気恥ずかしさが襲ってくる。
家に戻ると、お互いの両親には「学校で少しトラブルがあった」とだけ伝え、僕たちは凛の部屋に集まった。
明日からは二人とも無期限の停学、あるいは指導待ちの自宅待機。
ネット上では、いまだに「聖女・結城凛の特定」と「謎の男・陽太」の正体を巡って憶測が飛び交い、彼女のSNSには一秒ごとに罵倒のコメントが積み上がっている。
「陽太……見て、これ」
凛がスマートフォンの画面を見せてきた。
そこには、凛の公式チャンネルの登録者数が、目に見える速さで減少していく数字が映っていた。
『幻滅しました』『裏切られた気分です』。
昨日まで称賛を送っていた人々が、今は牙を剥いている。
「……みんな、私が『お嬢様』じゃないと、好きでいてくれないんだね」
凛の声が、少しだけ震えた。
お嬢様であることは「仕事」だったが、その姿に愛着を持っていたのも事実なのだろう。
彼女はそのまま、部屋の隅に追いやられた配信機材を見つめた。
「もう、二度と使わないのかな。これ」
僕は、凛の部屋の電源タップに手を伸ばした。
沈黙していたPCが起動し、複数のモニターに光が灯る。
「陽太? 何してるの。もう配信なんてできないよ。事務所のアカウントはパスワード変えられちゃうし……」
「事務所のアカウントが使えないなら、新しいアカウントを作ればいい。事務所が認める『聖女』は終わりだ。でも、凛の歌や声を待ってる人は、ゼロじゃない」
僕はコントロールパネルを開き、新しいストリーミングキーを生成した。
事務所の看板も、キャラクターデザインも、完璧なお嬢様という設定も、全部捨てた。
「今から、本当の『結城凛』を配信しよう」
「本当の……私?」
凛が呆然と僕を見る。
「ああ。ヨレヨレのTシャツを着てて、ハンバーグが大好きで、僕に甘えてばっかりの……世界で一番ズボラで、僕が大好きな幼馴染だ」
僕は凛の肩を抱き、配信用のマイクの前に座らせた。
「学校に行けないなら、ここを学校にしよう。世界中が敵なら、ここをシェルターにしよう。……大丈夫だ、設定も、コメントのガードも、全部僕がやる」
配信開始のボタンの上に、僕の指が置かれる。
凛は一度だけ大きく深呼吸をした。
彼女はポニーテールをほどき、いつものお嬢様な髪型ではなく、少し乱れたままの「素」の状態でマイクの前に座る。アバターを動かすソフトも起動していない。画面は真っ暗なままだ。
「……いいのね、陽太」
「ああ。全部、僕が責任を取る」
カチリ、とマウスがクリックされる。
SNSで「新しいアカウントで配信する」と一言だけ呟いた直後、真っ暗な画面に数千人の視聴者がなだれ込んできた。
「――皆様、こんばんは。……いえ、お久しぶりです、と言うべきでしょうか」
凛の声が響く。
それは、透き通るような聖女の声ではなく、少し震えて、けれど芯の強い、17歳の少女の声だった。
「……今まで、皆様を騙していました。私は、お淑やかなお嬢様ではありません。……本当の私は、ズボラで、わがままで、隣に住んでいる男の子に……陽太に、毎日助けてもらわないと生きていけない、ただの女の子です」
チャット欄が、見たこともない速度で流れ出す。
罵倒、混乱、驚愕。
その濁流のような悪意を、僕は一つずつ、手作業で消していった。
「……もし、それでもいいと言ってくださる方がいるなら。……私の、本当の歌を聞いてください」
凛が、机の下で僕の手をぎゅっと握った。
僕たちの、本当の「共犯関係」は、この真っ暗な画面の中から、新しく生まれ変わろうとしていた。
停学期間という名の、二人きりの、永遠に続くような夜が始まった。
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