嵐の中の産声
真っ暗な画面に、波紋のように広がっていくチャット欄。
『何これ、本物?』『声は似てるけど……』『ガッカリだわ、結局男がいたんじゃん』。
悪意ある言葉が濁流となって押し寄せるのを、僕はマウスを握りしめ、片端から非表示にしていく。
隣に座る凛は、モニターの光に照らされて、幽霊のように白く見えた。
彼女は震える手でマイクスタンドを掴み、僕が選んだ伴奏曲のイントロが流れるのを待っている。
「……陽太、私、怖いよ。誰も聞いてくれてない気がする」
彼女のささやきは、マイクには乗らない。
僕は無言で、彼女の空いた方の手を包み込んだ。
「僕が聞いてる。世界中で誰もいなくなっても、僕だけは最前列で見てるから。お前の歌が、本当だって知ってるのは僕だ」
凛が小さく頷き、そして、歌い始めた。
それは、事務所が用意したキラキラしたポップスではない。
彼女が昔から口ずさんでいた、少し切なくて、泥臭いほどまっすぐなバラード。
聖女の仮面を脱ぎ捨てた彼女の声は、驚くほど力強く、そして脆かった。
配信が終わったのは、午前二時を回った頃だった。
最終的な同時視聴者数は三千人。かつての数万人という数字に比べれば微々たるものだが、最後まで残った人々の中には、『……この声、お嬢様の時より好きかも』という温かいコメントも混じっていた。
「……お疲れ様。凛、すごかったよ」
「ふふ、もう声が出ない……。陽太、コーラ取って」
さっきまでの緊張が嘘のように、凛は床に寝そべり、僕の足に頭を乗せてきた。
配信が終われば、彼女はすぐにこの「ズボラな幼馴染」に戻る。
「明日からも、学校行かなくていいんだよね。先生たちが来るまでは」
「ああ、無期限停学だからな。……不謹慎だけど、なんだか長い夏休みが始まったみたいだ」
「じゃあさ、明日も配信しよ? 今度は歌じゃなくて、私が陽太の作ったハンバーグを食べるだけの配信。……本当の私を見てくれる人が、一人でも増えるように」
「誰が見るんだよ、そんなの」
「私が見るの! 陽太が私のために作ってくれた証拠を、記録に残すんだもん」
彼女の冗談めかした言葉に、僕は少しだけ救われた気がした。
学校での冷たい視線も、事務所での罵倒も、この部屋に流れる緩やかな空気の前では、どこか遠い国の出来事のように思えた。
翌朝。
本来なら登校しているはずの時間。
僕と凛は、パジャマ姿で僕の部屋のベランダにいた。
庭の境界線を跨いで、昨日より少しだけ長く、手を繋いで。
「ねえ、陽太。あれ……」
凛が指差す先、校門から続く坂道の方に、見慣れない男の姿があった。
スーツをだらしなく着こなした男。
そして、その横には――。
「……皇レイ?」
凛が息を呑んだ。
Vのアバターではなく、現実の姿でそこに立っていたのは、あのコラボ相手だった。
彼は僕たちの姿を見つけると、少しだけ不敵に口角を上げた。
「……陽太、隠れて!」
凛が僕を引き寄せる。
だが、彼は逃げる様子もなく、スマホを取り出して何かを操作し始めた。
直後、僕のスマホが、聞き慣れない着信音を鳴らした。
それは、事務所の公式アカウントからではない。
凛すら知らない、非公開のダイレクトメッセージ。
『昨日の配信、悪くなかったよ。……でも、一つ忘れてる。』
『君たちが捨てた「名前」を、今の事務所がどう利用するか……興味ないかな?』
メッセージの意図がわからず、僕たちは顔を見合わせた。
急いで凛の旧公式チャンネルを確認する。
引退したはずの「聖女・結城凛」のページに、新しい動画が投稿されていた。
『皆様へ。聖女は、新しく生まれ変わります。中の人の交代(魂の継承)のお知らせ』
「……嘘でしょ?」
凛が絶望に染まった声を上げた。
画面の中では、凛が大切に育ててきたプラチナブロンドのアバターが、凛ではない誰かの声で、優雅に微笑んでいた。
「――皆様、ごきげんよう。……前任の彼女は、不慮の体調不良で引退いたしましたわ。これからはわたくしが、皆様の聖女となります」
凛の努力も、思い出も、ファンとの絆も。
事務所はそれを「ガワ」として再利用し、新しい「聖女」を仕立て上げ、凛の存在を上書きしようとしていた。
「私の……私の居場所が、誰かに汚されてる……」
凛がその場に崩れ落ちる。
「いやっ……!いやぁぁぁっ……!」
せっかく「本当の自分」を見せる勇気を持ったばかりなのに、世界はそれを許さない。
僕は、膝をつく彼女を抱き寄せ、拳を血が滲むほど強く握りしめた。
「……凛、まだだ。まだ終わらせない。偽物がどれだけ笑っても、ここにある声が本物だってことは、僕が証明してみせる」
僕たちの孤独な戦いは、ここから本当の火蓋を切った。
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