第7話 嵐
スマートフォンのアラームが鳴る前から、僕は起きていた。
画面を開かなくてもわかる。枕元で絶え間なく震え続ける端末の通知欄を埋め尽くしているのは、昨日僕が自力で構築したアラートシステムの警告と、クラスのグループチャットの異様なまでの勢いだ。
「陽太……いるんでしょ?」
隣のベランダから、弱々しい声が聞こえる。
カーテンを開けると、そこには一睡もしていないのであろう、目の下に薄くクマを作った凛が立っていた。学校の制服は着ているものの、いつもは完璧に整えられているリボンは歪み、プラチナブロンドを思わせる艶やかな髪も、今はその輝きを失って乱れている。
「……行くぞ、凛。今日休んだら、それこそ噂を認めたようなもんだ」
「わかってる……。でも、足が動かないの。……怖いよ、陽太。世界中から、嫌われてる気がする」
僕はベランダの柵越しに、彼女の手を強く握った。指先は氷のように冷たく、ひどく震えている。
「僕が隣にいる。昨日の『陽太』が僕のことかどうかなんて、証明できる奴はいない。いいか、学校にいる間、お前はいつも通り『高嶺の花』の結城凛でいろ。それ以外は、全部俺がなんとかする」
彼女は僕の手の熱を確かめるように何度も頷き、震える唇をぎゅっと噛み締めた。その瞳には、聖女の慈愛ではなく、一人の怯える少女の心細さが溢れていた。
駅までの道中、凛は僕の後ろを一歩下がって歩いた。
普段なら「もっと並んで歩こうよ」と強引に袖を引いてくる彼女が、今は僕を盾にするようにして、必死に存在を消そうとしている。
最寄り駅のホームに降り立った瞬間、肌を刺すような違和感があった。
同じ学校の制服を着た生徒たちが、スマホの画面と実物の彼女を交互に見比べながら、チラチラとこちらを伺っている。
「……ねえ、あれ」「やっぱり、結城さんだよね?」「隣にいるのって、確か……同じクラスの……」
ひそひそ話が、列車の走行音よりも不快に、そして鋭く耳に届く。
凛の肩がビクッと跳ねる。僕はさりげなく彼女との距離を詰め、死角を作るようにして周囲の視線を遮った。
電車の中は、さらに地獄だった。
SNS上ではすでに「聖女様の幼馴染・陽太」というワードが独り歩きし、僕たちの学校名や過去の些細な共通点までが特定され始めていた。
画面越しに僕たちを盗撮しようとするスマートフォンのレンズの気配。凛は俯き、自分の膝の上で拳を握りしめて耐えている。その指先が、恐怖で小刻みに震え、爪が手のひらに食い込んでいるのがわかった。僕は黙って彼女の足の上に自分の手を重ねた。それしかできなかった。
校門をくぐり、教室のドアを開ける。
その瞬間、それまでガヤガヤとしていた喧騒が、水を打ったように静まり返った。
全員の視線が、僕と、その後ろにいる凛に突き刺さる。それは下俗な好奇心、冷ややかな疑念、そして「清純な聖女に裏切られた」という勝手な敵意が混ざった、形容しがたい粘着質な空気だった。
「……おはようございます、皆様。朝から、どうかしましたか? 私の顔に、何かついていますか?」
凛が、震える声を喉の奥で押し殺して、精一杯の「聖女」を演じた。
その凛とした立ち振る舞いと、わずかに微笑を浮かべた高潔なオーラに、クラスメイトたちは一瞬怯んだように視線を逸らす。だが、一度ネットの海に芽生えた疑念は、そう簡単に消えるものではなかった。
自分の席に着いた僕の机には、マジックで小さく「陽太(笑)」とだけ書きなぐられていた。
ただの名前。けれど、そこには明確な悪意と嘲笑が宿っている。
「おはよ、陽太くん。……昨日から大変そうだね」
声をかけてきたのは、佐倉だった。
彼女はいつも通りの飄々とした態度で、僕の机の落書きを指先でなぞる。
「ネットが凄いことになってるよ。昨日、聖女様が配信切り忘れて呼んだ『王子様』は、実はこんなに身近にいたんだ、って。特定班の熱意って怖いでしょ?」
「……何のことだかさっぱりだ。昨日は寝てたからな」
「ふふ、いいよ。そういうことにしておいてあげる。……でも、気をつけて。今、学校の裏掲示板、君たちの特定スレで埋まってるから。特に男子たちの怒りは、君に向かってるよ」
彼女はそう言い残すと、意味深な笑みを浮かべて自分の席に戻っていった。
午前中の授業は、一秒が永遠のように感じられた。
ノートを取るふりをして、僕と凛は一度も目を合わせなかった。けれど、教室の隅から聞こえてくる「配信」「アーカイブ」「中の人」という単語の断片に、凛の背中が強張るのを僕は痛いほど感じていた。
昼休み。
凛が逃げるように教室を出ていこうとした時、一人の男子生徒――クラスでも目立つグループのリーダー格が、彼女の前に立ちふさがった。
「なあ、結城。本当なんだろ? お前がVtuberなんて。……昨日、配信で『陽太』って呼んだよな? しかも、めちゃくちゃ甘ったるい声でさ」
教室中の空気が、一瞬で凍りつく。
凛の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。彼女は言葉を失い、ただ唇を小刻みに震わせる。
「答えろよ。……俺たちを『お嬢様』のフリして騙して、裏でこの地味な幼馴染とイチャイチャしてたのか? 聖女様が聞いて呆れるぜ」
「……っ、そ、それは……」
凛の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
数万人を熱狂させてきた「聖女」の仮面が、たった一人の同級生の悪意によって剥がれ落ちる音がした。
「……やめろ。それ以上彼女を追い詰めるなら、僕が相手になる」
僕は椅子を蹴って立ち上がった。
クラス中の視線が、今度は「無能な幼馴染」である僕に向けられる。
守らなきゃいけない。
たとえここで僕が全校生徒の敵になろうと、彼女の震える肩を抱き寄せられるのは、僕しかいないのだから。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!




