第4話 「親公認」という名の罠
「あ、陽太くん。ちょうど良かった、凛の部屋にこれ持ってってくれる?」
凛の家の玄関ドアを開けるなり、エプロン姿の凛のお母さん――芳恵さんに手渡されたのは、キンキンに冷やされたたっぷりのフルーツが入った皿だった。
僕と凛の家は、庭の生垣に小さな抜け道があるほど密接した隣同士だ。僕たちの親同士は学生時代からの親友で、事あるごとに「二人ともあんなに仲が良いんだから、もう将来は結婚しちゃえばいいのに」なんて冗談――僕にとっては心臓に悪い冗談を飛ばし合うくらいの仲だ。
「……おばさん、凛は? 学校から帰ってから顔見せてないけど」
「またテスト前なのに寝てるみたいよ。さっき覗いたら、ノートも広げっぱなしでペンギンと格闘してたわ。あの子、陽太くんがいないと本当に何にもできないんだから。お嫁に行き遅れたら、陽太くんが責任取ってね?」
クスクスと笑う芳恵さんに見送られ、僕はため息をつきながら、もう自分の家のように慣れ親しんだ階段を上る。
普通、男子高校生が女子の部屋に入るというのは、人生の重大イベントであり、一世一代の緊張を伴うものだろう。しかし、僕と彼女の関係において、それは「機材の配線を直す」か「課題の答えを写させてやる」か、あるいは「夕飯の時間だと叩き起こす」かの三択でしかない。
だが、今日に限っては、僕の心拍数はいつもより確実に十拍は速かった。
昨日の屋上での、あの『ラブレター』という言葉。そして、彼女が耳元で囁いたあの温度。
あれ以来、彼女の些細な仕草や、無防備な言動のすべてが、意識というフィルターを通して過剰な熱を持って脳に届いてしまう。
「……おい、凛。入るぞ。返事がないなら鍵開けるからな」
返事はない。ただ、ドアの向こうから微かに「ふにゃ……」という、人類の言語とは思えない間の抜けた声が聞こえてきた。
意を決してドアを開けると、そこには「学園の聖女」の欠片も、Vライバーとしての「お嬢様」の片鱗もない、混沌とした光景が広がっていた。
「……むにゃ、陽太……? あと五分、いや五光年……寝かせて……」
部屋の主は、ベッドの上で巨大なペンギンのぬいぐるみとプロレスでもしているかのように絡まり合い、無防備に足を投げ出していた。
学校指定の清楚なスカートはどこへやら。ショートパンツからは、白く健康的な太ももが惜しげもなくさらけ出され、寝返りの拍子にめくれ上がったTシャツの裾からは、折れそうなほど華奢なウエストが覗いている。
部屋の隅には、昨晩の配信で使った小道具の扇子が転がり、棚の上には高性能マイクとポップガードが鎮座しているが、その下には脱ぎ捨てられた靴下が丸まったまま放置されている。
学校で彼女に憧れる男子たちが見たら、あまりのショックで一週間は寝込むか、あるいはそのギャップの破壊力に悶え死ぬかのどちらかだろう。
「ほら、起きろ。おばさんからフルーツ預かってきた。あと、約束の数学のノートだ」
「……ふるーつ? 梨? 食べる……あーん……」
凛は薄目を開けたまま、のろのろと上体を起こした。寝癖で跳ねたポニーテールが、まるで機嫌の悪い猫の尻尾のように揺れている。彼女はそのまま、僕に向かって無防備に口を開けて待機し始めた。
「……自分で行儀よく食べろ。手があるだろ」
「やだぁ。陽太が食べさせてくれないと、私、今日一日の糖分が足りなくて低血圧で死んじゃう。ほら、あーん」
そんな、医学的に一ミリも根拠のない脅しに屈し、僕はフォークで梨の一切れを刺し、彼女の小さな口元に運ぶ。
ハムハムと、リスのように幸せそうに咀嚼する彼女を見ていると、呆れるのを通り越して、なんだか出来の悪いペットを飼っている飼い主のような、妙な保護欲が湧いてきてしまう。
「……ねえ、陽太。さっきの配信のアーカイブ、もうチェックした?」
不意に、凛が梨の甘さを飲み込み、真剣なトーンで問いかけてきた。
彼女は僕の腕を枕にするようにして、ベッドの端に座り直す。密着した二人の距離感に、僕の体温がジリジリと上がる。
「ああ、画質も音質も安定してたよ。同接も終盤まで三万を維持してたし、スーパーチャットの伸びも良かった。……どうかしたか?」
「最後の方、ちょっとだけ……『素』が出ちゃった気がして。お嬢様キャラなのに、陽太のことを……あ、昨日の屋上のことを思い出して、変な笑い方しちゃったんだよね」
彼女が気にしていたのは、配信の幕引き際だったらしい。リスナーからは「今日の聖女様、なんだかいつもより人間味があって可愛い」「誰かに恋してる女の子みたいだ」というコメントがいくつか流れていた。
「……もしバレたら、怖いか?」
僕は、隣で僕のシャツの袖を弄んでいる彼女の横顔を見つめた。
学校では完璧な仮面を被り、家ではこんなにズボラで、僕がいなければ明日の時間割も揃えられないような女の子が、画面の中では何十万人もの視線と、彼らの「理想」を一身に背負っている。
「……怖くないって言ったら、嘘になるかな。あんなに大きな場所になっちゃったしね」
凛は、僕のシャツの袖をぎゅっと、少しだけ強めに掴んだ。
「でもね、陽太がそばにいて、こうして私のダメなところを全部片付けてくれるなら……私、いくらでも『聖女』を演じられるよ。世界中を、最後の一人まで騙し続けられる自信がある。だって、私の本当の姿は、陽太が守ってくれてるんだもん」
その言葉は、技術者としての僕への絶対的な信頼なのか。それとも、もっと根源的な、僕自身に向けられた感情なのか。
彼女はそのまま、僕の肩にコテリと頭を預けてきた。
お風呂上がりのような、甘い石鹸の香りと、彼女特有の柔らかな匂いが鼻腔をくすぐり、僕の思考を麻痺させる。
「……陽太の匂い、落ち着く。安心する」
「お前、さっきから距離が近すぎるって……。おばさんが入ってきたらどう説明するんだよ」
「いいじゃん。今日はお母さんも、泊まりがけで勉強会するって思ってるんだし。時間はたっぷりあるよ。ね?」
結局、数学の難解な課題が終わる頃には、時計の針はとっくに日付をまたいでいた。
凛は床に散らばったプリントの山と、教科書の隙間で、すやすやと心地よさそうな寝息を立てている。
僕は呆れながらも、彼女の体を優しく抱き上げ、乱れたベッドに寝かせ直した。
「……陽太、行かないで……。まだ、離さないで……」
寝言か、あるいは微睡みの中の本心か。
彼女の細い指が、僕の手首を捕らえ、絡めとる。
その力は、驚くほどか弱く、繊細だった。けれど、僕をその場に縛り付けるには、どんな鎖よりも強固で、重いものだった。
この共犯関係が、いつまで続くのかはわからない。
最新の機材もない、防音設備も不完全な、この狭い子供部屋から始まった物語。
けれど、今この瞬間、世界中で一番彼女の「真実」の近くにいるのは、間違いなく僕だ。
僕は、彼女に布団をかけ直し、自分もその隣のカーペットの上に身を投げ出した。
「……おやすみ、凛。明日はちゃんと、自分で起きろよ」
画面の中の、誰からも手が届かない「聖女」ではなく、目の前の「ただの幼馴染」に向けて、僕は小さく呟いた。
その夜、彼女が僕の手を夜明けまで離さなかったことは、明日になればまた二人の、親さえも知らない「絶対の秘密」になる。
読んでくださってありがとうございます。
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