第3話 静寂の教室、嵐の予感
私立星ノ宮高校の午後の授業は、いつも通りの気だるい空気の中で進んでいた。窓の外では初夏の湿り気を帯びた風が校庭の砂を巻き上げ、遠くで体育の授業をしている生徒たちの掛け声が、水中にいるような微かな音で響いている。
僕は、数席先に座る凛の背中をぼんやりと眺めていた。今日も彼女の背筋は定規で測ったように真っ直ぐで、その気高さは、この古ぼけた教室の中でそこだけが別世界であるかのような錯覚を抱かせる。だが、その完璧な姿勢の裏で、彼女が昨夜の深夜配信で「あー、喉乾いた! 陽太、コーラおかわり!」と叫んでいた姿を知っているのは、世界中で僕だけだ。
その平穏は、教壇に立つ担任の、冷徹な一言によって打ち砕かれた。
「――では、今から全クラス一斉に、風紀委員立ち会いのもと所持品検査を行う」
その言葉が教室の空気に触れた瞬間、僕の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。
星ノ宮高校は進学校であり、かつ伝統を重んじるがゆえに校則が厳しいことで有名だ。しかし、抜き打ちの所持品検査なんて、ここ数年は一度も行われていなかったはずだ。
「ええーっ! マジかよ」「スマホ、電源切って靴下の中に隠すか?」
教室中が蜂の巣を突いたような騒ぎになる中、僕は反射的に、凛の背中を凝視した。
彼女は、騒ぎ出す周囲の生徒たちを「まあ、お行儀がよろしくありませんこと」とでも言いたげな、慈愛に満ちた聖女の微笑みを浮かべて眺めている。その余裕たっぷりの態度は、クラスメイトたちの目には「やましいことなど何一つない清廉潔白な乙女」に映っているだろう。
だが、僕は知っている。
彼女の通学鞄の奥底には、今日、登校中の裏道で僕が渡してしまった『あるもの』が入っているはずなのだ。
(まずい……。まずすぎる)
冷や汗が背中を伝う。
彼女の鞄のサイドポケット。そこには、昨夜僕が作成した「今週の配信スケジュール兼、機材設定マニュアル」が挟まっている。
それは、配信中のマイクゲインの最適値や、ノイズゲートのしきい値までが詳細に記された。
もしあれが見つかり、教師や風紀委員に読まれれば最後。「OBS」「ビットレート」「レイテンシ」……普通の女子高生が持ち歩いているはずのない単語の羅列に、言い訳の余地はない。彼女が「聖女」として築き上げてきた平穏は、一瞬で瓦解するだろう。
「……では、。結城さん、鞄を机の上に」
風紀委員を伴った数学教師の阿部が、凛の席に歩み寄る。阿部は規則にうるさく、融通の利かない男として有名だ。
クラス中の男子たちが「結城さんの鞄の中身なんて、きっと花の香りがするんだろうな」「ハンカチもアイロンがけされてるんだろうな」なんて、呑気で的外れな期待を寄せている。
阿部の手が、凛の鞄のチャックに伸びる。
凛は微笑みを崩していない。だが、僕は見逃さなかった。
彼女が膝の上で握りしめた拳が、微かに、本当に微かに震えているのを。
「……あ、先生! すみません、順番を飛ばして僕の鞄を先に見てください!」
唐突に立ち上がり、椅子を派手に鳴らした僕の声に、教室中の視線が集中した。阿部が不快そうに眉をひそめる。
「……陽太、君か。順番に回ると言っただろう。座りなさい」
「いや、その……実は、どうしても先に確認してほしいことがあるんです! さっき、結城さんに数学のノートを借りようとして……その時に、間違えて僕の変な……というか、すごく恥ずかしい内容のラブレター的なやつを、彼女の鞄のポケットに突っ込んじゃったかもしれなくて!」
教室が、一瞬の静寂の後に爆発的な笑いに包まれた。
「おいおい陽太、お前、身の程知らずにも程があるだろ!」「結城さんにラブレター? 勇者かよ、それともただの馬鹿か?」
野次が飛び交い、阿部も呆れたように深く溜息をついた。
「……やれやれ。結城さん、本当か? 迷惑をかけられているなら、今のうちに言いなさい」
凛は、驚いたように目を見開いて僕を見ていたが、すぐに「聖女」の仮面を完璧に被り直した。
少し困ったように眉を下げ、頬を林檎のように朱に染めて俯く。その仕草は、純真な少女が不意の告白に戸惑っているようにしか見えない。
「……ええ。陽太さんたら、本当に強引なんですもの。……先生、私からもお願いします。このような不躾なものは、後で私が個人的に……厳しくお説教した上で、処分しておきますから。ですから、今は……」
完璧な演技だった。声の震え、視線の逸らし方。
阿部は「全く、これだから幼馴染というのは……」と苦笑いしながら、彼女の鞄を軽く一瞥しただけで、中身を詳しく調べることなく次の席へ移っていった。
僕は全身の力が抜けて椅子に沈み込んだ。
「陽太、後で屋上な」「玉砕おめでとう!」
クラスメイトたちの茶化す声が遠く聞こえる中、僕は凛の背中が、安堵で小さく上下するのを見守っていた。
放課後。
オレンジ色の夕闇が校舎を侵食し始めた頃、僕は人気のない旧校舎の屋上に立っていた。
鉄扉を押し開けると、そこには既に凛がいた。フェンスに寄りかかり、夕日を背に受ける彼女の手には、例の「設定マニュアル」が握られている。
「……陽太」
「ごめん、あんな下手な嘘。でも、あの状況じゃあれしか思いつかなくて。明日から俺、クラスで『結城凛にラブレターを出して即処分された哀れな男』って呼ばれるんだろうな」
僕が頭をかきながら近づくと、凛は「ぷっ」と吹き出し、そのままお腹を抱えて笑い出した。
「あははは! 『ラブレター的なやつ』って! 陽太、あの時顔が真っ赤で、耳まで茹でダコみたいだったよ?」
「笑うなよ……。誰のせいでこんな肝を冷やす思いをしたと思って……」
「ふふ、ごめん。でも、本当にありがとう。……ねえ、陽太。一つだけ聞いていい?」
凛は笑い止むと、ゆっくりとした足取りで僕に歩み寄ってきた。
彼女の影が僕を覆う。そして、マニュアルの紙で自分の口元を隠しながら、僕の耳元に唇を寄せた。
「クラスのみんなの前であんなこと宣言しちゃって。……本当のラブレター、期待しちゃうじゃない」
「なっ……」
僕が絶句し、顔を熱くするのを、彼女は楽しそうに、獲物を観察する猫のような瞳で見つめている。
学校での彼女は、皆が憧れる「聖女」。
けれど、こうして二人きりになると、彼女は誰よりもタチの悪い「小悪魔」へと姿を変える。
「はい、これ。お返し」
彼女が差し出してきたのは、マニュアルの裏の余白に、彼女の丸っこい文字で殴り書きされた小さなメモだった。
『今日の夜、機材チェックが終わったら、特別に膝枕してあげる。
……それから、数学のノートも貸してあげるから、私の部屋に来ること!』
「……これ、どこをどう読んでもラブレターじゃないだろ。ただの呼び出しだ」
「いいの。私と陽太の『秘密の交換日記』の始まりなんだから。ね?」
彼女はそう言って、僕の制服の袖をグイと引っ張ると、夕焼けの中を跳ねるように駆けていった。
その日の夜。
いつもより少し長めの雑談配信を終えた凛は、宣言通り、僕の部屋のソファで僕の膝に頭を乗せていた。
画面の中の彼女は、今頃アーカイブの中で数万人のリスナーを「ごきげんよう」と優雅に見送っているはずだが、実物はパジャマのボタンを掛け違えたまま、僕の膝の上で規則正しい寝息を立てている。
「……ラブレター、か」
僕は彼女の穏やかな寝顔を眺めながら、昼間の教室での出来事を思い出す。
世界中に何十万というファンがいて、彼女の微笑みに熱狂する人々がいても、この無防備な、ズボラで、少しだけ寂しがり屋な寝顔を守れるのは、世界で僕一人しかいない。
僕は、彼女の鞄から回収した設定マニュアルを、シュレッダーにかけた。
代わりに、彼女から借りた数学のノートの隅に、自分にしか見えないほど小さな文字で書き込んだ。
『明日は、寝坊するなよ。アイロンがけ、終わらせとくから』
この距離が、この偽りの関係が、いつか「嘘」ではなくなる日を。
僕は、モニターの淡い光に照らされる彼女の横顔を見つめながら、静かに願い始めていた。
読んでくださってありがとうございます。
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