第2話 教室の「聖女」
「結城さん、ここの応用問題なんだけど、もしよかったら教えてくれないかな……?」
「ええ、もちろんです。ここは前回の授業でやった公式をこう当てはめると、すごく綺麗に解けますよ。ほら、見てみて?」
私立星ノ宮高校、昼休み。
眩しいほどの陽光が差し込む教室の中心には、今日も不可視の結界を張ったような「聖女」が鎮座していた。
結城凛。僕の幼馴染であり、夜になればチャンネル登録者数50万人を超える超人気Vtuber『聖女』の中の人として活動する少女。
彼女が優しく微笑むだけで、周囲の男子たちは一様に顔を赤らめて視線を彷徨わせ、女子たちは溜息混じりの憧れの眼差しを彼女に送る。背筋を定規で測ったようにピンと伸ばし、指先一つ、教科書をめくる所作にまで神経を研ぎ澄ませたその姿は、同じ空間に存在しているのが申し訳なくなるほど高潔で、優雅だった。
(……本当、よくやるよ。アカデミー賞ものの演技だな)
僕は数席離れた自分の席から、英単語帳を広げるふりをしてその光景を横目で眺めていた。
クラスメイトたちは、彼女が着ている制服が、毎朝僕がスチームアイロンをあててシワ一つない状態に仕上げたものだとは夢にも思わないだろう。今、彼女が清楚に、かつ完璧な角度で結んでいるポニーテールだって、昨晩は僕の部屋のソファでポテチを食べながら寝落ちしたせいで、見るも無惨な鳥の巣状態だったのだ。それを僕が、登校前の数分で必死にブラッシングして整えた。
「あら、陽太さん。どうかしましたか? さっきからこっちを熱心に見ているみたいですけど」
ふいに、凛が僕の方を向いた。
その瞬間、クラスメイトたちの視線が、一斉に「その他大勢」の一人でしかない僕に集まる。羨望、嫉妬、そして「なぜあいつなんかに」という疑問の混じった痛いほどの視線。
「……いや、別に。消しゴムを落としたのを拾おうとしてただけだ」
「そうですか。あまりぼんやりしていると、先生に叱られちゃいますよ? 集中してくださいね」
クスクスと、鈴の鳴るような上品な笑い声。
「ただの幼馴染」という脇役を完璧に演じる彼女。だが、その吸い込まれるような瞳の奥には、僕にしか伝わらない、そして僕だけが解読できる『早く帰りたい。肩凝った。お腹空いた』という絶望的なまでの救難信号が混じっていた。
僕は無言で視線を逸らし、単語帳の隅に小さく「ハンバーグ」と書いた。彼女の口角が、一瞬だけピクリと跳ねたのを僕は見逃さなかった。
放課後。
周囲の目を欺くため、僕たちはあえて別々のタイミングで校門を出る。
凛が女子グループに囲まれて校門を出るのを確認してから十分後。僕は裏口からこっそりと抜け出し、二駅離れた場所にある、古びた公園の裏道へ向かう。そこが、僕たちの「合流地点」だ。
「……っ、し、死ぬかと思ったぁぁぁ……っ!」
待ち合わせ場所に僕が着いた瞬間、背中にドサリと、柔らかな、しかし確かな重みが預けられた。
凛が僕の制服の裾を両手でギュッと掴み、そのまま僕の背中に顔を埋めてきたのだ。周囲に誰もいないことを確認してからとはいえ、その勢いはすさまじい。
「おい、凛。まだ外だぞ。誰が見てるかわからないだろ」
「無理……もう、限界。充電切れ。五分……いや、三秒でいいからこのまま、陽太の背中で死なせて……」
さっきまでの「学園の聖女」のオーラはどこへやら。
彼女は僕の背中に額をゴリゴリと擦り付けながら、ふにゃふにゃと情けない声を漏らしている。
「学校の凛は、ちょっと綺麗すぎるんだよ。……ほら、行くぞ。今日は凛の好きな、チーズインハンバーグにしてやるから。肉多め、ソース濃いめで」
「! ……陽太、大好き。一生ついていく。墓までついていくから」
「大好き」という言葉を、彼女は呼吸をするように使う。
それが幼馴染としての長年の親愛なのか、それとも、もっと別の、僕が自惚れてもいいような意味が含まれているのか。
考えるだけ無駄だと分かっていても、背中に伝わる彼女の体温と、かすかな心拍の鼓動が、僕の理性をめちゃくちゃにかき乱す。
僕は彼女の手を引き、夕暮れの道を早歩きで僕の部屋へと向かった。
僕の部屋に戻り、鍵をかけた瞬間、凛は文字通り「仮面」を脱ぎ捨てた。
ローファーを玄関で蹴飛ばし、白く清楚な靴下を脱ぎ散らかし、制服のスカートのホックをパサリと外して床に落とす。その下に着込んでいた、見覚えのあるショートパンツ姿になるまで十秒とかからなかった。
「ふはーーー! やっぱりこれに限るね! 解放感最高!」
彼女はそのまま、僕のベッドに勢いよくダイブした。
お嬢様キャラを維持するために矯正していた姿勢や、窮屈な制服の束縛から解放され、彼女はゴロゴロと猫のように寝返りを打つ。
「おい、自分の家でやれっていつも言ってるだろ。あと、脱いだものを散らかすな。俺が後でアイロンかけ直す身にもなれ」
「いいじゃん、どうせ後で陽太が綺麗にしてくれるって信じてるし。それより陽太、今日の配信のネタなんだけどさ」
凛は僕の枕をぎゅっと抱きしめたまま、上目遣いで僕を見つめる。
ベッドに投げ出された白い足、乱れた髪。
彼女にとっては「子供の頃からの延長」でしかない無防備な姿なのだろう。だが、健康な男子高校生である僕にとっては、これはもはや高度な情報戦か、あるいは質の悪い拷問に近い。
「今日の夜さ、雑談配信で『理想のデート』について話そうと思うんだけど、どうかな? リスナーはやっぱりお嬢様っぽい理想を聞きたがってると思うんだよね」
「……いいんじゃないか。お嬢様キャラを貫くなら、王道の『貸切のクルーズ客船でアフタヌーンティー』とか、『プライベートアイランドで乗馬』とか言っておけば満足するだろ」
「えー、そんなのつまんないよ。型通りすぎる。私はもっと、こう……二人っきりで家でダラダラして、適当な出前取って、一緒に協力プレイのゲームして、お菓子食べて……それで、たまに頭撫でてもらったりする方が、何億倍も幸せだと思うんだけど」
それ、今やってることそのままじゃないか。
僕が鋭いツッコミを入れようとすると、凛はニヤリと、どこか小悪魔的でいたずらっぽく笑った。
「もし私が配信で『実は幼馴染と家でコーラ飲みながらダラダラするのが一番の幸せなんです』って本気で言ったら、どうなるかな?」
「……即、大炎上。ネットニュース確定。そして、俺が結城凛信者の軍団に暗殺されて、お前のキャリアも終了だな」
「だよねー。……だから、これは私だけの、世界で一番贅沢な『宝物』。誰にも教えないもん」
彼女はそう言うと、ベッドから身を乗り出し、パソコンの設定をしていた僕の腕を掴んで、自分の顔の近くに引き寄せた。
ふんわりと漂うシャンプーの香りが鼻をくすぐる。夕暮れの光が差し込む部屋で、彼女の瞳が潤んでいるように見えたのは、僕の気のせいだろうか。
「陽太。私ね、Vtuberになって良かったって、心の底から思ってるよ。……だって、こうして陽太を毎日独り占めする『正当な理由』ができたんだもん。……あ、もちろんマネージャーとしての給料は、出世払いね?」
「……調子いいこと言うなよ」
僕のぶっきらぼうな返事を聞いて、彼女は満足そうに笑った。その頬は、夕食のハンバーグを楽しみにしているせいか、それとも別の理由か、ほんのりと夕焼け色に染まっていた。
配信開始十分前。
夕食を早々に平らげた僕たちは、仕事のモードに入る。
機材の最終チェック。マイクのゲイン調整、フェイストラッキングの感度、OBSの出力ビットレート……。
僕は、防音室として改造された部屋の隅に座り、三枚のモニターを監視する。
カメラの前に座った凛は、それまでのズボラな姿を完全に消し去った。
深く、長く深呼吸を一つ。
背筋が氷の彫刻のように真っ直ぐに伸び、表情が引き締まる。
わずか数秒で、僕の目の前にいた「ただの凛」は、画面の向こう側の数万人が熱狂し、崇める『セレスティア』へと変貌を遂げた。
「――皆様、ごきげんよう。今夜も私に会いに来てくださいまして、感謝いたしますわ」
マイクを通した声は、不純物を一切取り除いたクリスタルのように透き通っている。
チャット欄には、爆速で『今日も綺麗だ』『やっぱりお嬢様は格が違う』『その声だけで浄化される』という熱烈なメッセージが躍る。
(……みんな、騙されてるぞ。この子、さっきまでハンバーグの肉汁をシャツに飛ばして「あちゃー」とか言ってたんだからな)
僕は心の中で苦笑しながら、配信のバックアップとトラブル対応に没頭する。
画面の中の彼女は、完璧な「高嶺の花」だ。誰の手も届かない、清廉潔白な聖女。
けれど、机の下。
カメラのフレームから完全に外れた暗闇の中で、彼女の柔らかな裸足が、僕の足の甲をツンツンと、リズムを刻むように小突いている。
その、僕にしか聞こえない、僕にしか感じられない彼女の本物なのだ。
リスナーの誰も知らない、そして一生知ることのない秘密を共有しながら、僕は深夜の配信の海へと、彼女をエスコートし続ける。
読んでくださってありがとうございます。
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