第1話 お嬢様聖女の「中の人」
カクヨムにて以前投稿していたものを再投稿しております
「――それでは皆様、ごきげんよう。また明日、この美しい月夜の下でお会いしましょう」
画面の向こう側、漆黒の夜空に浮かぶ銀の月を背景に、プラチナブロンドの髪をなびかせた美少女キャラクターが優雅に一礼する。その指先一つ、睫毛の瞬き一つに至るまで、計算し尽くされた「慈愛」が宿っていた。
リアルタイム視聴者数、三万人。
凄まじい速度で流れるチャット欄は、『おつ聖女様!』『今日も救われた……』『明日まで生きる希望をもらいました』という、熱狂的とも言える称賛の嵐で埋め尽くされている。
配信終了のロゴが表示され、ライブ配信のステータスが「オフライン」に切り替わってから、慎重に三秒。
完全に接続が遮断されたことを確認した直後だった。
「……ぷはぁーっ! おわったおわった! あー、肩凝ったぁ〜!」
ついさっきまで世界を癒やしていた、清楚な鈴の音のような声はどこへやら。
僕の膝の上に、ドサリと重みを預けて後頭部を乗せ、派手に寝返りを打ったのは、数秒前まで「聖女」として三万人の信徒を従えていた少女――僕の幼馴染である結城 凛だった。
「お疲れ様。ほら、マイクもカメラも切ったけど、足くらい閉じろよ。一応、現役の女子高生だろ」
「いいじゃん、陽太しか見てないんだし。陽太の前で今さら格好つけても意味ないでしょ? あー、コーラ飲みたい。キンキンに冷えたやつ、取って」
凛はそう言いながら、僕の部屋に脱ぎ散らかされていた着古したヨレヨレのTシャツ――それも、僕が中学の部活時代に使っていた貸し出し品の、首元が伸びきったやつ――の裾をパタパタと扇いで涼んでいる。
学校での彼女を知る者がこの光景を見れば、間違いなく卒倒するだろう。
偏差値の高い進学校の中でも、一際異彩を放つ美貌を持つ結城 凛。学園では「高嶺の結城さん」や「現代の氷の君」などと呼ばれ、その一挙手一投足が宗教画のように美しいと噂される彼女だが、僕の四畳半の部屋ではこの有り様だ。
「……はい、コーラ。グラスは使えよ、直接飲むなよ」
「んー、ありがと。ぷはっ、生き返るぅ……!」
僕の忠告を無視してペットボトルから直接コーラを煽る彼女を横目に、僕はデスクに並んだ三枚のモニターを操作し、今日の配信データのバックアップを取り始める。
僕の役割は、単なる幼馴染ではない。凛がVライバーとして活動するためのシステム構築、モデルの挙動修正、そして音響管理。それらすべてを一手に引き受ける「中の人」の守護者、いわばテクニカルマネージャーだ。
「あと、これ。明日提出の数学のプリント、凛の机に置きっぱなしだったぞ。持ってきた」
「うげぇっ、地獄の連立方程式……。ねえ、陽太ぁ。これ、聖女パワーでなんとかならないかな? ほら、『神の祝福によって、この難問は解決されました!』みたいな感じで」
「なるわけないだろ。むしろ、お前のその『聖女』のガワを作った俺の『エンジニアパワー』でさえ、その真っ白な回答欄は埋められないんだよ。ほら、さっさと起きろ」
僕が軽く彼女の頭を小突くと、凛は「むぅ」と大袈裟に頬を膨らませた。
そのまま、膝の上でくるりとこちらを向き、至近距離で僕の顔を覗き込んでくる。
配信で見せる、万人に向けられた『慈愛の微笑み』とは違う。
少しだけ湿り気を帯びた、いたずらっぽくて、そして熱を孕んだ瞳。
「陽太は相変わらず冷たいなぁ。……でもさ、このズボラで、数学が苦手で、陽太の古いTシャツを着てゴロゴロしてる私を知ってるのは……世界中で陽太だけなんだからね?」
そう言って、彼女は僕の腕にぎゅっと抱きついた。
僕の部活ジャージの袖を掴む指先に、微かな力がこもる。
鼻先をかすめるのは、彼女がいつも使っている少し高いシャンプーの香りと、僕の部屋の柔軟剤の匂いが混ざり合った、なんとも言えない「幼馴染」の匂いだ。
「……暑い。離れろって。プログラムのデバッグが終わらないんだよ」
「やーだ。陽太がプリント手伝ってくれるまで離さない。……ねえ、陽太。今日の配信、どうだった? 私、ちゃんと『聖女』になれてたかな?」
先ほどまでのふざけた態度が消え、凛が少しだけ不安そうに呟く。
彼女がVライバーを始めたのは、その圧倒的な歌声を、顔を出さずに誰かに届けたかったからだ。しかし、人気が出れば出るほど、求められる「キャラクター像」と「本当の自分」の乖離に、彼女自身が戸惑うこともある。
「……同接三万人が答えだろ。お前の歌は、ちゃんと届いてるよ。俺が調整したあのノイズ除去アルゴリズムのおかげでもあるけどな」
「ふふ、やっぱり不純なんだから。すぐ技術の話にするんだから。……でも、ありがと」
凛は僕の腕に顔を埋めるようにして、幸せそうにコーラを啜り始めた。
この距離感が、いつか「幼馴染」という安全な枠を超えてしまうかもしれない。
密着した体温の熱さと、柔らかい感触が、僕の理性をじわじわと削っていく。
僕はそんな予感を必死に振り払うように、激しく鳴り響くPCの冷却ファンの音に意識を向けた。
これはマネージャーとしての悩みだ。彼女の人気を守るための、プロとしての緊張感だ。
そう自分に言い聞かせながら、僕は真っ白なプリントの束を手に取った。
「一問だけだぞ。あとは自分でやれ」
「やったぁ! さすが陽太! 好き!」
「……気安く言うな、バカ」
僕の呟きは、彼女の弾けるような笑顔にかき消された。
夜はまだ長い。四畳半の部屋で、世界の「聖女」と、僕だけの「凛」が、ゆっくりと混ざり合っていく。
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