第5話 不協和音の招待状
「……なんだよ、これ」
僕の部屋のPCモニターに映し出された一通のメール。それは、凛が所属しているVtuber運営事務所からの、今後の活動方針に関する一方的な通達だった。
普段、個人勢に近い自由度で活動させてもらっている凛だが、急激な登録者数の伸びに目をつけた運営が、ついに「数字のブースト」を狙って動き出したのだ。
『次回の大型コラボ企画について:男性Vtuberユニット「ナイト・オーダー」との期間限定ペア配信の実施通達』
「ナイト・オーダー」。今、SNSを中心に飛ぶ鳥を落とす勢いで女子中高生や大学生の人気を集めている、新進気鋭のイケメンVグループだ。中でもセンターを務める「皇レイ」は、王子様系キャラとして完璧な立ち振る舞いを見せ、凛の――「聖女様」のリスナー層とも親和性が高い。運営が「聖女と王子の運命の出会い」という安直かつ強力なシナリオで、新規層を強引に囲い込もうとする意図はあまりに明白だった。
「陽太……それ、見た?」
背後から、今にも消え入りそうな掠れた声がした。
振り返ると、いつものようにパジャマ姿で、僕のベッドの端に丸まって座っていた凛が、膝を抱えたままモニターを凝視していた。その瞳には、いつもの悪戯っぽさや、ズボラな幼馴染の余裕などは微塵もなかった。
「ああ、見た。……『聖女と王子の期間限定ペア』か。ハッシュタグまで運営側で用意されてるな。徹底してるよ」
僕はあえて感情を殺し、淡々と言った。
マネージャーとしての冷静な視点で見れば、これは凛のチャンネルをさらに一段上のステージへ押し上げる絶好の機会だ。皇レイのファン層が流れ込めば、100万人突破も夢ではない。けれど、ただの幼馴染としての僕は、胃の奥が焼け付くような、ドロドロとした不快感に襲われていた。
「私、やりたくないよ。……陽太以外の男の人と、あんな甘ったるい台本で喋るなんて。たとえ仕事だってわかってても、無理だよ」
「仕事だろ。凛の夢は、もっと大きなステージで歌うことじゃないのか? そのための階段だと思えば……」
「それは、そうだけど……! そういうことじゃないの!」
凛が弾かれたように立ち上がり、僕の胸ぐらを掴んだ。
顔が近い。彼女の震える吐息が僕の鎖骨あたりに当たって、ひどく熱い。
「陽太は、平気なの? 私が他の男の人と『てぇてぇ』って言われて、お似合いだって騒がれて……世界中の人から勝手にカップリングされて。それでも、陽太は何とも思わないの?」
試すような、あるいは今すぐにでも否定してほしいと縋るような問いかけ。
僕は彼女の細い手首を、痛くない程度の力で優しく掴み、その手を解かせた。
「……僕がどう思うかは、関係ない。凛が最高のパフォーマンスをできるように、技術面とスケジュールを支えるのが僕の役目だ。……それ以上は、踏み込まないって決めてる」
自分でも驚くほど冷めた、硬い声が出た。
そう言わなければ、目の前で今にも泣き出しそうな彼女を抱きしめて、「どこへも行くな、他の奴と喋るな」という、醜い独占欲を叫んでしまいそうだったからだ。
翌日。学校の空気は昨日までとは一変し、まるで祭りの前日のような浮足立った熱気に包まれていた。
スマホを覗き込む生徒たちの間で、凛――もとい「聖女様」の大型コラボ発表が話題を独占している。
「おい聞いたか? 今度のコラボ、ナイト・オーダーの皇レイとだってよ!」
「マジか、公式が最大手のカップリングを供給してきたな。これもう実質結婚だろ。尊すぎて死ぬわ」
教室のあちこちで上がる歓声や、匿名掲示板の書き込みを読み上げる声が、鋭いナイフのように僕の鼓膜を刺す。
当の凛は、窓際の席で優雅に読書をしていた。
周囲の喧騒など一切耳に入っていないかのように、完璧な「聖女」として静止しているその横顔。誰もが彼女の気高さに見惚れているが、僕は知っている。
彼女がページをめくる指先が、わずかに、しかし絶え間なく震えていることを。
そして、今朝から彼女が、一度も僕と目を合わせようとしないことを。
昼休み、胸のつかえが取れないまま、僕は屋上へ向かう階段の途中で、一人の女子生徒とすれ違った。
広報委員を務め、学園内の噂話から裏事情まで、誰よりも情報の扱いに長けた少女――佐倉だ。
「……ねえ、陽太くん」
通り過ぎざま、彼女がピタリと足を止めた。
「結城さんのあんなに悲しそうな、今にも壊れそうな顔。私、初めて見たかも。幼馴染の君なら、その理由……本当は知ってるんじゃない?」
心臓がドクリと大きく跳ねる。
僕は表情を鉄の仮面で殺したまま、振り返らずに短く答えた。
「さあね。学園のアイドル、高嶺の花の考えてることなんて、ただの隣人の僕にはわからないよ」
「ふーん。……ならいいんだけど。あんまり彼女を泣かせると、世界中にいる彼女のファンの人たちが黙ってないかもよ? もちろん、この学校の中にもね」
意味深な、警告とも取れる言葉を残して、佐倉は階段を下りていった。
正体がバレる恐怖とは別の、もっとドロドロとした実体のある不安が、足元から這い上がってくるのを感じた。凛を守るための「聖女」という仮面が、今、彼女自身を苦しめる鎖になろうとしている。
その日の夜、凛は僕の部屋に来なかった。
いつもなら「陽太、マイクの感度見て!」と騒がしくノックし、深夜まで明かりがついているはずの、隣の家の窓も暗いままだ。
深夜二時。
部屋の静寂に耐えきれなくなった僕がベランダに出ると、冷たい夜風と共に、隣のベランダに人影が見えた。パーカーのフードを深く被り、手すりに力なくもたれかかっている。
「……凛」
「……陽太のバカ。大っ嫌い。……最低」
手すりに顎を乗せた凛が、掠れた声でポツリと呟く。
彼女はベランダ越しに、暗闇の中で僕に向かって右手を伸ばした。
数センチ、あるいは十数センチの隙間。
手を伸ばせば、身を乗り出せば、簡単に飛び越えられそうで――けれど、今の僕たちにとっては、世界で一番遠く、決して届かない距離。
「ねえ、陽太。もし私が全部投げ出して、『聖女』を辞めて……ただの、ズボラで数学が苦手な凛になったら……ずっと、隣にいてくれる?」
「……そんな仮定に意味はないよ。凛には、もう背負っているものが多すぎる。君は、みんなの聖女なんだから」
僕の喉から出たのは、正論という名の残酷な拒絶だった。
凛を守るためには、彼女をスターにし続けなければならない。それが僕の課した、僕自身への呪縛だった。
「……そうだよね。わかってるよ。陽太は、私のことを一番に考えてくれてるんだもんね」
彼女は寂しげに、今にも消えてしまいそうな微笑を浮かべると、伸ばした手をゆっくりと引っ込めた。
「明日の21時、コラボ配信。……エンジニアとして、一番近くで、絶対に、最後まで見ててね。私、ちゃんと最高のお嬢様をやってくるから」
それは、彼女なりの悲痛な決別のように聞こえた。
夜風が二人の間を通り抜け、微かな石鹸の香りをどこか遠くへさらっていく。
僕はその夜、結局一度も眠りにつくことができなかった。
モニターの中で、僕の知らない男と微笑み合い、愛を囁き合う彼女を想像するだけで、視界が真っ暗に染まっていく。
読んでくださってありがとうございます。
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