四話
『――行っちゃダメよ』
繰り返される言葉に分かっていると答える。
痩せてひとまわり小さくなった体の、どこにそんな力があるのかと思うほどと強く自分の腕を掴む手。
病院のベッドに横たわる母が、自分を見る目は必死で――そこには確かな恐怖があった。
なにがそんなに恐ろしいのか。
なにがそんなに母を追い詰めるのか。
全てはあの夏に帰結する。
なんでこんなことになったのだろう。
(あぁ、全部あの夏のせいだ。あの時、あの日、あそこへ行かなければ)
七歳の、あの夏。
あの夏休みまでは、なにもおかしなことはない、ありふれた家族だったのに……。
あの日、あの時、あの場所で、帰ってきたりしなければ。
――バチン!
「――っ!」
「あ、起きた~」
「……え?」
まず縁の視界にはいったのは、白い天井。
それからにゅっと遮るように飛び込んできたのは、派手な色。
「いやぁ、おにーさん急にぶっ倒れるから、あせったわ~」
「…………」
「あれ? まだダメな感じ? この指、何本に見える」
「……二本」
「おっけ、大丈夫そうだな」
うんうんと頷くこの青年は、たしかベイ・サイダーとかいう名前のふざけた男だ。
そんなことを思い出した縁は、自分がなにか固い場所に横になっていることに気付いた。
これは――船の座席だ。
「ぇ、あれ?」
慌てて飛び起きれば「ちょっと」と強い声に制された。
「急に起きたら危ないでしょ。きみ、倒れたんだよ」
気の強そうな女――第一印象から勝手にそう呼んでいた女が、縁の肩を押しとどめている。
「そうそう、急に目ぇ回しちゃってさぁ。最初はオレの頭突きでやっちまったかと思ったんすよ~? 鉤路さんとオレ、ふたりがかりでイスの上にのせたの。めっちゃ大変だったんだから。感謝して~?」
「いやぁ、具合が悪かったのに気付かず、すまなかったね」
恩着せがましいベイ・サイダーの横で、鉤路が人の良さそうな笑みを浮かべている。縁は面食らいつつも、ぎこちなく頭を下げた。
「ぁ、いえ、こちらこそ……ご迷惑をおかけしました」
「迷惑っていうか、ひとり旅なら体調管理も自分でしっかりしないと」
「お~、苗さんのありがたーいお言葉!」
ベイ・サイダーがケラケラ笑う。彼の口から出た言葉に縁は「なえ?」と首をかしげた。
「……あぁ、あたしの名前。苗木っていうの。それより、体調管理。しっかりしなさいよ」
「あ、はい」
「苗木さんは、旅慣れてる感じだね」
迫力に押されて頷く縁とのやり取りを見て思ったのか、鉤路が苗木を褒める。
すると、苗木は満更でも内容に笑みを浮かべ「まぁ」と頷いた。
「あたし、ライター業やってるんで、取材もかねてあちこち旅行に行くんですよ。基本、ひとり行動が多いし、自然と慣れちゃった感じですね」
「へぇ~。苗さん、ひとりなんっすね? それなら一緒に……」
「お断り。……アタシはグルメライターなの。今回はおいしい海鮮料理が目的。だから、アンタみたいなうさんくさい配信者はお呼びじゃない」
苗木がしっしっと手を払うと、ベイ・サイダーは「え~」と不満そうな表情を浮かべ「それなら、連絡先だけでも交換しよう!」と追いすがった。
そんなやり取りを、ボンヤリながめている縁の耳に笑い声が届く。それは、デッキのほうからだった。
「彼女も落ち着いたみたいだね」
鉤路がそう呟いたことで、縁は青白い顔をした女とその夫を思い出した。
なにか、奇妙だ。だが、どこがと聞かれればうまく言葉にできない。
そう。はたからみれば、なにもおかしくない和やかな光景なのだから。
なにも――。
「あっ、そろそろ到着するわね」
苗木が手元の携帯電話を見て呟く。どうやら根負けして連絡先を交換したようで、ベイ・サイダーはほくほく顔だ。
「そうだ。せっかくなら、鉤路さんとおにーさんも連絡先交換しましょうよ~」
てっきり女性の苗木から連絡先を聞き出したいだけだと思いきや、自分たちにもお鉢が回ってきたことに縁は驚いた。だが、鉤路は気にしなかったようで人のいい笑顔で連絡先の交換に応じている。
(アレを見て、連絡先を交換したいと思えるなんて……神経図太いんだな)
鉤路の熱弁は……行きすぎた情熱とでも言えばいいのか、熱量のすさまじさに潰されそうだった。それまでは、人の良さそうな中年男性という印象だったのに、今はがらりと変わりつつある。
(……なんか、疲れた……)
そうして、少しのゴタゴタはあれど、船は無事糸布狭島に到着した。
「いやぁ、きみたちのおかげで楽しかったよ。狭い島内だ、もしかしたらばったり会うかも知れないね。それじゃあ」
まずは鉤路が手を上げて降りていく。
「鉤路さんの言うとおり、ばったり会うかもだけど……アタシは仕事をしに行くんだから、話しかけないでちょうだいね。特に、そこの金髪ピンクのチャラ男」
「は? ひどっ! もうそれ名指しも同然じゃないっすか!」
髪色が金髪でところどころにピンクのメッシュが入っているという、派手な髪色のベイ・サイダーが「苗さぁ~ん!」と情けない声をあげるが、苗木は振り返らず颯爽と降りていった。
ついで夫婦が降りていく。
結局、最後になってしまった縁も自分の荷物を持って下船しようと立ち上がった。
「あ、おにーさん足もととか大丈夫? 手ぇ、かします?」
なぜ? という疑問はそのまま顔に出ていたのだろう、ベイ・サイダーは少しばかり眉尻を下げて苦笑した。
「あー……ほら。倒れたのは貧血みたいだけど、その前にオレの石頭とぶつかってるんで。そこそこの責任は感じてるんっスよ」
縁は意外な言葉に驚きつつも「大丈夫です」と答えた。
すると、ベイ・サイダーは目に見えてほっとする。どうやら本当に気にしていたようだった。
「そう? なら、よかったっす。……あぁ、そうだ、それで連絡先交換! つーか、オレ、おにーさんの名前も聞いてないわ」
「……いや、別に、そういうのは」
「あれ? 初対面では連絡先交換NG? おにーさんって、ガード固いタイプ?」
ぺらぺらと口が回るベイ・サイダーは、縁の横に並んでタラップを降りる。
「いえ、特に必要ないんで」
「はぁ? おにーさん、まさか女の連絡先以外はいらねぇってタイプっすか」
「え、違いますよ」
「あはは、冗談っすよ~! ――ってか、おにーさんは、この島の人?」
「? ……違いますけど」
不思議な問いかけだなと思いつつ縁が否定すると、ベイ・サイダーは「ふーん」と思案するような声を零した。
「……オレさぁ、おにーさんを見たことある気がするんだけど……、オレたちどこかで会ったことないっすか?」
「初対面です」
「うーん、バッサリ」
ベイ・サイダーはケラケラ笑う。
それから、地面に足を着くと「で?」と携帯電話を突き出してきた。
「連絡先は?」
「――結構です」
「そっかぁ。ざぁーんねん。オレの友だち千人計画は、まだまだ遠いっすねぇ。……まっ、いいや。それなら、次会えたら教えもらうっつーことで」
「……はぁ? 次なんて」
ない。
そう続けそうだった縁の考えを読んだように、ベイ・サイダーはニヤリと笑う。
「狭い島だし、分かんないっすよ~? ……それに、オレ予感するんっすよね~? おにーさんとは、また会うって」
だって、とベイ・サイダーはそこで言葉を切った。
「今、運命感じてるから」
その時、陽差しの関係だろうか――ベイ・サイダーの左目が一瞬だけ、青く見えた。
(あれ?)
気のせいかと思う縁に対し、ベイ・サイダーはなにを納得したのかひとり頷く。
「オッケーオッケー。それじゃまたね、おにーさん。――約束っすよ~?」
そんな挨拶を残し、ベイ・サイダーは去って行った。
強引さに呆気にとられた縁だが――どうせ自分の滞在は一日だ。よほどのことがなければ会うこともないだろうと、もう忘れることにした。
「……さて」
ひとりになって、改めて港をぐるりと見回してみる。
海の匂いと波の音、それから鳥の鳴き声も聞こえる。漁船がとってきた魚を狙っているのかも知れない。
(まぁ、こんなものか……)
見回しても、そんなありふれた感想しか浮かばない。少しくらい懐かしいなんて気持ちになるかと思ったが……。
「――行くか」
用を済ませて帰ろう。
ここには、区切りをつけにきただけなのだから。
縁は、父の実家……間家に向かって歩き出した。




