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三話


 床を滑った小さな石は、縁の足もとで止まる。

 縁が拾って手渡そうとすると、春菜が床を這うようにして縁の元へよってきており「触るな!」という金切り声とともに石を奪い取られる。

 そして春菜は「……洗い流さないと」とブツブツ呟いて、手にしていたペットボトルの水を石にかけた。


「穢れは洗い流さないと。あぁ、ごめんね、ごめんね。怖かったね。でも大丈夫、もうすぐだからね。もうすぐ呼ばれるから――」


 それまでの敵意に満ちた眼差しとは打って変わって、慈愛に満ちた視線を水で濡らす石に向けている。

 異様な姿に、縁はなにも言えずにいると夫が春菜の肩をそっと引き寄せた。


「妻が申し訳ありません。……春菜、少し落ち着いて……そうだ。外の空気を吸ってこよう?」

「あぁ、そうね。この子がびっくりしてしまうものね」


 夫婦の会話は、成立しているようでどこかズレている。けれども夫は気にせず妻の肩を抱き、妻はいそいそと濡れた石を真っ白なハンカチで包んでいる。

 ふたり――夫がぺこりと縁たちに頭を下げると、そのまま甲板へと出て行った。


 残された乗客たちの間に、沈黙が流れる。


「……あれは、かえり様の赤石」

「かえり様って、糸布狭島の奇跡と呼ばれている方ですよね?」


沈黙を破ったのは鉤路の独り言だった。思わずといった風に気が強そうな女が口を挟むと、彼は頷いて話し始める。


「正確には、糸布狭島の新しい奇跡だね。神の力で支えられていたあの島は、当然災害すら起こらなかった。だからこそ、奇跡だったんだ。けれど、十四年前に土砂災害が起きたんだよ」

「……十四年前?」


 思わず反応してしまう縁だったが、不自然には映らなかったようで鉤路はこくりと頷いた。


「そうさ。十四年前、島の禁足地とされる山で土砂災害が起きたんだよ。それは島に根付く古い血筋でね、いうなれば有力者……あの島の風習に基づけば代行者一族が管理する山だったんだ。そんな場所で起きた土砂災害だったから、人的被害は少なかったけど代行者の血筋に対する神聖性は揺らいでしまっただろうね。長くあの島で暮らしている人ほど、その衝撃は大きかっただろうし」


 あの時までは、一度も災害が起きたことがなかった。

 では、なぜあの時だったのか。

 そんなことを考えても、仕方がない。だが、こうして話を聞くと思わずにはいられない。

 

(なんで、あの時……――)


 思い出しそうになり、記憶に霞がかかる。ずきっと、頭が痛んだ。無意識に縁は米神を抑える。鉤路の話はまだ続いているようで、蕩々と語る声が聞こえる。


「けれど、その懸念はすぐに払拭されたのさ。その家は新しい奇跡を生み出していたからね。奇跡の体現者。神子。外ではそういう風にも呼ばれているね。彼女のおかげで、病気が治った、歩けるようになったなんて噂もあるくらいだ。医者もさじを投げた人たちを助けたんだから、奇跡の人と呼ばれるのも当然だろうね」

「おっ! あれっすよね! 糸布狭島関係で有名なネタ! 十四年前の土砂災害で唯一生き残った奇跡の子! 本人は生き埋めになったことで神様と会って、奇跡の力に目覚めたっていう!」


 ベイ・サイダーの賑やかな声が混じった。


「そう。代行者の血筋が生んだ、新しい奇跡。数々の偉業から、彼女は糸布狭島の伝承にあやかって、こう呼ばれてるんだよ――死を越えて帰ってきた人、かえり様って」


 鉤路の声に、先ほどまでとは違う熱っぽさが混じっている気がした。

 おや、と思ったのは縁が頭痛のせいで目を閉じて声だけを聞いていたからか。

 現に、鉤路と話しているベイ・サイダーは、その変化を感じ取らなかったようでそのまま話を続けている。


「なんかガン患者を治したとか、失明した人を治したとか、すごい話がたくさんある人っすよね? 政財界でも、超大物が助けてもらったとか。でも、表舞台には出てこないから謎のベールに包まれてるって」

「そうなんだよ!」


 一際、鉤路の声が弾んだ。


「かえり様は、本当に素晴らしいかたなのさ! 先ほどの彼女が持っている石を見ただろう? あれは特別な石でね、選ばれた者にだけ与えられる石なのさ。かくゆう私も、彼女に石を授かった身でね。糸布狭島の伝承に傾倒したのも、かえり様という存在のおかげなのさ」


 熱に浮かされたような鉤路に、誰も口を挟めない。


「でも、彼女のあれはいただけないね。石は穢れてはならない。穢れにふれさせないのが一番なのに、あんな風に剥き出しにしているなんて……彼女はあの価値が分かっていない。私のほうが、よっぽど……」

「……鉤路さん?」


 ぶつぶつと自分の世界に入り込みかけている鉤路に声をかけると、彼はパッと顔を上げて、さきほどまでのように人がよさそうな笑みを浮かべた。


「あぁ、すまない。……というわけだから、きみもあまり気にしないほうがいいよ。石を拾ってあげたのに、あんな対応されて腹立たしかっただろうが……彼女のように、自分のうかつさを人のせいにして、自分を良く見せようとする者はいるんだ。そうすることで、かえり様によくやっているとアピールするつもりだろうが、彼女はそんな汚い心根まで見抜いているからこそ、穢れや邪を洗い流せとおっしゃるのさ」

「は、はぁ……」


 人の良さそうな中年――当初の鉤路に抱いた印象だ。

 だが今、彼の笑顔を見ても、もうそんな印象は持てなかった。

 

(なんていうか、怖い)


 かえり様という人の熱烈なファン。

 いや、これはまるで。


「すげー信者っぷりっすね」


 縁が思っていたことを、口に出したのはベイ・サイダーだった。

 

「かえり様って、実在しないんじゃないかとか言われてて、ネットの暇人が作り上げた虚構とか、島の客寄せに作られた二次元の存在とかいわれてるんすけど」

「ちょ、ベイ・サイダーさん……」

「そんなんじゃないよ。かえり様は実在する。そして表舞台に出ないのは、金銭目的で動いているわけではないからさ。彼女は、自分が一度死を経験し、それを越えたからこそ、人々を救うために行動しているんだ。本当に救いを求める人こそを救いたいから、人を集める活動は必要ない――分かるかい?」


 身を乗り出す鉤路に、でもなぁとまだなにか言いたげなベイ・サイダー。

 ふたりに挟まれた縁は「まぁまぁ」と両者をなだめるしか出来ない。


「それにね、かえり様は糸布狭島にとって特別なんだ。新しい奇跡の始まりだからね。島で大切にされているからこそ、メディアにも出ない。彼女を煩わせてはならないからね。……だいたい今年の秘祭は、かえり様が執り行うと言われているんだよ。これまでは一族の長としてお祖父様がやっていたそうだが年も年だからね。久方ぶりに行われる、糸布狭島の秘祭――今年は代替わりの儀式でもあるんだ。僕はね、出来たらその手伝いをしたいんだ。祭りをこの目でみたいというのもあるけれどね、なにより、僕を救ってくれるあの方のお役に立ちたいんだ」


 噛み合っているようで噛み合っていない。

 かえり様がどれだけ素晴らしいか熱弁したいだけの鉤路は、ぐいぐいと身を乗り出してくる。


「うへぇ、もう腹一杯っす」


とうとう立ち上がり距離を詰めようとする鉤路から、ささっと逃げようとするベイ・サイダー。

 ふたりの間に挟まれていた縁も、圧迫感を覚えるほど詰めてきた鉤路から逃げようと腰を浮かせていた。

運悪く、鉤路が縁にぶつかる。体勢を崩した縁はベイ・サイダーにぶつかる。


「あ」


 ベイ・サイダーの声がして、ゴチッという固い物が衝突する音がした。

 瞬間、電気を消したかのように視界が真っ暗になった。

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