其の肆
山は人間に呼吸をしていることを教えてくれる。深い緑は自ら呼吸することで、吸っては吐くという本能以前にある、息をするという作業を認識させる。身体は空気を求め、気持ちは命を求める。気づくと深めの呼吸をしている自分がいる。
おりんを探しに出たトオルが玄関でその姿を見つけたのは背後の山にまだ陽の光が残る早い夕刻だった。
おりんは高校時代のジャージーの上下を来て、背負った背負子にに鍬を入れている。首に巻いた手拭に違和感のない山の娘になっていた。
時間は遅いが、筍を掘りに行くだと言う。
「晩ごはんの材料です」
元々の姿に戻っただけのことなのだろうが、怖いくらいに似合っている。
山の娘・おりんは、意識することもなくごく自然に呼吸しながら、軍手をした手で、うっそうと茂った竹藪の方向を示した。
「ねえ、村のことを良く知っている人って誰?」
「そんな、急に聞かれても……」
「じゃあ、古い人は」
「みんな年寄りですからね。若い人はみんな他所に行ってますから。うちのお父さんが一番若いくらいなんです」
おりんはしばらく考えていたが、
「監物のお爺ちゃんかな。私が子どものころからお爺ちゃんだったから、もう何十年もお爺ちゃんをやっているはずです」
何ともおりんらしい表現だ。
案内をすると言う。
引き合わされた老人は、小柄だが、今風の柄のカーディガンを着こなしていた。耳から伸びた白い毛にいかにも物知りといった風情がある。
「村の昔のこと?あんまり知りませんよ」
通された部屋の壁に鷺の古い絵が飾られている。
「サギですか?」
部屋の中を確かめるような視線で見回してから、ウマが聞いた。
「ええ、この地方では夜ガラスとも呼ばれています」
「古いものらしいですね」
「私が子供の頃からあります」
「村も、随分古くからあるようですけど」
ウマが丁寧な口調になっている。取材をする時の記者のような口調だ。
「そうですね、平安時代からあるという学者もいました」
「何か伝聞以外のものは残っていないのですか?」
「それがですね……」
老人は思い出すようにゆっくりと話を始めた。
戦国時代や幕末、そして終戦の時など、時代が大きく動いた時に必ず登場するのが隠し財産、つまり埋蔵金だ。その伝聞とも呼べる頼りないものがひょっこりと頭をもたげることがある。この村もまた例外ではなかったと老人は言う。
「明治の頃にお宝探しが始まって、探しても何も出なかったことに腹を立てた連中が家々に火を掛けました。その時にうちの土蔵も燃えてしまったそうです。古文書のたぐいなんかもあったはずだったのにと祖父が言っておりました」
ウマが謝辞を言って老人のもとを辞した。
横顔が新聞記者のものになっている。好奇心をくすぐられることを楽しんでいるかのようだ。
「ケンモツか」
ウマが納得顔になった。
「それがどうしたの?」
ウマの少し前を歩いていたトオルが立ち止まり、振り返って聞いた。
「監物は宮中の金品の出納係りで、蔵の鍵の番人の役職が元になっていると思うんだ。あのサギの絵は五位鷺、醍醐天皇に正五位を与えられたといういわれがあるんだ。村の姓は昔の役職を連想させるものが多いよな。大善は本来は工事より料理の担当だが、揉め事を解決する長ケ部は刑部だとも思えるんだ。名字帯刀を許されて名前を付ける時に多少は意識して、その役職を残した名字にしたんじゃないのかな。それだけ、やっぱりこの村が古いということだ」
「でもウマさん、何故そんなに名字に詳しいの?」
「これか。これは俺がまだ駆け出しのブンヤだった時に先輩に仕込まれたことで、取材相手との会話に困った時は名字の話を持ち出す。名前には必ずいわくがあるし、本人も興味を持っている。会話の糸口になるから覚えろと言われたんだ」
「取材の方法のひとつなわけだ」
「そうだ、例えばボン、お前の橘も、さかのぼれば木曽義仲あたりに行きつくんだ。親父さんの形見のあの鉄扇は先祖伝来の物だそうだけど、調べればいわれのあるものかもな」
「ふうん、本当だ、いま、すごく自分の名前のことが気になってる」
「だろう、しかし俺の新井は特には何もないんだなあ。まあ、朝鮮半島が始まりだってことぐらいかな」
ウマの智識は広く浅い。
世の中の大抵のことは知っているのだが、ただ常識という分野だけは強くないのだ。
おりんの家に戻ると、父親の悦男が包丁を握って台所にいた。
昨夜もそうだったが、客人をもてなす料理は男の仕事と決まっているらしい。あと一時間待ってくれと真剣な眼差しをまないたの上に落としていた。
犬養がどこかに出かけていて留守だから、肉はない、と残念そうにしていた。
「ねえ、あの連中、やるとしたら、いつやるかなあ」
食事の支度が整うのを待ちながら、トオルがウマにぼんやりと言う。
「お前が言ってただろう、土日だから二日間あるってさ。良い読みだと思うぞ。今晩は何もせずにおとなしくしているだろう。そして明日一日かけて祠以外の所を探す。何も無ければ翌日の朝に祠の爆破だ。これで決まりだな」
「なにさ、今晩は大丈夫だからって、また飲むつもりでしょう」
「そうだ、悪いか。心配ならお前が見張りをしていろ」
しかし、トオルもウマの考えに賛成だった。
夜の食卓に筍のさしみがのった。
「掘ってから一、二時間ですよ、さしみが楽しめるのは」
悦男に勧められて口に運んだ筍のさしみは、えぐみも香りも想像した通りで、ただそのどちらも限りなく希薄だというだけのものだった。竹の根とも思えるものを生で食べようとした人間はどんな顔をしていたのか、その興味の方がトオルの中に湧いていた。




