【後日談】取れる奴が取る、と言った男と、つまんないと言った女のその後 〜経理の僕は、最後の入金を確認しました〜
一 黒川
地方都市の、雑居ビルの三階。
事務機器のリース会社で、黒川は歩合制の営業をしていた。固定給はほとんどない。売れなければ、そのまま収入ゼロだ。
元妻への慰謝料。前の会社への返還金と損害賠償。毎月の振込額を差し引くと、手元に残るのは家賃とコンビニ弁当の代金くらいだった。
その夜、安アパートでスマホを眺めていた黒川は、業界ニュースサイトの小さな記事に目を留めた。
**〈前職の会社〉内部統制を強化、経費精算の不正検知で社内表彰**
記事に添えられた写真の端に、見覚えのある顔が写っていた。
佐伯湊。肩書きは「経理部 主任」。
「……ふざけんなよ」
缶チューハイを握り潰した。
俺の人生を壊した男が、それを手柄にして出世している。許せるわけがない。
黒川は転職口コミサイトを開き、前の会社のページに書き込んだ。
**「経理部に、私怨で社員を陥れる人間がいる。婚約者を取られた逆恨みで、営業のエースを経費の言いがかりで追い出した。この会社の経理は腐っている」**
投稿ボタンを押して、黒川は久しぶりに笑った。
――それが、自分の首を絞める最後の一押しになるとは、思いもせずに。
二週間後。黒川の元に、一通の内容証明郵便が届いた。
差出人は、前の会社の顧問弁護士事務所だった。
**貴殿が投稿された口コミについて、現在、発信者情報開示請求の手続きを進めております。なお、投稿内容は当社の非公開議事録における貴殿の発言と完全に一致しており、名誉毀損および秘密保持義務違反に基づく損害賠償として――**
口コミサイトの書き込みは、内容が具体的すぎた。「婚約者を取られた逆恨み」。そんな話を知っているのは、あの会議室にいた人間と、当事者だけだ。そして会議室での黒川の発言は、すべて議事録に残っていた。
法的な開示結果を待つまでもなく、文脈だけで特定されたのだ。「俺が相手の婚約者を取った」という二度目の自白を、今度はネットの上に晒した形で。
さらに悪いことは重なった。
翌月、黒川はリース会社でも同じことをした。取引先との「接待」を水増しして申請したのだ。どうせ小さな会社だ、誰も細かく見やしない――そう思っていた。
経理担当の年配の女性は、申請書を見て、眼鏡の奥で目を細めた。
「黒川さん。同席者の欄、空いてますね」
「細かいこと言わないでくださいよ」
「細かいのが仕事なんですよ」
彼女は、手元のファイルから一部の資料を取り出した。業界団体のコンプライアンス連絡会で共有された『架空接待・前泊不正の事例集』だった。社名こそ伏せてあったが、手口も、発覚のきっかけとなった『私的な記念日プレートの明細添付』というお粗末なミスも、研修資料としてそのまま載っていた。
「この業界、狭いんですよ」
その月の末、黒川は二度目の解雇を言い渡された。
ガランとしたアパートで、黒川は天井を見上げた。
仕事も、女も、取れる奴が取る。
そう言って、取れるものは全部取ってきたつもりだった。
――そして今、取れるものは全部、取られていた。
二 美咲
「美咲さん、この精算書。同席者の欄が空いてるわよ」
地元の小さな建設会社。事務員として働き始めて三か月。美咲は、経理のお局に申請書を突き返されていた。
「あ、でも、社長が書かなくていいって……」
「規定は規定。ちゃんと書いてもらってきて」
規定は規定。
その言葉を聞くたびに、胸の奥がざらりとする。
あの頃は、規定通り、規定通りと繰り返す湊を、退屈だと思っていた。黒川さんの、ルールなんて気にしない強引さが、大人の男の魅力に見えた。
その結果が、今のこれだ。
黒川さんの元奥さんへの慰謝料と式場のキャンセル料は、両親が老後のために貯めていたお金を取り崩して立て替えてくれた。湊への慰謝料だけは「自分の手で払いなさい」と突き放され、毎月、給料の大半が弁護士事務所への振込で消えていく。
父は一言も責めなかった。ただ、あれ以来、美咲と目を合わせなくなった。
大学時代の友人たちのグループLINEからは、いつの間にか外されていた。インスタの「親しい友達」に入れていた子たちが、あのストーリーのスクショを回していたのだと、後になって知った。
十二月の週末。美咲は久しぶりに、かつて湊と暮らした街に出てきた。
理由は自分でもよくわからない。ただ、駅前のイルミネーションを見たかった。少し前までは、ここで湊と式場の帰りに写真を撮っていたから。
そして――見つけてしまった。
改札の向こう。紺のコートを着た湊が、小柄な女性と並んで歩いてくる。女性が何か言うと、湊が少し困ったように笑った。
あんな顔、自分といたとき、見たことがあっただろうか。
「湊くん!」
気づいたときには、声をかけていた。
湊が足を止め、こちらを見た。一瞬だけ目が見開かれ、そして、すぐに静かな顔に戻った。
「……佐伯です」
「え……」
「ご用件があれば、弁護士の先生を通していただけますか。示談の条件に、直接の接触は控えるとありますので」
まるで、取引先に対応するような口調だった。
「ま、待って。私、ずっと後悔してて……湊くんの真面目なところ、本当は好きだったの。もう一度だけ、話を」
「申し訳ありません。それはできません」
湊は、それ以上何も言わなかった。
美咲の視線が、隣の女性に移る。二十代前半くらいの、素直そうな子だった。
気づけば、口から言葉がこぼれていた。
「……その人、すぐにつまんなくなるよ。真面目で、細かくて、規定通りしか言わないんだから」
女性は、きょとんと美咲を見た。
それから、にっこりと笑った。
「知ってます。私、そういう人が好きなんです」
迷いのない声だった。
「ルールを守れる人って、絶対に人を裏切らないので」
美咲は、何も言い返せなかった。
二人は軽く会釈をして、イルミネーションの向こうへ歩いていった。
残された美咲の前を、たくさんの恋人たちが通り過ぎていく。
――あの場所にいたのは、自分のはずだったのに。
いや、違う。自分で、手放したのだ。三か月記念日のプレートと引き換えに。
三 湊
十二月二十八日。仕事納めの日。
僕は自分の口座の入金明細を確認していた。
**振込 ベンゴシホウジン〇〇 ¥XXX,XXX**
美咲側の代理人を通じて、分割で受け取っていた慰謝料。その最後の一回だった。
僕はエクセルの管理表を開き、最後の行に日付と金額を入力した。未回収残高の欄が、ゼロになる。
ステータスの欄に、一言だけ打ち込んだ。
**処理完了**
ファイルを閉じると、胸の奥に引っかかっていた何かが、すっと抜け落ちた気がした。
怒りも、悲しみも、もう残っていない。ただ、きちんと終わらせた。それだけだ。
「佐伯さん、終わりました?」
水瀬さんが、帰り支度を済ませて僕のデスクを覗き込んだ。
「うん。今、最後の一件を処理したところ」
「よかった。じゃあ、行きましょう。予約、七時ですよね」
あの駅前の夜、美咲に何を言われても、水瀬さんは一歩も引かずに僕の隣に立ち続けてくれた。帰り道、「余計なこと言っちゃいました?」と心配そうに聞いてきた彼女に、僕は初めて、仕事以外の自分の気持ちを素直に話した。
それから、休日に二人で食事に行くようになった。
今夜の店は、駅から少し歩いた路地裏の小さなビストロだ。グランセリオの最上階ではない。夜景も見えない。でも、料理は温かくて、店主の笑顔は感じがいい。
デザートが運ばれてきたとき、僕は小さく深呼吸をした。
「水瀬さん」
「はい」
「これは、規定にはない話なんだけど」
水瀬さんが、フォークを置いた。
「僕と、ちゃんと付き合ってもらえませんか」
彼女は一瞬目を丸くして、それから、こらえきれないように笑い出した。
「佐伯さん、告白まで規定の話から入るんですか」
「……ごめん、癖で」
「いいえ」
水瀬さんは、まっすぐに僕を見た。
「私、佐伯さんのそういうところが好きなんです。だから――」
彼女は少しだけ考えて、いたずらっぽく言った。
「承認します。差し戻しなしで」
思わず、笑ってしまった。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
窓の外では、細かい雪がちらつき始めていた。
半年前のあの夜、記念日プレートの一行を見つめていた僕は、世界が終わったような気がしていた。
でも、世界は終わらなかった。
規定通りに、一枚ずつ処理していったら、ちゃんと次のページがあった。
「来年も、よろしくお願いします。佐伯さん」
「こちらこそ。……規定通り、末永く」
「それ、規定にあるんですか?」
「今、追加した」
彼女がまた笑う。
僕らの新しい一年は、たぶん、すごく真面目で、少しだけつまらなくて――そして、とても幸せなものになる。




