本文
一
金曜の午後四時。経理部のフロアには、キーボードの音と空調の低い唸りしかない。
僕、佐伯湊は、その日も営業部から上がってきた経費精算書を一枚ずつ確認していた。日付、金額、勘定科目、領収書の添付。規定に沿っているかどうか。それだけを淡々と見ていく。
営業部・黒川課長の申請は、いつも雑だ。
科目は「交際費」。摘要は「株式会社ミナモト商事 営業部長様 接待」。金額は四万八千六百円。場所は、駅前の外資系ホテル、グランセリオ最上階のフレンチ。
添付された画像を拡大する。本来なら「お食事代として」と書かれた領収書を提出すべきところを、黒川課長は誤って、内訳が印字された「会計明細」の方をそのまま撮影して添付していた。
コース料理が二名分、グラスワインが四杯。そして、最後の一行。
**記念日プレート(メッセージ:Misaki♡3months) ¥1,650**
指が止まった。
日付は六月十四日。
その夜、婚約者の美咲は「大学の友達の誕生日会があるから遅くなるね」と言って出かけていった。帰ってきたのは午前一時過ぎで、知らないボディソープの匂いがしていた。
僕はそのとき、「楽しかった?」としか聞かなかった。
美咲は笑って、こう言った。
「湊くんってほんと真面目だよね。そういうとこ、つまんないくらい」
画面の中の「Misaki」という文字を、僕はしばらく見つめていた。
世の中にミサキという名前の女性は何万人もいる。三か月記念日なんて、どこにでも転がっている。
――そう思えたら、どんなに楽だっただろう。
二
美咲とは付き合って三年、婚約して半年になる。式は来年の春。式場も決まり、招待状のデザインを先週選んだばかりだった。
そして黒川課長。三十八歳、営業部のエース。社内では「数字を持ってくる男」と呼ばれ、多少の無茶は大目に見られている。既婚者で、奥さんは元同僚だと聞いたことがある。
半年前の会社の懇親会。パートナー同伴可のその会に、僕は美咲を連れていった。黒川課長が美咲に名刺を渡し、「佐伯くんにはもったいないなあ」と笑っていたのを覚えている。
三か月前といえば、ちょうど美咲の帰りが遅くなり始めた頃だ。
僕は経理だ。感情で動く前に、数字を見る。
過去半年分、黒川課長が提出した経費精算をすべて抽出した。
グランセリオでの「接待」が十一回。うち四回は宿泊付きで、科目は「出張前泊」。合計、百三十八万二千円。
そして、その日付を手帳と照らし合わせた。
美咲が「残業」と言った日。「女子会」と言った日。「実家に寄る」と言った日。
十一回のうち、十一回が一致した。
その夜、僕はひとりで缶ビールを一本空けた。味はしなかった。
帰ってきた美咲が、「えー、湊くんが一人で飲んでるの珍しい」と隣に座った。髪から、またあの匂いがした。
「美咲さ。最近、楽しい?」
「え、なに急に。楽しいよ? 結婚の準備もあるし」
彼女は僕の肩にもたれて、スマホをいじり始めた。画面がちらりと見えた。通知のプレビュー。
**K:今日も可愛かった。次は来週の木曜な**
美咲は素早く画面を伏せた。
「……会社の人。グループLINE」
「そっか」
僕は、それ以上なにも聞かなかった。
怒鳴ることもできた。泣くこともできた。でも、そうしたところで、彼女は泣いて謝るか、逆ギレするか、どちらかだろう。そして黒川課長は、何ひとつ失わない。
だから僕は決めた。
――規定通りに、処理する。
三
月曜の朝、僕は黒川課長の精算書を差し戻した。
差戻し理由:**交際費規定第七条に基づき、同席者の氏名・所属の記載をお願いします。**
昼過ぎ、黒川課長が経理部にやってきた。周りの目も気にせず、僕のデスクに片手をつく。
「おい佐伯。なんだよこれ。今まで一回もこんなの言われたことねえぞ」
「規定ですので。これまでの確認が不十分だったことは、こちらの落ち度です。申し訳ありません」
「細かいこと言うなよ、経理さん」
黒川課長は鼻で笑い、声を落とした。
「なあ。お前んとこの婚約者も言ってたぞ。湊くんは細かくてつまんないってさ」
僕の顔を覗き込む目が、愉快そうに細められている。
知っているのだ。この男は、僕が気づいていないと思ったうえで、楽しんでいる。
「仕事も女もな、取れる奴が取るんだよ。わかる?」
僕はモニターから目を離さずに答えた。
「同席者の氏名・所属をご記入ください。規定ですので」
黒川課長は舌打ちして、その場で申請画面を開き、乱暴に打ち込んだ。
同席者:**株式会社ミナモト商事 営業部長 田島様**
「これで文句ねえだろ」
「確認いたします」
彼は肩をすくめて去っていった。
僕は申請内容を、そのまま内部監査室の小野寺室長に転送した。
ミナモト商事の田島部長。先月、先方から届く請求書の承認印が田島部長から後任の課長に変わった際、経理部宛てに「海外出向に伴う名義変更」の通達が回ってきていた。田島部長は五月末から二か月間、シンガポールの現地法人に滞在している。六月十四日に、日本のホテルでフレンチを食べられるはずがない。
転送メールには、過去半年分の一覧表と、会計明細の画像と、出張記録との突き合わせ結果を添付した。
十一回の「出張前泊」のうち、翌日に出張の記録があるのは、ゼロ回だった。
四
会社のことは会社に任せる。それとは別に、僕自身の問題がある。
僕は弁護士に相談し、紹介された調査会社に依頼した。
十日後に届いた報告書には、木曜の夜、グランセリオのエントランスに腕を組んで入っていく二人の写真が収められていた。翌朝、別々に出てくる写真も。
報告書を読み終えた僕に、弁護士の先生は静かに言った。
「婚約は法的に保護される関係です。婚約者の不貞による婚約破棄であれば、慰謝料の請求は十分に可能ですよ。式場のキャンセル料も含めて」
「お願いします。それと――」
僕は少しだけ迷ってから、言った。
「黒川さんの奥さんには、僕からは何も伝えません。ただ、事実はいずれ会社の処分という形で、ご家庭にも届くと思います」
「それで構わないでしょう。あなたは何も、余計なことをする必要はない」
そう。余計なことは、何ひとつしない。
ただ、規定通りに。
五
三週間後。本社十二階の第三会議室。
長机の片側に、人事部長、内部監査室の小野寺室長、営業本部長。そして、経費の確認担当者として僕。
向かいに、黒川課長がひとり座っていた。
小野寺室長が資料をめくる。
「黒川課長。過去半年間の交際費および出張前泊として申請された十一件、計百三十八万二千円について確認します。同席者として記載された田島部長は、該当日、シンガポールに滞在しておられました。ミナモト商事様にも確認済みです」
黒川課長の顔から、すっと血の気が引いた。
「いや、それは……記載ミスです。別の方と」
「では、どなたと?」
「それは……取引先の情報なので」
「六月十四日の明細に、記念日プレートの記載があります。『Misaki♡3months』。取引先の方の記念日でしょうか」
沈黙が落ちた。
黒川課長の視線が、ゆっくりと僕に向いた。
僕が何も言わず、ただ冷ややかに彼の目を見返すと、その目がみるみる憎悪に染まっていく。
「……佐伯、てめえか。てめえが嗅ぎ回ったんだな!」
彼は椅子を蹴るように立ち上がった。
「部長、これはこいつの私怨です! 俺がこいつの婚約者と付き合ってるから、その逆恨みで――!」
会議室の空気が、凍りついた。
人事部長がペンを止め、営業本部長が額に手を当てた。小野寺室長だけが、表情を変えずに手元の議事録に何かを書き込んだ。
僕は静かに口を開いた。
「私怨かどうかは関係ありません。申請された経費が規定に沿っているかどうか。確認したのは、それだけです」
そして、ほんの少しだけ付け加えた。
「ただ、今のご発言は、議事録に残りますね」
黒川課長は、自分が何を口走ったのかに、ようやく気づいたようだった。
口を開け、閉じ、もう一度開けて――何も言えずに、椅子に崩れ落ちた。
「仕事も女も、取れる奴が取る、でしたっけ」
僕は資料を揃えながら言った。
「会社も、取れるものは取りますよ。百三十八万二千円。規定通りに」
六
黒川課長は懲戒解雇となった。不正に受け取った経費の全額返還と、会社からの損害賠償請求付きで。
処分通知は、規定通り、自宅に郵送された。
受け取ったのは奥さんだったそうだ。通知には「架空の接待を装った私的な飲食・宿泊」と明記されていた。奥さんが興信所を雇うまでに、一週間もかからなかったらしい。
その間に、僕は美咲と向き合った。
日曜の夜、リビングのテーブルに、一通の封筒を置いた。
「なにこれ。招待状の見本?」
中身を取り出した美咲の手が、震え始めた。
婚約破棄の通知書。慰謝料の請求書。式場のキャンセル料の負担についての書面。そして、グランセリオのエントランスで腕を組む二人の写真。
「ち、違うの、湊くん。これは、黒川さんが無理やり……っ、私、断れなくて」
僕はスマホの画面を彼女に向けた。
美咲自身のインスタグラム、親しい友達限定のストーリー。そのスクリーンショット。夜景を背にしたデザートプレートに、チョコレートの文字。
**Misaki♡3months**
添えられた言葉は「大人の恋って最高♡」。
共通の友人が、見ていられないと言って送ってくれたものだった。
「…………」
美咲は唇を噛み、やがて、すがるような目で僕を見上げた。
「ねえ、湊くん。湊くんは優しいから……許してくれるよね? 私、本当に湊くんのことが一番なの。黒川さんとは、ちょっと魔が差しただけで」
三年間、僕はこの目に弱かった。
でも、今は不思議なくらい、何も感じなかった。
「美咲。僕はさ、真面目でつまんない人間なんだよ。美咲がずっと言ってた通り」
「そ、それは冗談で……」
「冗談でも、ルール違反を見過ごせるほど器用じゃないんだ。――だから、規定通りに処理するね」
僕は通知書の、署名欄を指差した。
「慰謝料の金額と支払い方法は、そこに書いてある通り。異議があるなら、弁護士の先生に連絡して。荷物は来週の土曜までにまとめてくれると助かる」
「待って、湊くん、待ってよ――!」
僕は立ち上がり、左手の薬指からペアリングを抜いて、テーブルの空のトレイに置いた。
「出ていくとき、君に渡していた合鍵もそこに置いていってくれ」
七(後日談)
それから半年が経った。
黒川さんは離婚した。奥さんへの慰謝料と、会社への返還金と、損害賠償。退職金はもちろん出ない。
業界は狭い。「経費を使い込んで不倫相手とホテルに通い、会議室で自白した男」の話は、取引先のあいだにあっという間に広まった。今は地方の小さな会社で、歩合制の営業をしていると聞いた。
美咲は、僕への慰謝料に加えて、黒川さんの元奥さんからも慰謝料を請求された。「既婚者と知っていた」ことは、本人のLINEで証明されてしまったらしい。
二人分の慰謝料と、式場のキャンセル料。とても一人で払える額ではなく、ご両親が肩代わりしたそうだ。勤めていた会社には居づらくなって辞め、今は実家に戻っているという。
一度だけ、知らないアカウントからメッセージが届いた。
**あの頃に戻りたい。湊くんの真面目なところ、本当は好きだった。**
僕は既読をつけないまま、そのアカウントをブロックした。
戻る場所はない。戻りたい理由も、もうない。
月曜の午後四時。経理部のフロア。
「佐伯さん、この精算書なんですけど」
今年配属された後輩の水瀬さんが、遠慮がちにモニターを指差した。
「同席者の欄、空いてるので差し戻していいですか? ……細かすぎますかね」
僕は少しだけ笑った。
「いいと思うよ。細かいのが、僕らの仕事だから」
「ですよね! 私、佐伯さんのそういうところ、すごく尊敬してるんです。真面目で、ぶれないところ」
まっすぐな目でそう言われて、僕は言葉に詰まった。
真面目でつまんない。そう言われ続けた三年間が、ほんの少しだけ、報われた気がした。
「……ありがとう。じゃあ、それ、規定通りに処理しようか」
「はい、規定通りに!」
窓の外では、冬の夕日がビルの谷間に沈んでいくところだった。
今日も僕は、数字を一枚ずつ確認していく。
――規定通りに。




