第四章 涙の聖女
次の開廷は、翌々日に行われることになった。
謁見の間には、また同じ顔ぶれが揃っている。
国王陛下、記録係の文官たち、レオン様、アリア様。
そして王家の鏡越しに、全国の視聴者たち。
前回の一件で、会場の空気は明らかに変わりつつあった。
けれど、まだ潮目が完全に変わったわけではない。
一度傾いた印象は、そう簡単には戻らない。
私はそのことを、これまでの人生でよく知っている。
国王陛下が、開廷を告げる。
「では、階段の一件について、引き続き確認を行う」
私は、静かに問いを重ねる。
「先ほど頂いた日付についても、念のため確認させていただきます」
「その日、他にご覧になった方はいらっしゃいましたか」
アリア様の肩が、びくりと震える。
一拍置いて、俯いたまま答える。
「……分かりません」
声が、次第に震え始める。
「あの日のことを思い出そうとすると、怖くて……」
そう言うなり、両手で顔を覆い、肩を大きく震わせて泣き崩れる。
「怖くて、思い出せません……」
涙声が、謁見の間に響き渡る。
その様子に、周囲の空気が、また少しずつ和らいでいくのが分かる。
貴族の何人かが、痛ましそうな顔で彼女を見つめている。
王妃マリア様も、思わずといった様子で一歩前に出かける。
国王陛下でさえ、わずかに表情を緩める。
先ほどまでの疑念が、涙の前で少しずつ薄れていくのが分かる。
全国の視聴者たちも、同じように心を動かされているのかもしれない。
傷ついた少女を、これ以上追い詰めるべきではないと。
そんな空気が、会場全体を包み始めている。
けれど、私はここで止まるわけにはいかない。
涙は、事実を覆い隠す盾にはならない。
感情に流されれば、真実は永遠に埋もれたままになる。
本当に怖くて思い出せないのだとしたら、それは同情に値する。
けれど、もしこの涙が計算されたものだとしたら、見過ごすわけにはいかない。
どちらであるかを確かめる方法は、ただ一つ。
事実を積み重ねていくことだけだ。
私は静かに、けれどはっきりと告げる。
「では、次の事件についてお伺いします」
会場に、小さな驚きが広がる。
涙する少女を前に、容赦なく話を進める私の態度に、冷たいと感じた者もいるだろう。
それでも構わない。
今、優先すべきは、印象ではなく真実だ。
国王陛下も、一瞬の逡巡の後、静かに頷く。
「よかろう。次の証言に移る」
アリア様は、涙を拭いながら、毒を盛られたという件について改めて語り始める。
内容は、以前と大きく変わらない。
お茶会の席で、飲み物に何かを混ぜられ、喉が焼けるように痛んだという証言だ。
私は、静かに一歩前へ出る。
「この件について、証人をお呼びしたいと思います」
国王陛下が、許可を与える。
衛兵に案内され、一人の初老の男性が謁見の間へ入ってくる。
神殿付きの薬師だ。
長年、教会に出入りする薬草や毒物の管理を任されてきた人物だと聞いている。
白髪交じりの髪と、深く刻まれた皺が、積み重ねてきた年月を物語っている。
緊張した面持ちながらも、その目には誤魔化しのない実直さが見える。
私は、静かに問いかける。
「神殿には、喉を焼くような痛みを引き起こす毒が、保管されているのでしょうか」
薬師は、少し考えるように間を置いてから答える。
「そのような症状を起こす毒は、私の知る限り存在しません」
会場に、はっきりとしたどよめきが走る。
薬師は、さらに続ける。
「神殿で扱う薬草の中に、喉を焼くほどの強い刺激を持つものはございません」
「もしそのような症状が本当にあったのなら、別の原因を疑うべきかと存じます」
アリア様の顔が、わずかに強張る。
私は、さらに問いを重ねる。
「では、アリア様が体調を崩されたという記録は、神殿に残っておりますでしょうか」
薬師は、静かに首を振る。
「私の記憶にも、記録にも、そのような報告はございません」
私はさらに尋ねる。
「もし本当に喉を痛めるほどの何かを口にしたのであれば、どのような手当てが必要でしょうか」
薬師は、少し考えてから答える。
「症状の重さにもよりますが、通常であれば、すぐに治療の記録が残るはずです」
「それがないということは……」
そこで言葉を濁すが、続きは誰の耳にも明らかだった。
会場が、再びざわめき始める。
先ほどまでの同情の空気が、少しずつ違う色を帯びていく。
全国のコメント欄にも、きっと戸惑いの声が広がっているはずだ。
「また嘘?」
「なんか怪しいぞ」
そんな言葉が、画面の端々に浮かんでは消えていく様子が、目に浮かぶようだった。
先ほどまで彼女に同情していた者たちの中にも、疑いの目を向け始める者が出てきているに違いない。
いつも手のひらを返す酒場のおじさんも、今度ばかりは最初から怪しいと言い張っているかもしれない。
パン屋のおばさんでさえ、さすがに黙り込んでいる頃だろうか。
レオン様は、戸惑いを隠せない様子で、アリア様と薬師を交互に見つめている。
アリア様は、震える声で反論を試みる。
「そんな……薬師様が、ご存じないだけかもしれません」
その言葉に、薬師は静かに、けれどきっぱりと答える。
「三十年、この神殿で薬草を扱ってまいりました」
「知らぬものがあるとして、それを入手の痕跡も残さずに手に入れるなどとてもではないですが不可能でしょう」
会場が、しんと静まり返る。
誰も、その言葉に反論できずにいる。
私は、静かに記録へ書き加える。
毒の存在自体が、そもそも証明されていない。
これで、二つ目の綻びが明らかになった。
宰相グレゴール様の表情は、相変わらず動かない。
けれど、その沈黙が、これまで以上に重く感じられる。
この裁判が始まってから、彼が驚いた顔を見せたことは一度もない。
まるで、すべての結末をすでに知っているかのようだった。
会場の隅に控えるアルフレッド様と、一瞬だけ目が合う。
小さく頷くその仕草に、確かな意味が込められている気がした。
彼はきっと、宰相の周辺についても、静かに調べを進めているのだろう。
国王陛下が、重い声で告げる。
「この件については、追って神殿にも確認を行う」
アリア様は、もう涙を流す余裕さえないように見える。
ただ、俯いたまま、小さく肩を震わせている。
会場を包む空気は、確実に変わり始めている。
疑念は、もう無視できないほどの重さを持ち始めている。
それでも、まだ気を緩めるわけにはいかない。
残る証言は、教会での暴言の一件だけだ。
そこにもきっと、同じような綻びが隠れているはずだ。
この裁判が始まってから、私はまだ一度も声を荒げていない。
叫びたい夜も、涙を流したい瞬間も、正直なところなかったわけではない。
それでも、感情を抑え続けたことが、今こうして少しずつ実を結び始めている。
国王陛下が、本日の閉廷を告げる。
会場を出ながら、私はリズにそっと囁く。
「次で、最後の一件ね」
「はい。あと少しです、セリーヌ様」
短い言葉に、確かな力をもらう。
廊下に出ると、夜風が頬を撫でていく。
冷たいはずのその風が、今はどこか心地よく感じられた。
真実は、少しずつだが、確実に姿を現し始めている。




