第十八章 新しい王国
事件から、半年の月日が流れた。
王都の空気は、あの騒動が嘘のように、穏やかさを取り戻しつつある。
国王陛下は、あの一件を教訓に、いくつもの改革に着手していた。
公開裁判制度の正式な整備。
王家配信における透明性の徹底。
神殿の運営体制の見直し。
そして、貴族に対する監査制度の新設。
そのどれもが、私が国王陛下に提案したものだった。
婚約者という立場を失った今も、私は公爵令嬢として、これらの改革を支える役目を担っている。
かつて「完璧すぎて怖い」と囁かれていた私の評判も、今ではずいぶんと変わったように思う。
街を歩けば、以前とは違う温かい視線を向けられることが、少しずつ増えていた。
レオン様は、王族としての籍を残しながらも、今は静かに領地の管理を学んでいるのだと聞く。
時折届くその近況に、複雑な感情を抱くこともある。
それでも、もう振り返る時間は、そう多くはない。
ある日の午後、王城の一室に隣国からの正式な使者が到着したという知らせが届く。
応接の間に案内されたその人物は、私と同じ年頃の、穏やかな雰囲気をまとった青年だった。
隣国の第二王子、クリストファー様。
あの裁判の一部始終を、外交の場から見守っていたのだという。
窓から差し込む午後の光が、彼の柔らかな表情を静かに照らしている。
彼は、丁寧な礼をした後、静かに口を開く。
「初めまして、セリーヌ嬢」
「クリストファーと申します」
私も、静かに礼を返す。
「セリーヌ・フォン・アシュクロフトと申します。ようこそいらっしゃいました」
形式的な挨拶が済んだ後、彼は少し躊躇うような間を置いてから、続けて言う。
「不躾ながら、一つだけお伝えしたいことがございます」
私は、静かに耳を傾ける。
「私は、あなたの美しさではなく、あなたが真実を貫いた姿に惹かれました」
その言葉に、思わず息を呑む。
これまで、政治的な利益を目的とした求婚や賛辞なら、数え切れないほど受けてきた。
けれど、これほどまっすぐに、人柄そのものを見て告げられた言葉は、初めてだった。
「あの裁判の間、あなたは一度も声を荒げず、ただ事実だけを積み重ねておられました」
「その姿勢に、心から敬意を抱いたのです」
彼の言葉には、駆け引きも、計算もない、まっすぐな響きがあった。
私は、しばらくの間、言葉を選ぶように黙り込む。
かつてのように、すぐに心を許すことは、もうできない。
それでも、この人の言葉には、不思議と誠実さが滲んでいるように感じられた。
私は、静かに答える。
「お言葉、嬉しく思います」
「ですが、まずは、お互いを知るところから始めましょう」
慎重な、けれど拒絶ではない返答に、クリストファー様は、少し驚いたような顔をした後、柔らかく微笑む。
「ええ、もちろんです」
「時間をかけて、あなたという方を、少しずつ知っていきたいと思います」
その日から、私たちの穏やかな交流が始まった。
彼は月に一度ほどの頻度で、王都を訪れるようになる。
時には、改革についての意見を交わし、時には、他愛のない話をして過ごす。
急かすことなく、けれど確かな誠実さを持って、彼は少しずつ、私との距離を縮めていった。
ある時、庭園を散策しながら、彼がふと尋ねたことがある。
「セリーヌ嬢は、あの裁判の間、恐ろしくなかったのですか」
私は、少し考えてから答える。
「恐ろしくなかった、と言えば嘘になります」
「それでも、真実から目を逸らす方が、もっと恐ろしいと思ったのです」
クリストファー様は、静かに、けれど深く頷く。
「その強さこそが、あなたの魅力なのでしょうね」
そう言って、柔らかく微笑む彼の横顔を、私は静かに見つめる。
リズは、そんな私たちの様子を見て、嬉しそうに目を輝かせている。
「セリーヌ様、クリストファー様、とても素敵な方ですね」
その言葉に、私は静かに微笑むだけだった。
焦る必要は、もうどこにもない。
かつての婚約は、他者の思惑によって、あまりに性急に、そして残酷に壊された。
だからこそ今度は、自分自身の意志で、少しずつ、確かな関係を築いていきたいと思う。
窓の外には、穏やかな風が吹いている。
新しい季節が、静かに、この国に訪れようとしていた。
そんな穏やかな日々の中、ふと耳に入ってきたのが、アリア様のその後の話だった。
判決から半年。
彼女は命じられた通り神殿からの追放後、王都の片隅で一年間の清掃奉仕を続けているという。
しかし、あの判決の日に王家の鏡を通じて全国に配信された失禁の一部始終は、今も人々の記憶に鮮明に残っていた。
清掃の現場で彼女が姿を見せるたび、周囲から容赦ない囁きが飛ぶ。
「ほら、あの時公衆の面前で漏らした聖女だ」
「判決聞いた瞬間に膝から崩れて、床をびしょびしょにしてたよな」
「今も掃除してるけど、また漏らすんじゃないかって見てるやついるらしいぞ」
アリア様は俯いたまま箒を握り、何も言い返せない。
かつて聖女として崇められた自分が、今は「公開お漏らし聖女」として笑いものにされている。
その屈辱は、日々彼女を静かに蝕んでいた。
さらに、より深い傷となったのが、孤児院時代のことで暴露された過去のおねしょ癖だった。
実は――あれは過去の話だけではなかったらしい。
リズが慎重に集めた情報によれば、アリア様は今でも時折、夜尿をしてしまうのだという。
神殿にいた頃は、誰にも知られぬよう、赤子がつけるような厚手の下着を密かに着用し、寝具を汚すことを防いでいた。
購入も人目を忍んで行い、朝になれば自分で処理して痕跡を消していた。
聖女という立場が、その秘密を守る盾になっていたのだ。
しかし神殿を追放され、悪い意味で注目を集める身になってからは、事情が一変した。
人目を忍んで特別な下着を買うことすら難しくなり、やがて手元の在庫も尽きる。
結果として、夜になると再びシーツを濡らすことが増えていった。
清掃奉仕で与えられた粗末な宿舎で、朝になると濡れたシーツを隠そうとする彼女の姿が、やがて周囲の目に触れる。
「また漏らしたらしいぞ」
「子供の頃に治ったんじゃなくて、今も続いてたのか」
「赤子みたいな下着つけて隠してたんだって。バレてから買えなくなって、またシーツびしょびしょだそうだ」
「公開で漏らした挙句、夜も漏らすとか……完全に幼児だな」
嘲りの声は、以前よりさらに露骨で残酷になった。
アリア様は顔を真っ赤にして否定しようとしても、「また嘘をついている」と笑われるだけだった。
過去に他人に擦り付けていた癖まで蒸し返され、彼女はますます孤立していく。
清掃の合間に小さく肩を震わせ、一人でシーツを洗う姿が、何度も目撃されたという。
そんな彼女を、しかし、静かに見守る人物がいた。
三十手前の、伯爵家の次男――アルベルト・フォン・クライネという男性だった。
彼は裁判の一部始終を見て以来、アリア様のことを気にかけていたらしい。
罪を犯した過去も、公開での失禁も、幼い頃から続く夜尿の癖も、赤子のような下着で隠していた事実も、すべて知った上で、なお彼女を見捨てなかった。
ある夕暮れ、清掃を終えたアリア様が宿舎の前で立ち尽くしているところへ、彼はそっと近づいたという。
アリア様は反射的に身構え、俯いた。
「……また、笑いに来たのですか」
アルベルト様は首を横に振り、静かに、しかしはっきりと言った。
「笑いになど来ていない」
「君の過去も、罪も、あの日の公開でのことにも、夜の失敗が今も続いていることも、全部知っている」
「赤子のような下着で隠していたことだって、聞いている」
アリア様の顔が、羞恥で真っ赤に染まった。
「……それで、何を……これ以上、何を馬鹿にすれば気が済むのですか」
アルベルト様は、彼女の目をまっすぐに見据えた。
「馬鹿になどしていない」
「例え罪の過去があろうが、幼い失敗を繰り返そうが、僕は君を可愛いと思う」
「弱いところも、隠そうとして空回りするところも、全部含めてだ」
「だから――結婚しよう」
アリア様は、その場で言葉を失ったという。
信じられないという顔で彼を見上げ、何度も首を振った。
「……そんな……私のような人間を……? 人前で漏らして、今も夜尿が治らず、シーツを汚すような女を……?」
「ああ。そういう君がいい」
「もう一人で抱え込まなくていい。僕が隣にいる」
その言葉に、アリア様は久しぶりに、誰かの前で大粒の涙を流したそうだ。
かつて同情を誘うために流していた涙とは違う、本物の、安堵と羞恥と小さな希望が混じった涙だったという。
結局、彼女は頷いた。
散々な騒動を起こし、聖女の座を失い、公開で恥を晒し、今も幼い癖に苦しむ身でありながら、アリア様はこうして、自分をありのまま受け入れる男性の手を取った。
伯爵家の次男との結婚が決まり、清掃奉仕の残り期間を終えた後、静かに領地へ移る予定だと聞く。
王都ではまだ「公開お漏らし聖女」として噂されることもあるが、彼女自身は少しずつ、新しい生活に歩み始めているらしい。
その話をリズから聞いたとき、私は思わず小さく息を吐いた。
「全く……アリア様も逞しい方です。もう問題を起こさなければ良いのですが……」
軽くそう流すと、リズは苦笑した。
「セリーヌ様らしい反応ですね」
私は窓の外に目をやる。
新しい王国は、確かに少しずつ形を変えつつある。
真実を貫いた者も、過ちを犯した者も、それぞれの場所で、それぞれの答えを見つけようとしている。
アリア様が結局幸せを掴んだという事実は、奇妙なほどに、この国の今を象徴しているようにも思えた。
クリストファー様との穏やかな交流を続けながら、私は静かに、これからの道を歩んでいこうと思う。
かつての傷は、もう私を縛らない。
新しい季節の風が、優しく頬を撫でていった。




