第十七章 王子への裁き
宰相グレゴール様の拘束から一週間後、すべての審議が正式に終了したことが告げられる。
そして、判決の日が訪れる。
王城の大広間には、あの舞踏会の夜と同じように、多くの人々が集められていた。
けれど、その空気は、あの夜とはまったく違うものだった。
華やかさの代わりに、静かな緊張が、会場を包んでいる。
王家の鏡も、今日ばかりは特別な意味を持って起動している。
三か月にわたるこの物語の、一つの結末を、全国の人々が見守ろうとしていた。
私は、あの夜と同じ場所に立っている。
けれど、あの時とは、まったく違う立場で、この場に立っていた。
国王陛下が、玉座から静かに立ち上がる。
「これより、判決を言い渡す」
会場に、水を打ったような静けさが広がる。
国王陛下は、まず、うなだれたまま立つアリア様へと視線を向ける。
「アリア・フェルミナ」
「そなたは、虚偽の証言により、罪なき者を陥れようとした」
アリア様は、何も言わず、ただ俯いている。
「しかしながら、そなたが宰相グレゴールに利用された立場であったことも、調査により明らかとなった」
「よって、神殿からの追放、および一年間の清掃奉仕を命じる」
その判決に、会場が小さくどよめく。
罪の重さを思えば、あまりに軽い処罰だと感じる者もいるのだろう。
全国の視聴者たちの反応も、想像に難くない。
かつて崇めていた聖女への失望が、今もなお、多くの人の心に色濃く残っているはずだ。
アリア様は、判決を聞いた瞬間、大きく肩を震わせた。
次の瞬間、彼女の身体から、まるで糸が完全に切れたかのように、力が抜け落ちる。 膝が内側から折れるように崩れ、そのままその場にへたり込んだ。
あまりの衝撃に、思考も、声も、身体の制御すらも、一瞬で奪われたのだろう。
「……っ」
掠れた息が漏れた直後だった。
下腹部に、突然の、激しい圧迫感が走る。
アリア様はとっさに脚を強く閉じ、両手を下腹部に押し当てて必死に堪えようとした。
けれど、すでに遅かった。
最初は、内側からじわりと染み出すような温もりだった。
彼女は歯を食いしばり、下半身に全神経を集中させて押し戻そうとする。
「……いや……止まって……お願い……」
しかしその努力は、逆にダムを決壊させる結果となった。
抑えきれなくなった液体が、一気に勢いを増して溢れ出す。
華やかな聖女の衣装の内側で、生地が急速に湿り、重く肌に張りついていく感触が、彼女自身に容赦なく伝わってきた。
――だめ。
また、同じことが。
その瞬間、過去の記憶が、まるで堰を切ったように彼女の脳裏を埋め尽くした。
孤児院の暗い大部屋。
朝、自分のシーツだけが冷たく湿っている感触。
周囲の子供たちの視線。
「またアリアが漏らした」
「臭い」
「また嘘つくんだよ」
彼女は泣きながら叫んだ。
「違う! 隣の子が水をかけたの! 私は悪くない!」
濡れてもいない子が叱られ、罰を受け、自分だけが涙でその場を誤魔化す。
恥ずかしさで顔が熱くなり、耳まで真っ赤になりながらも、認められなかった。
認めれば、自分が「おねしょの子」として永遠に烙印を押されると知っていたから。
その記憶が、今、現実と重なる。
「やめてえええっ!! 止まらないっ……! お願い、止まって!!」
アリア様は床に両手をついたまま、腰を浮かそうとじたばたともがいた。
けれど脚に力が入らず、ただ自分の腿の間を伝って流れ落ちるものを止められない。
液体は彼女の意志を完全に無視し、太ももを伝い、ドレスの裾から滴り落ち、石造りの床に連続した音を立てて落ちていく。
ぽた、ぽた、という音が、最初は小さく、やがて止まらない流れとなって床を濡らしていく。
そして、さらに深く、過去がフラッシュバックする。
孤児院の昼間。
遊んでいる最中に急に漏れ、スカートを伝って床に広がる水たまり。
「また漏らした!」
「アリアまたやってる」
彼女は泣き叫びながら他の子を指差した。
「あの子が押したの! わざとよ!」
大人は泣き叫ぶ彼女を前に、それ以上追及できなくなる。
濡れ衣を着せられた子の恨みがましい目。
自分の掌まで湿ったスカートを握りしめながら、羞恥で身を縮こまらせる感覚。
――あの時と、同じ。
全く同じ。
「いやあああっ!! 見ないで! お願いだから見ないでえええっ!!」
「こんなの……こんなの嘘よ! 私は……私はもう治ったはずなのに……!!」
「お願い……誰か……私を……見ないで……!!」
彼女の叫びは、もはや言葉にならない嗚咽と混じり合い、会場中に響き渡った。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
それでも流れは止まらない。
彼女が体をよじり、脚を擦り合わせ、何度も何度も下腹部を押さえ込もうとしても、残っていたものが断続的に漏れ続け、水たまりは彼女の膝と手のひらを完全に浸していく。
周囲から、抑えきれない息を呑む音と、短い悲鳴のような囁きが同時に上がった。
「まさか……今……」
「聖女が……公衆の面前で……漏らして……」
「前に暴露された、あのおねしょの……」
「子供の頃から治らなかったって、本当だったのね」
「責任転嫁ばかりしてた子が、結局自分で……」
貴族の婦人たちが扇子で口元を覆い、目を見開く。
若い騎士の何人かは顔を背け、年配の貴族たちは鼻に手を当てて顔をしかめた。
微かに立ち始めた湿った臭いが、近くの者たちの間で不快そうな反応を誘う。
アリア様は床に膝をついたまま、必死にスカートの裾を掴んで押さえ込もうとした。
しかし指が滑り、布地はすでにびしょ濡れで、彼女の掌まで湿らせていく。
流れは止まらず、彼女の膝下に広がる水たまりが、徐々に円を広げていく。
彼女は自分の汚した液体の中に、直接座り込む形になってしまった。
そして、最も残酷な記憶が蘇る。
先日の法廷。
老院長が淡々と語る声。
「夜尿……おねしょでございます」
「それを決して自分のせいだとは認めようとせず、他の子供に擦り付けた」
全国民の前で、最も隠したかった過去を晒された羞恥。
あの時の顔面紅潮と、耳まで熱を持った感覚。
「消えてしまいたい」と心の底から願ったあの日の絶望が、今、倍加して彼女を襲う。
「うぅぅっ……いや……嫌あああっ……また……また同じことを……!」
「孤児院の時と……あの時と……全部……いやあああぁぁぁ!!!」
「お願い……これ以上言わないで……恥ずかしい……死ぬほど恥ずかしい……!」
アリア様は床に突っ伏すようにして、両手で顔を覆いながら泣き叫んだ。
「聞かないで……見ないで……お願い……消えてしまいたい……!」
声はすでに泣き声そのもので、かつての澄んだ聖女の声とは似ても似つかない。
彼女は自分の過去の恥が、これ以上広げられることに耐えきれず、ただ羞恥と絶望に打ち震えていた。
一年間の清掃奉仕という罰は、聖女として崇められた日々からすれば、あまりに質素なものだ。
それでも、これから彼女が向き合うのは、地道な労働の日々と、自らが壊してしまったものの重さ、そして――この公開の場で過去のトラウマを呼び失禁してしまったという、消しようのない屈辱なのだろう。
彼女は、床に手をついたまま、何度も小さく首を振り、嗚咽を漏らしながらも、すでに広がってしまった水たまりから逃れることすらできずにいた。
その惨めな姿は、判決そのもの以上に、彼女の全てを象徴する結末として、会場と全国の記憶に深く刻み込まれていく。
国王陛下は続いてグレゴール様へ視線を移す。
「グレゴール・バルディア」
宰相グレゴール様は、拘束された姿のまま、静かにその視線を受け止める。
「そなたは、私利私欲のために国政を欺き、多くの者を陥れた」
「全財産を没収の上、終身の投獄を命じる」
その言葉に、宰相グレゴール様は、小さく頷くだけだった。
最後まで、取り乱すことはない。
ただ、その瞳の奥には、これまで隠されていた諦念のようなものが、わずかに見え隠れしていた。
そして最後に、国王陛下の視線が、レオン様へと向けられる。
会場の空気が、これまで以上に張り詰めていく。
かつて、この国で最も期待された王太子。
その未来が、今、大きく変わろうとしていた。
国王陛下は、しばらくの沈黙の後、静かに問いかける。
「レオン」
「お前は、何を信じた」
レオン様は、震える声で答える。
「私は……聖女を、信じました」
国王陛下は、静かに、けれどはっきりと首を振る。
「違う」
「お前は、自分に都合のいい言葉だけを、信じたのだ」
その一言に、レオン様の肩が、大きく震える。
国王陛下は、さらに続ける。
「婚約契約の違反。虚偽裁判の主導。王族としての責任の放棄」
「これらの罪により、お前の王位継承権を剥奪する」
会場に、大きなどよめきが広がる。
「王族としての籍は残す。だが、一切の政治的権限を失うものとする」
その言葉が、これまでの彼のすべてを、静かに、けれど決定的に変えてしまう。
レオン様は、しばらく立ち尽くしたまま、動けずにいる。
やがて、ゆっくりと、私の方へと向き直る。
そして、これまで一度も見せたことのない、深い一礼をする。
王太子という肩書きを持つ者が、婚約者だった相手に頭を下げる。
それは、この国の歴史において、前例のないことだったかもしれない。
「……すまなかった」
短い、けれど確かにそこにあった謝罪の言葉。
会場中の視線が、一斉に私へと集まる。
全国の視聴者たちも、固唾を呑んでこの瞬間を見守っているはずだ。
私は、しばらくの間、静かに彼を見つめる。
怒りも、憎しみも、今の私の中には、不思議なほど残っていなかった。
ただ、長い戦いの果てに、静かな疲労だけがある。
十歳の頃からの婚約が、こうして完全に終わりを迎える。
悲しみがまったくないと言えば、嘘になる。
それでも、その悲しみは、もう私を縛るものではなくなっていた。
私は、一度だけ、ゆっくりと目を閉じる。
そして、静かに答える。
「許します」
短い、それだけの言葉。
けれど、その一言に込めた意味は、決して単純なものではなかった。
許すということは、忘れることでも、なかったことにすることでもない。
ただ、これ以上、この出来事に囚われずに、前を向くと決めただけのことだ。
婚約は、もう戻らない。
それでも、恨みを抱えたまま歩み続けるよりは、ずっといい。
全国の視聴者たちの反応が、静かに脳裏をよぎる。
「許すのか」
「セリーヌ様立派」
「これが王妃教育を受けた人か」
そんな言葉が、画面を埋め尽くしているであろうことは、想像に難くない。
私は、それらの言葉を求めて答えたわけではない。
ただ、自分自身の心に、一つの区切りをつけたかっただけだ。
国王陛下が、静かに閉廷を告げる。
「これにて、すべての審議を終了する」
会場を出ながら、私は、ゆっくりと息を吐く。
三か月にわたる長い戦いが、ようやく終わりを迎えた。
控えの間で待っていたリズが、静かに駆け寄ってくる。
「セリーヌ様、本当に、長い間お疲れ様でした」
その言葉に、これまで張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていくのを感じる。
「ありがとう、リズ。あなたがいてくれなかったら、ここまで来られなかったわ」
リズは、少し照れたように微笑む。
窓の外には、穏やかな夕暮れの光が広がっている。
失ったものは、確かに大きい。
婚約者も、これまで思い描いていた未来も、もう戻ってはこない。
それでも、真実を貫いたという事実だけは、誰にも奪うことのできないものだった。




