「第1章 遠い夢からの声」(4-2)
(4-2)
フロアにはまだ数人、残っているが、自分のチームにはもう誰もいない。そういえば、先月も自分が最後だった。
カタカタと広いフロアでパソコンのキーボードを叩く音だけが広がっていく。後はマクロを走らせて体裁を整えれば向こうに提出出来る。マクロを走らせている間、フリーズが怖いのであまりパソコンは触りたくない。
数分の事とはいえ、余計な負荷を与えたくなかった。
直人はポケットからiPhoneを取り出して、LINEを開く。定時後に晴香から 【先に帰ったからご飯、作ってるね】とメッセージが届いている。
それに【ありがとう】と返信して以来、何もしていない。直人はLINEで晴香に新しいメッセージを書く。
【今、仕事の目処が付いた。もう少しで帰れると思う。遅くなってごめん】
晴香にLINEを送ってマクロが終わるまでの間、iPhoneで適当にニュースサイトを閲覧していたら、彼女から返信が届いた。
【遅くまでお疲れ様! 美味しい肉じゃがが待ってるよ〜】
しば犬のスタンプと共に返信が来て、思わず口元が緩んでしまい。
晴香から元気を貰い、最後の活力が湧いてきた。画面を見ると、マクロはまだ走っており、あと少しで完了といっただった。資料を提出したらすぐに帰れるのだから、今の内に帰る準備だけしておこう。
直人は足元にあるゴミ箱を持ち、フロアの大きなゴミ箱に捨てたり、テーブルをアルコールスプレーで軽く拭いたりと、帰り支度を始めた。
直人が帰り支度を終えたタイミングでマクロが終わり、資料が完成した。
完成したデータを開いて、どこにも文字化け等がない事を確認すると、先月に送ったメールの文面をコピーして、日付を今月へと修正する。
何も問題がない事を確認したのち、メールを送った。
「ふぅ、」
これで今日の仕事は全て終わった。送信済みフォルダにメールがあるのを確認した直人は、Outlookを閉じる。
Outlook以外にも開いているソフトを閉じて、パソコンをシャットダウンした。今朝、立ち上げた時よりも速く閉じるパソコンにお前も週末はゆっくりしたいよな。妙な親近感を覚えた。
トートバッグを肩に掛けて立ち上がる。
フロア内にはまだあと、三人の人間が残っていた。全員別チームで遠くからカタカタとキーボードを叩く音が聞こえてくる。こちら側はもう誰もいないので、自分達の頭上の電気を消してから、直人は向こうにギリギリ聞こえない距離で「お先に失礼しまーす。お疲れ様です」と告げてフロアから出た。
エレベーターを待っている間、晴香にLINEを送る。
【今、終わった。これから帰るけど、何か買ってくる物ある?】
いつもの定型文だ。ないと断られる事の方が多いけど、たまに頼まれる事もある。時間は遅いが、幸いマンションから少し歩いた場所にこの時間でもやっているスーパーがあるので、帰りに買えなくはない。
仕事が終わった解放感に頭を休めながら、エレベーターを待っていると、脳に映像が駆け巡った。
――もう、直人君。この問題、また間違えてる。昨日説明した時は解けてたのに。さてはちゃんと私の説明を聞いてなかったな?
「……っっ、」
今朝の夢だ。朧げだった相手の声も今度はハッキリと聞こえた。何故、目覚めてから十時間以上が経過した今の方が、より鮮明になのだろうか。
普段、夢なんて数分後には忘れている代物なのに今回はいつもと違う。
分からない、何か意味があるのか。
エレベーターが到着して、ドアが開く。
「ふぅ、」
直人は小さく息を吐くと、それまで考えていた事を中断して、吸い込まれるようにエレベーターに乗った。一階の階層ボタンを押して、ドアが閉める。
誰もいないエレベーターで彼はトートバッグからBluetoothのイヤホンを取り出して耳に挿した。iPhoneのミュージックアプリを開いて、聴いていたプレイリストの続きを再生する。
一階に到着してエレベーターのドアが開いた。そのままビルを出て数時間ぶりに外に出る。
夏の夜風が大通りを走る車の発生する排気ガスと共に顔に当たる。
太陽が出ていない分マシというだけでまだまだ外は暑い。フロア内はクーラーが効いていて快適だったが、帰る頃にはまた汗をかく事だろう。
その事を面倒に感じていると、手に持っていたiPhoneが振動した。確認すると、晴香からのLINEの返信だった。
【お仕事お疲れ様でした! 買ってほしい物は特にないから大丈夫。冷蔵庫のビール、冷えてるよ〜!】
冷蔵庫の中に置かれたビール缶の写真とメッセージに思わず喉がゴクリと音を鳴らす。
長い残業を終えてやっと帰れる今の直人にとって、この写真で喉を鳴らさないのは、不可能だった。
『ダッシュで帰る!』
直人はそう晴香に返事をして、最寄り駅まで小走りで向かった。




