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パープル・グラスシーリング  作者: 綾沢 深乃
「第1章 遠い夢からの声」

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「第1章 遠い夢からの声」(4-1)

(4-1)


 現在の時刻は、午後九時四十五分。


 フロアに残っている人間は大分少なくなった。午後に行われた会議も無事終わり、今は提出用のExcel進捗表の修正をしている。


 午後七時までには終わらせるつもりだったが、駆け込みの問い合わせに追われて、時間が作れなかった。

 月末の金曜日、忙しいのはどこも同じ。

 それを理解しているからこそ向こうから問い合わせを無視出来ない。


 それに例の三人の資料を確認する作業も大切だ。


 三人各々の持ってくる図面を確認して、間違っている箇所があれば、直人の方で修正する。余裕があれば相手に修正してもらう事も可能だったが、これも月末は難しい。直し方を説明するよりも自分でした方が早い。


 こうして自分の作業に取り掛かった結果、こんな時間まで延びてしまった。


 フロアには社員数人しか残っておらず、ようやく問い合わせの電話が鳴らなくなった今、誰もが集中してキーボードを叩いていた。


「あぁ〜、終わったぁ」


 隣の麻野がキーボードから手を離して、大きく伸びをする。

 約一時間半前から一心不乱にキーボードを叩いていた彼だったが、ようやく作業が終わったらしく、伸びをした後は両手をダランと下げていた。


「これでやっと帰れるわぁ。横溝君は? まだかかる感じ?」


「そうですね。この感じだと十時半には何とか終われると思います」


 前を向いて作業をしたまま、直人は麻野に答えた。


「そっか。じゃあ俺は帰らせてもらおうかな。かなりガッツリ働いたわぁ〜」


「是非。僕はこのままで終わりまで頑張ります」


「手伝ってあげたいけど、気力がもう残ってないわ。ゴメン」


「ありがとうございます。気持ちだけ有り難く頂きます」


 実際、軽口ではなく麻野はよく手伝ってくれる。彼の仕事ぶりは本当に速く直人よりも的確だった。

 仕事を手伝ってくれる人手が増えるとこんなに早く終われるのかと、最初は驚いたものだ。


 ただ、麻野が手伝ってくれるのは特別であり、普段から手伝ってくれる訳ではない。それは直人だって重々承知している。彼だって自分の仕事がある。


「フロアで今残っているのは、五人か。流石に皆、忙しそうだな」


「ええ。月末で忙しいですから」


 麻野がデスク下のゴミ箱を取り、フロア隅に置かれた大型のゴミ箱へと入れて、帰り支度を始めた。


 ちなみに麻野のパソコンの電源は既に落とされている。本人曰く、残業を見越して、とんでもない問い合わせのメールが届く事があるので、その対策として電源はすぐに落とすとの事。

 それを教えてもらってから、直人も真似している。


「そうだ」


 帰り支度を終えた麻野は、黒のトートバッグを肩に掛けると、何かを思い出したのか直人に話し掛けた。


「午後の野口さんからの問い合わせの件、鳥羽係長には話した?」


「えっ? いや、話してません」


 野口との電話の数時間後に鳥羽係長は帰ってきた。


 帰ってきてからも野口から問い合わせがあった事など、何もこちらに言ってくる事はなく、Excelデータベースに記録として残す事もせず、何事もなかったかのように自身の仕事をしていた。


 本当に本人にとっては何事もなかったのだろう。鳥羽係長のそんな様子を見ていたら、自分から話す気が失せてしまった。


 直人の言葉に小さく口から息を吐いて、「そうか。そうだよなぁー」と麻野は小さく返した。件の鳥羽係長は、もう定時で帰っているのでフロアにはいない。


「迷ったんですけどね。来週、俺から鳥羽係長に話した方がいいですか?」


「いや、いいよ。どうせ、本人忘れてるし話しても意味ない。正直、ああいうのは止めてほしいんだけど、これまでに辞めてった先輩がいくら強く言っても暖簾に腕押しだったから」


「そうだったんですか」


 自分が入社する前からあった出来事だったのを知って、直人は驚く。よくそんな勤務態度で係長になれたものだと、思ってしまった。


 その気持ちが顔に出てしまったのか、麻野は「ウチの会社、ほぼ年功序列で出世していくからなぁ。おかしな文化だけど」と愚痴を溢した。


「そうですよね。よっぽど、貢献しないとその辺は難しそうです」


「あとは元々優秀な人で中途採用とか? 立花係長とかは、そのタイプだな。あの人、前の会社でも係長だったから、ウチの会社でも係長スタート」


「そうだったんですか。どうりで」


 直人とそこまで歳の差はないのに、役職に就いている立花係長。他チームなのであまり話す機会はないが、こっそり彼のチームのExcelデータベースを確認すると、ウチとは違って徹底的に管理されていた。

 余計な事は書かず、案件のレベル毎に色分けされており、すぐに分かるようになっている。専用のマクロも組まれており、ボタン一つでカテゴリ分けが出来る。

 直人の考える理想系といえるが、これをやろうとすると、前任者の抱えていた膨大な過去案件を全て精査する必要がある。


 今の直人にはとてもじゃないが、そこまでの時間はない。


「今回のレベルならまだ、俺もカバーに入れる。ただ、これ以上酷くなるなら言ってくれ。鳥羽係長には俺から話すし、何なら小坂部長に言ってもいい」


「ありがとうございます」


「おぅ。じゃ本当に帰るわ。お疲れ」


「お疲れ様です」


 麻野がフロアを出て行った。

 気に掛けてくれた事に感謝しつつ、直人は自分の仕事を再開する。


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