「第1章 遠い夢からの声」(2-3)
(2-3)
「――これで付箋は全部ですね。他には大丈夫ですか?」
「あっ、はい。大丈夫だと思います」
直人の説明を受けて、佐原が納得したように頷いた。
「では、佐原さんはこの続きをお願いします。午前中には終わりそうですかね?」
「頑張ります」
佐原は両手を握りしめて決意表明をしてくる。その動作さえも隣にいる江口からしたら癇に障るらしい。彼女のキーボードの打鍵音が大きくなった。
「お願いします」
直人はようやく自分のデスクへと戻る。始業の朝礼前に最低限のチェックはしているが、それから数分経ってOutlookを更新すると、一気に新着メールが受信フォルダに溜まっていく。
簡単な進捗確認から新しい依頼案件まで、次々と送られてくる。それらを一件ずつ確認して、重要度に合わせてフォルダ分けをしていく。
月末の午前中は時間との戦いだ。油断したらあっという間に時間は流れて、手に負えなくなる。
振り分けたメールから特に重要なメールの処理をする。
場合によっては送り主に電話を掛ける事もある。メールで返信するよりも早いからだ。もちろん、その後で確認と証拠を残すの意味も込めてメールは送る。
今回もそのパターンだった。
直人は社用携帯を取り出して、送り主に向かって電話を掛ける。数コール鳴って、相手が電話に出た。電話口からは柔らかな口調の男性の声が聞こえる。
「はい。AKテクノロジー 野口です」
「おはようございます。Nシステムズの横溝です。今朝、頂いたメールの件で確認したい事があるのですが……。今、お時間大丈夫でしょうか?」
「ええ、構いませんよ。なんでしょう?」
こちらの電話にも野口は優しく対応してくれる。彼とは現在、取り掛かっている案件からの付き合いになるが、何度か相手側の会社で出向いて直接打ち合わせを重ねた事もある。
「えっと。メールにあった至急案件ですが、こちらは一昨日頂いた案件との優先順位としては、どちらを?」
「ああ、そっか。一昨日も至急案件をお願いしていましたね」
「ええ。月末の進捗データベースの提出もあるので、優先度を教えていただければこちらとしても助かります」
「うーん。そうですね、ちょっと待って下さいね」
「はい」
電話口からパチパチとキーボードを叩く音が聞こえてくる。野口もまた、案件を引き受けた上で自分達へと振ってくる。優先順位の確認は、すぐには出来ない。
彼の返事を待つ間も無駄には出来ない。直人は、耳と肩で携帯電話を挟んで、キーボードを叩きExcelのデータベースを確認する。
調査案件の至急については、外部調査班にその都度指示を出す必要があり、彼らの人数には限りがある。無闇に引き受けても物理的に不可能になると、意味がない。
野口からの返事を待っている間、もし一昨日の調査より優先した場合はどう調整をするべきかと考えを巡らせる。
朝から動いている調査班の進捗確認。まずはそれをしてからだ、待たせてしまうがしょうがない。
そう考えていると、「お待たせしました」と野口の声が聞こえた。
すぐに意識を電話に戻す。
「はい。どうでしょうか?」
「一昨日の案件を優先でお願いします」
「了解です」
良かった。これで調査班に変更を指示する必要がなくなった。そう直人が安堵していると、「ただ、」と野口が言葉を続けた。
「今日の案件も決して、優先しなくていいという訳ではないので、なる早でお願い出来ますか?」
「ええ。分かっております。そのように対処させていただきます」
「助かりますよ。流石、横溝さんだ」
「ありがとうございます。後ほど電話の内容をまとめたメールをお送りしますね」
「はい。お願いします」
「急な電話で申し訳ありませんでした」
「いえいえ。また何かありましたら、いつでもお電話下さい」
「ありがとうございます。では、失礼致します」
野口との通話が終わった。朝から面倒事と警戒していた事が一応の解決を見せた事で「ふぅ」と口から息が出た。
直人がひと段落して、早速メールを書こうとしたタイミングで、隣の麻野が「何とかなりそう?」と聞いてきた。
「ええ。至急案件が重なったので、どっちを先にするのかを野口さんに電話で確認してました。今日は特に忙しいから早めに片付けたかったし」
「そういう事か。しかし横溝君も真面目だねー。俺だったらそんなの最初に届いた案件を優先して、調査班に指示しちゃうけどなぁ」
麻野の言い方には感心と若干の嘲笑が混ざっていた。それを敢えて知らないふりをして愛想笑いをしてからキーボードを叩いて、直人はメールを書く作業を再開する。
午前中で大きな問題といえば、その程度で他は大した事はなく、いつもの日常で終えられる仕事だった。
時刻は午前十一時半。昼休みまで残り三十分。
直人はなくなった飲み物を購入しようと、一度フロアを出て、自動販売機に向かった。フロア内にも物販スペースはあるが気分転換も兼ねて、彼はいつもフロアから出て買いに行く。もちろん社用携帯は持っているので、問題はない。
エレベーターで一階まで降りて、ビル横にある自動販売機でお茶のペットボトルを購入した。朝に缶コーヒーを買っているので、本日二本目になる。
飲み物の一日の消費量は二、三本。毎日、買っていると馬鹿にならない。
その事を晴香に話すと、水筒を持っていきなさいと言われた。
だが、洗う手間と荷物になる事。その面倒が重なって中々実行に移せない。
購入したお茶のペットボトルを持って、再びエレベーターに乗る。
エレベーターが上がっていく僅かな時間。直人は、今朝見た夢を思い出した。
そうだ、あれは一体誰だったんだろうか。
今朝から時間が経過してもまだ形骸化せずにハッキリと思い出せる夢。それくらい印象に残っていて不思議だった。
顔や声には靄がかかったような安定しない状態。
それが如何にも夢の仕様だが、それにしても全く思い出せないとは……。
夢の残滓を頭に残しつつ、直人を乗せたエレベーターは目的の階層へと到着した。




