「第4章 放物線を描く水と水没と」(3-2)
(3-2)
最寄り駅に到着すると、本来考えていた時間よりも大分早かった。その事から真っ直ぐにマンションまで帰らずにスーパーに寄り道をした。
明日の食材やなくなっている日用品等を購入する。出発した時はこうなると思わなかった荷物を持って、直人はマンションまで帰ってくる。
いつも通り、エントランスを通ってポストをチェックしてエレベーターに乗り、部屋の階層まで上がる。飲んだアルコールは完全に消えて、頭は嫌になるくらい、冷静だった。
食欲はあまりない。夜中に小腹でも空いたら、買い置きのカップ麺でも食べたらいいと考えてスーパーでは買わなかった。
こう考える時点で直人の頭から、晴香はいなかった。
部屋の鍵を開けて、ゆっくりとドアを開ける。
「ただいま」
誰もいない真っ暗な部屋に向かって直人は手を洗って、買ってきた食材を冷蔵庫に入れていく。その後、着ていた服を脱いで洗濯機へと放り込んだ。
熱いシャワーを浴びて汗と不快感を洗い流すと、部屋着に着替えてリビングへ戻ってくる。
「ふぅ〜」
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、口を付けた。シャワーで火照った体に冷たい水が行き渡り、何とも言えない気持ち良さがあった。
そのままデスク前の椅子に座り、MacBookを起動する。
起動している間、iPhoneを取り出してある人物にLINEを送る。するとすぐに返事が返ってきた。今は部屋にいるので電話しても構わないとの事。
向こうから許可を得たので、早速直人は電話を掛ける。
数コールして「はい」と電話口から相手の声が聞こえた。
「あっ、もしもし。横溝ですが、あゆみさん?」
「はい。お久しぶりです横溝さん、電話を掛けたいなんて、珍しいですね。今日はどうされましたか?」
「さっきLINEで送った通り。忘望病の件で相談したいんだ。俺の周りでこの話が出来るのは、あゆみさんしかいないから」
「気持ちは有り難いですが、私もそんなに知っている訳ではないんですよね」
「良いんだ。相談というよりも話を聞いてほしいってのが本音だから」
隠す事なくあゆみに自分の意図を伝える。いつもなら多少は取り繕うところだが、今の彼にはそこまでの余裕がなかった。
「分かりました。どこまで力になれるかは分かりませんが、話を聞くくらいなら出来ますよ」
「ありがとう。実は友人に忘望病の疑いがあるんだ」
「……へぇ、」
最初の直人の発言に少しの沈黙を置いてから、あゆみは関心したような声を上げた。やはり彼女に電話を掛けたのは、正解だと直感的に理解した。
「それで、実は――」
直人は今日の一連の出来事を説明し始めた。正確に事実だけを伝える。
勿論、芳樹の仕事の話や彼から水を掛けられた事も隠す事なく全て話した。
あゆみは時折、相槌を打つ程度で口を挟む事はなく聞いてくれている。
「――っという訳なんだ」
全ての説明を終えた直人は、ずっと話していた影響で喉が熱くなっていたので、水のペットボトルに口を付ける。その間、あゆみはずっと黙っていた。電話越しでは相手の表情が見えず、こちらから不用意に発言する事は出来ない。
だが次第に沈黙に耐えられなくなった直人が、おそるおそる声を出した。
「えっと、あゆみさん?」
「はぁー」
直人の困ったような言葉にあゆみはため息を吐いて返した。
「もう私が話してもいいですか?」
「……はい。どうぞ」
敬語は止めてくれと頼まれていたが、自然と敬語になってしまった。そして、今回はその事をあゆみが咎める気がないのが伝わってくる。それが逆に怖い。
「横溝さん、馬鹿なんですか?」
「はい。馬鹿です」
自覚していたがハッキリ言われると、威力を増して直人の体に突き刺さる。忘望病について人よりほんの少し知識があるのをいい事に芳樹を傷付けてしまった。
「それで? 横溝さんはどうしたいんですか?」
「どうしたいって聞かれると難しいけど……」
「えっ? まさかこのままに放置するつもりじゃないですよね?」
曖昧な返しをした直人に驚くあゆみに彼は、電話越しだというのに首を振った。
「違う。俺もこのまま放置で良いなんて思っていない。だけど向こうはかなり怒っているだろうし、俺の話なんか絶対聞いてくれるわけがない。どうしたら正解なのか自分でも分からないんです」
「敬語」
「ごめん」
どうやら敬語で許される時間は過ぎたようだった。短く指摘されて直人は、反射的に謝罪する。
「私、横溝さんはもう少し頭が良い方だと思っていました」
「そう思っていてくれたのは嬉しいけど、買い被りだな。俺は決して頭が良いわけじゃない。私生活や仕事でも結構失敗する一方だよ」
「現に今、失敗してますもんね」
直人の言葉にあゆみにクスクスと笑いながら同調してきた。恥ずかしいが、張り詰められた空気が少しだけ弛緩した気がした。
「笑わないでよ、自覚はあるんだから」
「ごめんなさい。それで? あらためて横溝さんはどうするつもりですか?」
「俺としては、やっぱり彼には忘望病の事を知ってもらいたいと思っている。感情的な問題は抜きにして、本当に忘望病で症状が進行しているのなら、早目に手を打っておかないと大変な事になる」
Wikiに書かれていた事から、まだ芳樹に現れた症状は初期段階。
今なら対処が出来る。逆に直人自身が彼の事を忘れてしまう程、忘望病が進んでしまうと、こちらからでは何も出来なくなってしまう。
そうなる前に手を打ちたい。
「私も横溝さんの意見に賛成です。お友達には客観的に自身の現状を知ってもらった方が良いと思います。たとえその結果、横溝さんが嫌われてしまっても忘望病の進行と比べたら大した事ではありません」
大した事ではない。そうあゆみは言い切った。
言われた直人もその通りだと思った。今は忘望病の対策が最優先事項であり、その為ならある程度の犠牲は無視して構わない。
しかし、中々難しいものがある。
「分かってる。でもやっぱり芳樹から、あんな事をされたのが忘れられなくてさ。その時は分からなかったけど、今になって効いてきたよ。今さっき感情論を抜きにして言ってて、情けないんだけどさ」
「横溝さんが知っている芳樹さんは、そんな事をしなかったんですね」
「ああ。絶対にしないな」
どれだけ怒ったとしても相手に水をかけて帰るなんて真似は普段の芳樹なら絶対にやらない。
「それだけ芳樹さんが正常ではなかったという事になります。慣れない関西での仕事に人間関係等のトラブルも重なって、精神的には大変だったのでしょう。話に出てきたのが忘望病というだけで、他にも何か被害に遭ったのかも知れませんね」
「……そうか」
あゆみに指摘されて直人は初めてその可能性を考えた。
人間関係や仕事の事を話してきた芳樹だったが、全てを話していない可能性は充分にある。
どうして芳樹が話さなかったかは容易に想像出来る。彼はあくまで仕事の愚痴を言いたかっただけで、他の話で場をしらけさせたくなかったのだ。




