「第4章 放物線を描く水と水没と」(3-1)
(3-1)
個室の外から店のドアが開いた音が聞こえた。
芳樹は本当に帰ったのかと直人は察した。同時に彼がすぐに戻ってきて話をしてくれるかと期待している自分に気付いた。
「はぁ〜」
直人は胡座をかいていた足を伸ばして、両手を後ろにした。足の先がテーブルの下を通り、芳樹が座っていた座布団に当たる。それが嫌で足で払い除けた。
顔はおしぼりで拭いて、髪にはそこまで水はかかっていない。気になるのは、首元から下が濡れている程度だ。残暑のおかげで外に出れば一瞬で乾くだろうが、あいにくクーラーの効いた店内では、難しそうだ。
今から追加注文する気はない。
意味もなく店にいて迷惑をかけるよりもとっとと、出た方がいい。直人は立ち上がり、帰り支度をする。その際、テーブルに無造作に置かれた四万円を右手で掴む。
柔らかな一万円札は彼の握力によって、いとも簡単に潰れてしまった。
端が濡れた伝票持ち個室のドアを開けた。個室から出ると、そこはガヤガヤとした焼き鳥屋の雰囲気だった。自分がいた個室との空気の違いを肌で感じながら直人は、レジに行って清算をした。
明らかに何かあったはずなのに店員は何もなかったかのように対応してくれた。それがとても有り難かったし、申し訳なかった。
「ありがとうございました〜!」
店員の声を背中で受けながら、直人は店を後にした。
残暑厳しい新宿の夜風が顔に当たる。店で飲んだ酒の酔いは先程の一件ですっかり冷めてしまった為、今はこの夜風が心底気持ち良かった。
一人で何処かに行こうかとも考えたが、考えただけで具体的な候補は何も頭に浮かばなかったので、マンションに帰る事にした。来た時は二人で歩いていた道を一人で歩き、新宿駅に向かう。
芳樹と久しぶりに会って晴香の話をした事。
仕事の話を聞いて、彼に忘望病の疑いがある事。そして、水を掛けられた事。
どれもまだ直人の中で実感が湧かなかった。
新宿駅に到着して、改札を通りホームへ上がる。ココまでの時点で服に付いていた水のシミは充分に乾いていた。それが余計に実感をなくさせる。適当に目に付いた列に並んで、到着した電車に乗る。幸いにもすぐにシートに座る事が出来た。
シートに座ってすぐにドアが閉まり、電車が発車する。動き出した車内で直人はiPhoneを取り出した。芳樹にLINEを送る為ではない。
忘望病のwikiを見る為だった。
最初に見て以来、ずっとパソコンで見ていたので、iPhoneで見るのは久しぶりだった。
そう思いつつ見慣れたメニューを眺めていると、そこに“忘望病かも知れない人を見つけたら?“という項目が目に入った。横にNEWを表示されているので、最近追加されたのだろう。
なんとタイミングの悪い事か。
もし午前中に見れていたら、違っていただろうに。
思わず笑ってしまいそうになるのを堪えながら、直人はその項目を開いた。
“忘望病を他人が見つけるのは大変珍しい事です。何故なら、普通は病気に罹患した人物を忘れてしまうからです。しかし、ごく初期の場合はその限りではなく、他人が気付く場合があります。”
ページの上部に書かれていた初めにと書かれていた文章を読んで、全くもってその通りだと直人は心の中で深く頷いた。
そのままページをスクロールして下に書かれた文章を読んでいく。
“忘望病は世界的に罹患者が少なく、知らない人が当たり前の病気です。
その為、あなたがいきなり相手を忘望病だと言っていてもまず理解は得られません。それどころかトラブルに発展する可能性もあります。
また、本人も忘望病を知る前に周りとの接し方で、何からしらの違和感を持っているはずです。よって、伝える際には細心の注意が必要です。
一つの方法として最適なのは、このwikiを相手に教える事です。
忘望病の疑いのある本人がこのwikiにアクセスして、情報を得る。それが我々の導き出した、もっとも最適な解決策だと思われます。“
そう書かれていた文章の下にwikiのトップページのリンクが貼られていた。これをコピーして相手に送れという事なのだろう。
直人は顔を上げる。
いつの間にか電車は四ツ谷を超えていた。それ程までに夢中で読んでいたのだ。
読んでいて直人は納得する事ばかりだった。
忘望病の存在を知る事は決して良い事ばかりではない。病気の事を知ったってそれまでの事が帳消しになる訳でもない。それこそ、癌の告知に近いのかも知れない。
ドラマや小説の知識しかないが、ああいう場面では医者側が患者側にとても丁寧に説明しているイメージがある。
それをたまたま知っているからという理由だけで芳樹に話してしまった。水を掛けられるのも当たり前だ。今すぐにでも芳樹に連絡を取りたかったけど、自分が原因である以上、すぐに手が動かなかった。
おそらく芳樹は今、混乱や怒りといった類の感情に支配されているはず。
そこに火をつけた本人から連絡が来ても出るはずがない。自分の非力さが悔しかった。和倉 瑠奈とは違って、現在進行形で忘望病の問題に直面しているのに自分は何も出来ていない。
悔しさを拳に込めてキツく握りしめる。
直人を乗せた電車は夜の東京を走り続けた。




