「第4章 放物線を描く水と水没と」(2-3)
(2-3)
直人がそう考えて込んでいると、芳樹が「あっ、」と小さく声を出す。
「勿論、全員が全員そうって訳じゃない。ただ、殆どの人がそうだった。家族を養う為とか生活があるからとか、そういう理由で働いている人達」
「そういう理由で仕事をするのも理解出来る。ちゃんとやってくれればそれでいい」
「そこだよ。まささにちゃんとやってくれればってところ」
「まさか、やってなかった?」
おそるおそる直人が尋ねると、芳樹はゆっくりと頷いた。
「まず、最低限の働きしかしない人が多過ぎる。取り敢えず来た球にバッドを振ってますって感じ。狙ってないんだ。頑張っても意味ないって思ってるから」
「意味がない?」
「エース級の社員はまず、東京本社勤務だからな。関西支社は二つあって、大阪の方はそれなりに頑張ってたけど、神戸がなー。先輩の話だと昔は頑張ってたみたいだけど、いつかの決算期の売り上げで負けてからは、こうなったんだと」
職場の先輩にかつての会社の雰囲気を教えてもらう時は直人にもある。
麻野などは有益な情報はこちらにフィードバックしてくれる存在だ。芳樹の働く場所にそういった存在がいなかったのだろう。
「んで、そこに東京から出稼ぎに来た俺ってわけ。空気感も違うし、無駄に仕事頑張るしで、ずっと事務所内で空回り。俺なりに頑張ってiQOSまで吸ってたのにな。全部無駄だったわ」
「吸ってたなiQOS」
言われてから直人は気付いたが、芳樹は今日は一度もiQOSを吸っていなかった。
「辞めてからしばらくは、ストレスで吸ってたけどもう完全にやめた」
「やめれるならそれに越した事はないと思う。体に良くもないし」
「金もかかるしな」
直人の言葉に笑いながら、芳樹が同意する。そこまで分かっていながらも彼はiQOSを吸っていた。
「あぁ〜。でもまさかこんな形で仕事を辞めるとは思わなかったなぁ〜」
「次とか考えてるのか?」
「動かなきゃいけないって気持ちはあるんだけど、今はゆっくり休みたいってのが本音」
「ああ、そうだよな。変な事聞いてゴメン」
「謝るなって。気を遣われるより楽だから」
長い事、彼の話を聞いてココで休憩とばかりに二人の間に沈黙が走る。
そろそろ店を出るか、それともお代わりをするか微妙なところになってきた。
直人お代わりをしても構わないけど、芳樹はどうだろうか。そう考えていると、顔を下にした彼が「でもあれだなー」と当時を振り返るようにして話し出す。
「んっ?」
「周りがさ、俺の存在を忘れたように接してくる時があってさ。あれが一番効いたなぁ。こっちは一生懸命に頑張ってるのにまるで初対面みたいな扱いされるんだぜ? あそこまでされると、本格的に萎える」
芳樹が零した愚痴。
直人は心臓の鼓動が速く、そして激しくなるのを感じていた。
一度浮かんでしまった可能性は、タンポポの綿毛程度の大きさだったのが、爆発的な勢いで広がっていく。周りに忘れられる? 初対面みたいな扱い?
少し前にwikiで書かれていた忘望病の初期症状の項目が脳裏に蘇る。
「何か凄い顔してるけど、飲み過ぎた?」
「あ、ああ……」
芳樹に話し掛けられてようやく直人は現実へと帰ってくる。
珍しい病気だと書かれていたのもあって油断していた。そうだ、別に人数制限がある病気ではないのだ。和倉 瑠奈が罹患したからと言って、芳樹が罹患しない理由はどこにもない。“忘望病”はこの世に存在する病気なのだ。
「あの、さ」
直人は慎重に芳樹に話し掛ける。
「んー?」
「その忘れられるって会社の人だけにか?」
少しでも可能性を低くしたい。ただ単に芳樹が働いていた職場との人間関係が悪くて、酷い意地悪をされた。その可能性を信じて直人が尋ねる。
すると、芳樹は視線を上にして何かを思い出すようにして答えた。
「あー、そう言えば一度、母親に電話でどちら様ですか? って聞かれた事があったな。その時は仕事終わりでヘロヘロでさ。怒るってより何ボケてるんだって、笑ったわ。すぐに元に戻ってたからそこまで心配はしてなかったけど」
“病気の進行度に応じて職場や学校から、家族へと忘望病は影響していきます。また、相手が一時的に思い出したからと安心してはいけません。それはあくまで警告のようなもので一度忘れられると、止まらなくなります。”
Wikiで読んでいた文章が脳内で一字一句脳内で再生される。職場から家族へと段階が上がっていくのも同じだった。
希望を縋って聞いてみれば、それは絶望を確定させる結果になってしまった。
「ったく、さっきから何だよ」
ちょっと聞いてはすぐに黙り込んでしまう直人の態度に芳樹が不満を訴えてくる。声色から彼が若干イライラし始めている。どう伝えたら正解なのか。
混乱しつつも直人は、何とか正確な事実を伝えようと一度、深呼吸をしてから口を開いた。
「……忘望病って知ってるか?」
「何て?」
「忘望病」
慎重になり過ぎて、一度では伝わらなかったので再度病名を口にする。もしかしたらハッキリ病名を口にするのを無意識の内に避けているのかも知れない。
「いや、知らないな。何系の病気?」
「何系かはちょっと分からないけど、その忘望病の症状ってさ、人から忘れられるっていうものなんだ」
直人が説明すると、芳樹の顔が固まった。
二人の間に言いようのない沈黙が漂う。
今日何度かあった沈黙の中では一番重たかった。芳樹がハイボールに口を付ける。話に夢中だったからあまり減っていなかった為、結構な量が彼の喉へと流れていく。そのまま彼はハイボールを飲み干してしまった。
芳樹がグラスを離して、テーブルに置く。ゴンっと鈍い音が個室に響いた。
「つまり俺がその忘望病? にかかってるから、前の職場の連中と母親から忘れられてるって?」
真剣で真っ直な目がじっとこちらを捉えてくる。信じられないと思うのは当然だが、聞いている限りだとそれが一番可能性が高い。
直人がゆっくりと頷いた。それだけの動作で個室の重力が重たくなった気がした。その事を感じていると、突然、直人の顔が冷たくなった。
顔に水を掛けられたと理解したのは、少ししてからだった。
「……えっ?」
突然の事に戸惑っていると、目の前の芳樹は尚も真剣な顔をこちらに向けている。彼は右手に持っているお冷や用のコップをテーブルに置いた。そんなに大量に残っていなかったが、首から下にも垂れて服にシミを作っている。
水の放物線上にあった焼き鳥の串二本と枝豆も濡れていた。
人間、咄嗟の出来事には上手く対応出来ない。そこはやっぱりドラマや映画のようにはいかない。
視界に入ったおしぼりで濡れた顔を直人は拭いた。ココが個室で良かった。カウンターだったら他の客に迷惑になるところだった。
直人はどこか俯瞰的な感覚がそう思った。
「いきなり何するんだよ」
おしぼりで顔を拭いてから、直人が声を漏らす。
「お前がふざけた事を言ってるからだろ?」
「待てよ。俺は別にふざけた事は言っていない。忘望病は本当に――」
実在する病気なんだ。そう言いかけたところで、芳樹が「もういいって」と吐き捨てるように言って、横に置いていたカバンから財布を取り出した。
テーブルに四万円を置く。
「服代と飯代。俺帰るわ」
それだけを言うと、芳樹はそのまま個室から出ていってしまった。




