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パープル・グラスシーリング  作者: 綾沢 深乃
「第3章 変化していく世界」

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「第3章 変化していく世界」(4-3)

(4-3)


「えっ、うそ」


「嘘じゃないって。さっき駅前でざる蕎麦食べてきた」


「でも、ざる蕎麦ぐらいだったら、ちょっとくらいならカレーも入るでしょ? せっかく作ったんだから食べない?」


「せっかくって、そっちが勝手に作ったんじゃないか」


 恩を感じさせるような晴香の言い方が引っ掛かり、直人はつい愚痴を漏らした。

 それは例えるなら適当なテレビ番組を観て文句を垂れるような、数秒後には消えてなくなる程度の寿命しかない。

 しかしそれはあくまで発信者側の視点。

 深皿を台所に置いて、晴香がジッとこちらを見る。


「さっきから何なの? 勝手に入ってカレーを作った事をそんなに怒ってるの? ちゃんと謝ったじゃない。ずっとネチネチ言わないでよ」


「……悪かった。仕事で疲れるんだ。言い過ぎたよ」


 晴香は別に危害を加えようとしたわけではない。その逆でこちらを喜ばせようとしていた。勝手に入られた事は確かに嫌だったが、その感情はもう通り過ぎていた。

 

 最近の仕事の忙しさに加えて和倉 瑠奈の件と芳樹の件が同時期に来て、日々の生活から余裕が消えていたようだ。


 二人の間に重い沈黙が流れる。その沈黙を破ろうと直人が口を開いた。


「カレー、食べるよ。普段より少なめになっちゃうけど」


「いいの?」


 直人の申し出に晴香が顔を上げて聞いてくる。それにゆっくりと頷いた。


「ああ。晴香の言う通り、ざる蕎麦だったからな」


「ありがとう」


 カレーを食べる事が決まると、リビングの空気が少しずつ柔らかくなっていった。その時、直人は自分がまだスーツを着ていた事に気付く。


「食べる前に着替えてくるよ。万が一、こぼしたら大変だ」


「あっ、それだったら先にシャワー浴びてきたら? その方がスッキリするでしょ?」


「いいのか?」


 確かに帰ってきて外の汚れを全部洗い流したい気持ちはある。

 だが先程までの会話の流れから、それを口に出す勇気はなかった。


「大丈夫、浴びてきて。その間に用意してるから」


「分かった。なるべく急いで入るよ」


「ううん。ゆっくりでいいから、行ってらっしゃい」


 笑顔で送り出されて、直人は洗面所へと向かった。服を脱いで洗濯機へと入れて、そのまま風呂場へ。熱いシャワーが体に当たり、全身に溜まった老廃物が綺麗に流れていった。


 ココ最近は晴香と一緒にいる週末が減っている。


 これまで晴香がいる週末が当たり前すぎて、それが無くなってもすぐに次があると安易に考えてしまっていた。今週末は、芳樹と会う事になっているが、その次は二人でゆっくりしよう。


 たまには二人で昼間から出掛けるのもいいかも知れない。いつかの時みたいにレンタカーを借りて鎌倉にでも小旅行気分で行くのも楽しいだろう。


 そんな事を考えながら体を洗い終えて、部屋着に着替えてリビングに戻る。


 するとリビングにはいるはずの晴香の姿はなく、テーブルには一人分のカレーが置かれていた。ちゃんと普段より少なめによそわれていた。

 添え物の福神漬けとサラダもそれぞれ小鉢に置かれている。


 ただし量は一人分。


「……晴香?」


 シンとしたリビングで晴香の名前を呼ぶが、どこからも返事がなく発した言葉は部屋の壁に吸収されてしまった。


 コンビニに何か買いに行ったのか? そう思った直人は冷蔵庫へと向かい、水のペットボトルを取った。キャップを開けて口を付ける。よく冷えた水が火照った体に染み渡って気持ち良い。


 何となくリビングのテレビを点けて、充電器に挿していたiPhoneを手に取る。


 晴香からLINEが届いていた。


【今日は帰ります。やっぱりこのまま食べるより時間を少しだけ開けた方がいいと思ったから。驚かせようとした私が悪かったんだけど、ちょっと難しいや。本当にごめん。また連絡します】


 iPhoneの画面に表示されたメッセージは、本来感情なんて存在しない無機質なフォントで書かれたただの日本語なのにどうしてか、そこには晴香の感情が乗っていて、文面から彼女の声が聞こえた。


「っだよ。それ」


 さっきはすぐに部屋の壁に吸収されたのに今度は中々吸収されず、周囲を留まっていた。意味もなく点けたテレビから流れるCMの陽気な音楽が彼の気に触る。


「……くそっ、」


 声にならない憤りを原動力にテレビのリモコンを手に取り、叩きつけるようにチャンネルを消すと、そのままソファに放り投げた。


 再び部屋が静寂に包まれる。


 テーブルに置かれた少なめのカレーの匂いが鼻に届いた。それは本来なら、とても美味しい匂いのはずなのに生温かい嫌な匂いへと変換されてしまう。


 ペットボトルの水を飲み干すと冷蔵庫まで向かった。

 中を開けて常備してある缶ビールを手に取った。今は飲まない方が危険だった。


 椅子に座るまで我慢出来ず、その場でプルタブを開ける。


 カシュッと炭酸の弾ける音がした。飲み口からアルコールの匂いがする。

 これの方がカレーより強く惹かれる。吸い込まれるように飲み口に口を付けて勢い良くビールを体に流し込んだ。


「……っふぁ!」


 口を離すと、勢いを付け過ぎていたのか部屋着にビールを零してしまった。いつもなら気にするのに今日に限っては、自分でも驚くくらいに瑣末に感じた。


 リビングの椅子にやっと座り、カレーを食べる前にポケットからiPhoneを取り出す。LINEを開いて晴香に返事を書こうした。だが、勢いで体が動いたのはそこまで。


 そこから先は思考が急激に鈍化して、画面をタップする事すら億劫だった。第一、何て書いていいのか分からない。


 謝罪のメールならこれまで仕事で散々書いてきた。


 まず冒頭に謝罪をして、原因や今後どうするべきかを順序立てて書いていく。

 そこからは向こう次第でこちらの動き方が変わる。電話に切り替えても良いし、直接出向くのでもいい。


 それは全部仕事のやり方だ。


 晴香に対してはどれも正解とは思えない。

 彼女の言う通り、時間を置くのは正しいかも知れない。少なくとも向こうがそう判断してこちらが動けない時に帰ったのだから、すぐに連絡するのは違う気がする。


 既読を付けておくだけで、メッセージを見たという意思表示にはなる。


 今はこれが精一杯か。


 直人は小さく息を吐いてから、残った缶ビールにまた口を付けた。


 一杯目程の衝撃はないにしてもそれでも喉を通り過ぎるビールの旨味に感情が冷静になる。


 食べると言ったのだから、約束通り食べないとな。


 短く息を吐くと、直人はスプーンを手に取り、カレーを食べ始めた。


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