「第3章 変化していく世界」(3-3)
(3-3)
書店を出て、マンションへと向かう。
明日の朝食用の食パンは既に購入しているので、スーパーに行く用事はない。
交差点の赤信号で捕まった際、時間を確認すると、午後七時になっていた。
このペースなら間に合うだろう。思い返せば午後が始まった直後は頭を仕事モードに切り替えて集中していたが、定時が近付くにつれて徐々に弱まっていき何とか堪えた。今日が長時間残業確定の日だったら危なかった。
直人は自宅マンションまで帰ってきた。
エントランスを開けて、ポストを開けて郵便物を確認。
エレベーターに乗って、自分の部屋の階層へと上がる。
部屋のドアを開けて「ただいまー」と声を出す。今日は平日なので晴香はいない。当然、返ってくる声はなかった。電気を点けて朝で止まっていた部屋全体を再起動させる。
手洗い・うがいを済ませて、そのままシャワーを浴びて部屋着に着替えた。
半自動的に作業を終えた直人はiPhoneを取り、時間を確認する。午後七時五十分だった。ココまできたらもういいだろう。
直人はあゆみにLINEを送った。
【もう家に帰ってるので、少し早いけどいつでも大丈夫です】
それだけ送って取り敢えず水を飲む為に冷蔵庫を開けると、テーブルに置いていたiPhoneが着信した。
「おっと、」
もうきたのか。直人は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、iPhoneを手に取った。
『はい。もしもし』
『こんばんは、横溝さん。滝沢です。LINEありがとうございました。すいません。気を遣ってもらっちゃって』
『こんばんは。いやいや、俺も気になってたから』
数時間ぶりに聞くあゆみの声に安堵しつつ、正直な感想を述べる。
『そうですか、それでは早速本題を。昼間に話した発見なんですけど、』
『うん』
次のあゆみの言葉を待っていると、彼女が一拍置いてから声を出した。
『実は、姉のiPhoneから和倉 瑠奈さんの連絡先を見つけたので、コピーしました』
『えっ!?』
あゆみの衝撃の発言に直人は、今日一番驚いた声を出す。
和倉 瑠奈の連絡先を見つけた。
確かにさやかは直接連絡が取れるのだから連絡先を知っていて当然だ。
ただ、それをどうやってあゆみは入手したのだろうか。
『……もしかしてお姉さんのiPhoneを勝手に操作して連絡先のデータを手に入れたって事?』
直人がそう尋ねると、あゆみは『ちょっと違いますね』と言って経緯を説明し始めた。
『姉は機械にあまり強くなくて私がiPhoneをいつもバックアップ取ってるんです。その過程でiPhoneのパスコードを教えてもらっているので知れました』
『ああ。そういう事か』
あゆみの話を聞いて直人は納得がいった。同時に良かったとも安心する。彼女が姉のiPhoneを隠れて操作した姿を想像してしまったからだ。
もし今回の事であゆみ自ら成果を得る為に動いたという事なら、止めてほしかった。やっている事はあまり褒められたものではない。
直人がそう考え込んでいると、iPhoneの向こうから『横溝さん?』とあゆみの声が聞こえた。
『……ああ、ゴメン。ちょっと考え事をしてた』
『やっぱり良い方法じゃないですからね。横溝さんが戸惑うのも分かります。でも姉は忘望病の影響下にあるので和倉 瑠奈さんの連絡先の存在自体を分かっていませんよ』
『それは、そうだけど……、』
『それに姉からの繋がりが途絶えてしまった今、自分で動くしかなかったと思いますけど?』
あゆみが畳み掛けるように言葉を浴びせてくる。彼女の言い分は理解出来る。
正攻法では無理なら多少倫理から外れても強引に動くしかない。
『どうしますか? 横溝さんがいらないのなら、私はそれでも構いませんが』
『誰もいらないとは言っていないよ』
『だけど、いるとも言ってないじゃないですか』
まるで子供同士のやり取りだ。話しながら直人はそう思った。
既にあゆみがココまでしている以上、自分だけが拒否するのもおかしい。
全ての始まりの切っ掛けは自分にあるのだから。
直人は観念したように口から短い息を吐くと、『データを送って下さい』と答えた。
『分かりました。電話の後でお送りしますね』
『ありがとう。あとゴメンね、嫌な役回りをさせてしまって』
実行に移したあゆみに直人は礼と謝罪をした。
『いいんです。私が自分でやった事ですから。本当は姉から渡せたら一番良かったんですけど。本人があの状態ですから……』
『どうだろう。仮にお姉さんが今も記憶が健在だったとして、そんな素直に連絡先を渡してくれるかどうか……』
さやかが和倉 瑠奈本人に聞いてみてそこでダメだとなったら、当然連絡先は手に入らないし、それどころかこちらが忘れるのを見越してもう一切話をしない可能性すらある。
想像の域を出ないが、どうしても否定的な事ばかり考えてしまう。
『この間会った時から思ってましたけど、横溝さんってちょっとネガティブですよね』
『えっ、そうかな?』
『なんか上手くいかなかったパターンばかり考えている気がします』
『そう言われると確かにそうかも』
おそらくそれは、日々の仕事のせいだろう。基本的に納期通りに進まない事を想定して、リカバリーを常に考えている。その方が動きやすい。
少なくとも学生の頃は、そこまでじゃなかった。
歳を重ねて慎重になったと言えば、聞こえはいいが、単に臆病になっただけとも言える。
『私が言うのもおかしな話かも知れないですけど、成功イメージで動いた方が良いと思いますよ。勿論、後先考えず動くのが良いって言ってる訳ではないですが』
『ありがとう。そうだよね、分かってるんだけど、どうしてもね』
こちらに気遣って言ってくれているあゆみに直人は礼を言った。
『では、私の話はこれで終わりです。後で連絡先のデータをお送りします』
『ありがとう。ただ悪いけど、すぐに瑠奈さんに連絡出来るかどうかは分からない。貰ってからしばらく考えてみるよ』
すぐに連絡すると相手に混乱させるだろうし。自分にも忘望病の影響が出てしまうかも知れない。そうなったらせっかく連絡先を手に入れても意味がない。
そう直人が伝えると、あゆみが『それが良いと思います』と同意してくれた。彼女の同意が得られた事に安堵して、また礼を言いつつ彼は電話をそこで切った。




