「第3章 変化していく世界」(3-2)
(3-2)
キンコーンカンコーン。
終業ベルがフロアに鳴り響き、今日の仕事の終了を知らせる。配送手配などでバタバタとした雰囲気の中で終礼が始まる。
色々と連絡事項を伝えてから、最後に風邪が流行っている事と今日はノー残業デーなので早く帰る事などを全員に伝えて、仕事が終了となった。
直人はいつもの三人の席へと向かい、仕事の進捗具合を確認する。基本的に残業をしない三人にはノー残業デーは関係ない。
にもかかわらずフロア内の空気に当てられて早く帰りたそうな顔をしていた。
そんな思いを受け取って、簡単な説明に留めて三人を解放する直人。彼の「お疲れ様でした」という言葉を受けて、すぐにパソコンをシャットダウンして、三人は帰り支度を始める。その勢いは凄まじくそんなにココにいたくないのかと邪推してしまう程だ。
三人がフロアからいなくなって、直人は自分のデスクまで戻ってきた。スリープ状態だったパソコンを起動してOutlookをチェックする。
特に重要なメールは届いていなかった。
付き合いが長い取引相手は、ウチの会社が今日がノー残業デーなのを把握しており、定時を過ぎてからメールを送ってこない。
逆にメールを送ってくる場合は、緊急性が非常に高い。
一ヶ月に一回ぐらいはそんなメールが来るので、いつも直人は緊張しながら受信メールを確認しているのだが、どうやら今日は無事のようだ。
「お疲れ様〜」
安堵する直人の後ろを鳥羽係長が通っていく。後ろを通る他の社員が皆、口々に「お疲れ様です」と挨拶を返した。
隣の麻野が「ん〜」っと唸って、大きく伸びをした。そしてデスクに置いた缶コーヒーを飲んでいた。その飲み方は一気に飲み干すような飲み方ではなかった。
「麻野さんって今日、残る感じですか?」
直人が尋ねると、眉間に皺を寄せた。
「そー。本当は早く帰りたいんだけどなぁ。向こうからの指示書がまだ来ねえんだよ。午前中に修正依頼お願いした時は、すぐに送り直すとか言ってたクセに。何でこんなにかかってるんだか」
「それって大丈夫ですか? 向こうに催促とか……」
先輩に失礼だとは承知しつつも直人は聞かずにはいられなかった。彼が尋ねると、麻野は「大丈夫大丈夫」と手を振った。
「そんな特急案件じゃないから。ただ、俺が今日中に見ておかないと気持ち悪いだけ。俺の抱えてる派遣さん達はもう帰らせたし。メール届くまでは暇だから他の作業で時間を潰してる感じ」
「そうですか。それなら良かったです」
「おう。ありがとう。横溝君の方はどう? 帰れそう?」
「はい。後は、今日の分の図面のチェックさえ終われば帰れます」
先程、三人から預かった図面を軽くチェックしておきたい。麻野が言っている気持ち悪いと同じ感情だった。
「あー。あの三人のなー。それなら良かった。この間の鳥羽係長の安請け合いみたいな事にならなくて」
「あははっ。あれは確かに面倒でしたね。一応、あの時に野口さんには強めに言ったので、あれ以降は今のところないですけど」
「横溝君は少し優しすぎるところがあるからな。言うべき時はガツンと言わないとダメだぞ。向こうにいいように利用されて終わるからな」
麻野に言われて、直人はゆっくりと頷いて同意した。
「はい。あの件でそれは痛感しましたよ」
「なら良し。作業の邪魔してゴメン。iQOS吸ってくるわ」
麻野は立ち上がり、直人の肩を軽く叩いてから喫煙所の方へと消えていった。本当はもっと早く吸いたかったのだろう。だが終業直後のフロアの空気では、中々席を外せなかったに違いない。ちょっとした雑談で少しでも彼の気が紛れたのなら良いが。
「さて、」
麻野もいなくなってフロアにはまだ数人の社員の姿が残っていた。終業直後なので、このレベルなら残業には入らない。
直人は本日最後の仕事を始めたのだった。
「――お疲れ様です。お先失礼します」
それから三十分程、時間をかけてチェックを終えると帰り支度を終えて、残っている社員に向かって、そう挨拶をした。
麻野を一瞥すると、頼んでいた指示書のメールがようやく届いたようで、他の図面と見比べて作業に集中していた。しかしそんな状態でもちゃんと「お疲れ〜」と返してくれた。
フロアを出て、エレベーターを待つ。待っている間に誰かフロアから出てきたら面倒だなと思っていたが、幸いにも誰も出てこなかったので到着したエレベーターへ逃げるように乗り込んだ。
「ふぅ〜」
エレベーターのドアが閉まったところでようやく一息付いた。
直人はポケットからiPhoneを取り出す。
時刻は午後六時半を過ぎた頃。今から最寄り駅近くで適当にご飯を食べて帰ったら、あゆみとの約束の時間には充分間に合う。
直人を乗せたエレベーターは一階に到着して、数時間ぶりに外に出た。
昼休みぶりの外だ。フロアの窓から夕焼けも夜も見ているが、こうして外の空気を肌で感じると、やっと仕事が終わった事を実感する。
直人は夏の夜特有の生温かい風を感じながら、地下鉄の駅まで歩いた。
改札を通って、ホームまで到着する。
丁度、地下鉄が到着したところだったので、開いたドアに吸い込まれるようにして、乗り込んだ。
帰宅ラッシュと被ってしまったらしく、車内はそこそこの乗客で溢れていた。直人はドア付近のスペースを確保して背中を預けた。途中の新宿駅で大勢の乗客が降りるだろう。そこで車内が空くが、そこまで来ると大手町駅まであと少しなので、このまま立っている方が楽だ。
最後まで大人しく立っている事にした直人はiPhoneを取り出して、適当に時間を潰した。あゆみに仕事が終わった旨を伝えようかと一瞬考えた。
だが、わざわざそこまでする必要がないと、すぐにその考えを否定する。
約束はしているのだから、時間にさえ間に合えばそれで済む。
もし万が一にも間に合わない時があったら、その時は伝えたらいい。そう決めて、直人は口から短く息を吐いた。
大手町駅で乗り換えて最寄り駅まで戻ってきた直人は、目に付いた牛丼屋に入って手早く夕食を済ませると、駅前の書店へ入った。
そこで十分程店内を適当に物色して特に何も買う物がないと、彼は店を出た。




