「第3章 変化していく世界」(2-1)
(2-1)
食後、直人は仕事で疲れているからと家に泊まろうとしていた晴香の申し出を断った。念の為にスーツで出掛けたのは本当に良かった。仮に私服だった場合、彼女に説明するのが大変だった事だろう。
個室居酒屋は初めて行く店だったが、事前に調べた通り雰囲気が良かった。自分がサプライズされたと思っている晴香はとても喜んでくれたが、その笑顔が嬉しい半面、申し訳ない気持ちだった。
その申し訳なさから逃げようと普段より高い酒と料理を注文する。
勿論、会計は直人が全額支払った。
晴香とは最寄り駅で別れて、直人はマンションまでの道のりを一人で歩く。今日は久しぶりに濃い一日だった。下手をすれば数日分の仕事に匹敵するだろう。
コンビニに入り、缶ビール数本・つまみ用のサラミ。それと明日の朝食用にあんパンを購入した。いつもなら、泊まりに来てくれた晴香が朝食を作ってくれるけど、今日はそういう訳にはいかない。
コンビニのビニール袋を持って、直人はやっとマンションまで帰ってきた。鍵を取り出して、エントランスを開けてエレベーターを呼んでいる間にポストを確認する。ダイレクトメール何通か取りそのままビニール袋に放り込んで、降りてきたエレベーターに乗り自分の部屋まで上がる。
部屋の鍵を回して、中に入った。
「ただいま、」
誰もいない部屋に向かって、帰ってきたと挨拶を告げる。
出発した時の空気感がまだ部屋には残っていた。あの時の意気込みが今となっては、もはや懐かしいまである。
直人は手洗いうがいを済ませて、購入した物を冷蔵庫へ入れておく。部屋のエアコンを入れてから、服を脱ぎシャワーを浴びる。
夏の暑さが全身に貼り付いて、気持ち悪い。服を脱いでも不快感は消えない。熱いシャワーを頭から浴びて、全身の疲れを洗い落としていく。同時に夕食時に飲んだ酒の酔いも飛んだ気がした。
シャワーを浴びて、部屋着に着替えてようやく帰ってきたといえる状態になった。
直人は、冷蔵庫から缶ビールを取り出して、プルタブを開ける。カシュと炭酸の弾ける音を聞いてから、口を付ける。喉を通る冷えたビールの苦味が疲れた体に染みてとても美味しかった。
「ふぅ〜!」
缶ビールを口から離して、直人は息を吐いて味の余韻を楽しんだ。風呂上がりに一人で飲むビールが一番美味しい。勿論、今日晴香と行った個室居酒屋のお酒も充分美味しかったが、どうしてだかこちらの方が美味しいと感じてしまう。
一気に半分近く飲んでしまった缶ビールを持って、直人はデスクへと向かった。MacBookの電源を付ける。晴香との食事中もずっとあのwikiが気になっていた。多少、酒を飲んでいても見たい気持ちは抑えられない。
起動したMacBookからブラウザソフトを起動して、ブックマークからwikiのページにアクセスする。iPhoneで見ていた時よりも大きな画面で見る事が出来た。ホームページのレイアウトも違っていて、やはりパソコンからの方がとても見やすい。
とにかくページが膨大だった。それはこの病気に対して闘っている人々の心の結晶なのだと感じだ。
缶ビールを口にしながら、トラックパッドを操作してwikiを閲覧していく。iPhoneで見ていたページも加えて、納得のいくまで見ていた。
「あ、空になった」
途中で缶ビールが軽くなった事に気付いて、小さく声を漏らす。次を取りに行くか迷いつつ、ページをスクロールしていくと、忘望病罹患者達が書き込む掲示板を見つけた。
当事者ではない自分が入ってもいいのかとも躊躇したが、病気の情報を知りたい方なら誰でも閲覧OKと書かれていたので、自分も該当すると考えてアクセスした。
そこには人々から忘れられてしまうこの病気について、どれだけ恐怖であるか、とても鮮明に書かれている。
ある日、突然自分の周囲が自分の事を忘れてしまった。
愛する妻も子供も自分を認識出来ず、一緒に暮らす事が出来なくなった。
長年、頑張ってきた仕事を続ける事が出来なくなった。
無機質なテキストから書いた本人の感情がダイレクトに伝わってくる。
【世界に一人ぼっちになってしまった私は、生きていてもいいのでしょうか?】
そう書かれたテキストは読んでいて、直人の目に焼き付いてしまった。
体のどこかが悪い訳じゃない。認知機能だってしっかりしている。
だからこそ、そう書いてしまう本人の心境は計り知れない。
例えば、直人がこの書き込みにそんな事はない。と返事を書くのは簡単だけど、そんなものはただの自己満足で、苦しんでいる本人を直接救う事は出来ない。
何も書けない直人の頭に浮かんだのは、和倉 瑠奈だった。
彼女もこの書き込みの人と同様に苦しんでいるに違いない。夢の中では常に笑顔でグリーンドアで話をしていた。
進行具合の差があるとは言ってもさやかが覚えているという事は瑠奈にとって救いなのだ。それをさやか本人が理解しているからこそ、彼女は知っているかと尋ねられても嘘をついた。
直人は空になった缶ビールを持って立ち上がり、冷蔵庫へと向かう。
二本目の缶ビールとサラミを持って、デスクに戻った。
戻る際に窓の外に映る東京の夜景にどこかで苦しんでいるはずの瑠奈の事を重ねた。何が原因かは不明だが、自分は彼女の事を思い出した。それは奇跡に近い偶然かも知れない。だが、そんな奇跡だとしても本人に伝えたかった。
きっと思い出した事を伝えるだけでも喜んでくれるはずだ。
苦しかった顔が笑顔に変わる。それを考えれば尚更、直人は和倉 瑠奈に会いたいという気持ちが強くなった。




