「第3章 変化していく世界」(1-1)
(1-1)
「えっ?」
あゆみの発言に直人は息を呑む。彼女はその手にiPhoneを持ったままだった。二人のテーブルに置かれたカップはとっくに空になっている。
「忘れたって今日の事を? それとも……、」
その言葉の続きを直人は最後まで言えなかった。あゆみは首を振った。
「忘れているのは、和倉 瑠奈さんの事です。なので今日、私が東京にいる事も連鎖的に忘れていると思います」
事態は考えうる最悪のケースになっていた。
それでも希望が残っている事を信じて「で、でも……」と口を開く。
「忘れたって、一時的なものじゃないのか。ほら、さっきもすぐに思い出したって言ってじゃないか」
「現時点では分かりませんが、電話で話した感じではこの間と違いました。存在は認知はしていて名前を思い出せないのでなく、まるで最初からそんな人はいなかったような話し方でした」
直人の励ましも虚しく、あゆみは力なくそう返してきた。
限られた情報下でそれでも動けるだけ動いて、直人は夢に出てきた彼女を追いかけた。
その成果が和倉 瑠奈という名前を知った事だ。
その代償も大きかった。忘望病という病気もあゆみから聞いた直後は疑ってしまったが、その恐ろしさを目の当たりにしてしまった。
ただ一つ、ハッキリしている事がある。
自分と会わなかったら、滝沢 さやかは和倉 瑠奈を忘れなかったという事だ。
どうしたって変わらないその唯一の事実は、直人に重力となってのしかかる。
結局、これ以上はいくら話しても意味がないという事で今日は解散になった。
お互いに注文した空のカップを返却口に返す。空になったカップにカフェ・ラテが層になっていた。
腕時計を見ると、意外にもまだ一時間程しか経過していなかった。疲労度は確実にその倍以上あるので、時間経過のズレに酔ったような感覚に陥った。
「んっ? どうかされましたか?」
「いや、何でもないよ」
店先でそのまま考え込んでしまい、隣にいるあゆみに心配された。すぐに作り笑顔を作って対応する。社会人特有の誤魔化しに自分でやってて嫌になる。
「そうですか。それなら……」
「それよりさ、帰りって大丈夫?」
「大丈夫とは?」
唐突に話題を変えた直人にあゆみは疑問を返す。
「帰りの交通費だよ。お姉さんの記憶の問題で当初の予定とは違ってくるんじゃない? もしないなら――」
自分が出すけど、そう言いかけたところであゆみが手を前に出した。
「お気遣いありがとうございます。ご心配に及びません。姉から前払いで貰っているので、往復分のお金はちゃんとあります」
「それは良かった」
「ええ。帰る分には問題はありません……」
帰る分には問題ない。
あゆみの言った言葉が直人には引っ掛かった。帰っても姉に報告をする事がない。本来なら今日の結果を報告していたはずだ。
自分の代わりとして妹をこちらに寄越してきたさやかからの信頼が厚いのは、伝わってくる。
元々あゆみは今回の件に巻き込まれているに過ぎない。
勿論、さやかも心配だが、目の前にいる彼女も心配だ。出来る事なら同じように助けになってあげたい。
直人はポケットからiPhoneを取り出した。
「もし良かったら、連絡先を交換しないか?」
「えっ? 私ですか?」
まさか自分の連絡先を聞かれると思わなかったのだろう。あゆみは驚いた表情を見せた。それに直人は優しく頷く。
「これも何かの縁だし。それに忘望病の件でお姉さんに迷惑をかけたのは責任を感じてるんだ。だけど瑠奈さんの事を忘れているのなら、下手にこちらから連絡をする訳にもいかないだろう。だから、さ」
情報交換という名目で連絡先の交換を持ちかける直人。彼の言葉を聞いて、しばらく考えたあゆみは、ややあって頷いた。
「はい。私も何かあった時に伝えられる人がいるのは心強いです」
「ありがとう」
了承してくれたあゆみに感謝して、二人は連絡先を交換した。
直人はiPhoneにLINEの連絡先に彼女の名前が登録された事を確認する。自分のLINEにこんなに若い人が登録されたのは初めてだった。




