「第1章 遠い夢からの声」(2-1)
(2-1)
マンションを出た直人は、駅まで歩いて地下鉄に乗る。
平日は毎日、同じ時間の同じホーム。そして同じ列に並んでいる。
きっと自分以外にも同じような人間はいて毎日見ているはずだが、何故だか彼らの顔は覚えられない。
並んでいる人間は大抵サラリーマンか学生で夏のせいか皆、額に汗を浮かべて陰鬱な顔をしている。直射日光のない地下鉄のホーム、それがせめてもの救いなのだが、結局はトンネルの向こうから吹かれる生暖かい風のせいで、非常に蒸し暑く不快感は変わらない。
直人は乗車の待機列に並ぶとスーツのポケットからiPhoneを取り出した。
つい数分前までいた部屋のクーラーが早くも恋しい。iPhoneが若干の冷たさを維持していた事で余計に感じてしまう。
直人は地下鉄を待っている時間、適当にiPhoneを弄って時間を過ごす。並んでいる連中の中には、読書をしていたりiPhoneを横にしてゲームをしている人間もいるが、そのどちらも直人はする気が起きなかった。
意味もなくTwitterのトレンドを追ったり、ニュースサイトを見ている。政治や事件、おおよそ自分の日常とは遠く離れた世界の出来事。
唯一の共通点と言えば、同じ日本国内での出来事という事ぐらいだろうか。
しばらくして定刻通りに地下鉄が到着したので、待機列に従って地下鉄へと乗り込む。相変わらずこの時間の乗車率が多く、乗っているだけで直人からエネルギーを消耗させていく。
乗っている間も限られたスペースでiPhoneをいじり続ける。
画面に表示されるのは、常に最新の情報だ。
会った事もない芸能人の恋愛、知らない土地の殺人事件。
票を入れたところで何も変わらない政治家の失言。
関係のない世界のニュースを適当に脳に流して、電車が目的の駅まで到着するのを耐えるようにして待つ。職場の先輩はこの時間にビジネス本のオーディオブックを聴いていると言っていた。本人曰く、満員電車で本を開く必要がなく、良い勉強になるらしい。
直人にはとても真似出来そうにない。まだ覚醒していない脳の状態でそんな事をしても絶対に定着しないだろう。
そもそも働くギリギリまで力は温存しておきたい。先輩とは根本的な思考回路が違っている。その証拠に先輩は直人が入社して最初の教育係だったが、僅か二年で転職してしまった。一応、LINEは今も繋がっているが会社が違う為、連絡する内容もなく友だちリストの肥やしとなっている。
直人を乗せた電車は会社の最寄り駅に到着した。
乗り換え駅でもないので、降りる人間はそんなに多くない。ドア付近に待機していた彼は、開いたドアから滑り落ちるようにして楽にホームへと降りた。
ココからもう気を引き締めないといけない。降りる人間が少ないという事は、会社の人間と遭遇する可能性が高いという事。
皆、良い大人なので朝から無駄に話し掛けてくる事はない。
それでも万が一の事を考えて、不自然ではない程度に視線を下げて、改札へと繋がる上りエスカレーターに乗った。流されるまま改札を通り、地上に出る。
数分ぶりに東京のコンクリートを照らす夏の太陽に眉を顰めつつ、直人は会社へと足を進める。
最寄り駅から会社へは歩いて数分。これが一見すると便利なのだが、残業時間の制限の緩さに繋がってしまう。結局、得するのは社員ではなく会社、そこを見極めないといけない。
それも転職した先輩から教わった事だ。
会社が入っているビルまでやってきた直人は、エレベーターに乗り会社がある階層のボタンを押す。
狭いエレベーター内で何人か会社の人間と一緒になった。彼らは、カバンに入れていた社員証を首に掛け始めた。それに倣って彼も首に掛ける。重さなんてないに等しいのに謎の重みを感じてしまう。
会社に到着した直人は、IDにもなっている社員証をかざしてフロアに入る。
自宅マンションぶりに体に当たるクーラーの風は、それまで全身で浴びていた熱気を浄化してくれた。
自分のデスクまで歩いて、デスクトップパソコンの電源を点ける。
「おはようございます」
その際に挨拶をする。特定の誰かにするのではなく、周囲にする挨拶だった。
「おはよう、」
「おはようございまーす」
直人の声が届いた何人から、挨拶が返ってくる。夏の始業前、やはり皆のテンションは低い。高くなるのは仕事が始まってからだ。
その時、「おはようございまーす!」と比較的テンションの高い声が聞こえた。声の主は直人の隣に座ると、パソコンの電源を点ける。
一階にあるコンビニで購入したと思われるアイスコーヒーを手にしており、プラスティックのカップには冷たそうな水滴が沢山付いていた。
「横溝君、おはよう。今日もクソ暑いなー」
「おはようございます、麻野さん。暑いですよねー。最寄り駅から会社まで歩くだけで汗かきましたよ」
「分かるわぁ。俺もそのせいで、またコーヒー買っちゃった」
「最近いつも買ってません?」
「この時期、朝のコンビニに入っちゃうとダメだなぁ。レジの横にあるからつい、買っちまう。上手い事出来てるよな。まんまと踊らされてる」
「あはは、」
止められない後悔をする麻野に直人は、笑って返した。
麻野は、直人よりも半年早く中途採用で入社した先輩社員だ。年度的には同期だが入社当初、そうと知らずに敬語で話してしまい、向こうはタメ口で構わないと言ってくれたが、それが抜けず現在もこうなっている。
別に弊害はないので、直人自身も特別直そうとは考えていない。
敬語と言っても上司と話すような完全な敬語ではなく、部活の先輩と話すような緩い感じの敬語なのも肩の力が抜けて良かった。
「今日は午後の部内会議が面倒だよなぁ。あとは、月末だからパートナー企業宛のExcelの進捗表も作らないといけないし」
「今日は残業を覚悟してますよ」
直人の務める会社は主にネットワーク工事関係の下請け会社だ。
パートナー企業からの依頼を受けて、工事設計図の作製から工事発注用の占用申請を市役所などに提出。更に大規模工事等の会議に参加したり柔軟性が高く、頼まれた事は何でもやっている。
基本的にはパートナー企業からの依頼で進むが、営業部も頑張っており、独自に進めている案件だって存在する。
月末になると、進捗や問題点を報告し合う会議や、各々のチーム毎にパートナー企業宛の進捗資料を作成する。その資料作成や会議で今日はどうしても遅くなってしまう。
「ま、午前中は何とか乗り切ろうぜ」
「そうですね」
麻野に対してそう答えていると、二人の後ろから「おはよう」と声が聞こえた。振り返ると、そこには鳥羽係長がいた。
「「おはようございます」」
直人と麻野は二人して、鳥羽係長に挨拶を返す。他の者も彼が席に向かう途中で「おはようございます」と挨拶をしていた。
鳥羽係長は黒縁眼鏡を掛けて、髪を短く切り揃えた温和なタイプの係長。
常時、怒号が聞こえる一つ隣のグループの長沢係長とは大違いで、最初の配属の時に自分は鳥羽のグループに所属出来て良かったと安堵している。
事実、長沢グループに配属された同期は既に退職済みでもういない。
ぼちぼちとフロアに人が増えてきた頃、始業を始めるチャイムが鳴り響く。
全員が一旦、手を止めて朝礼の為に立ち上がった。
そこで簡単な連絡事項が報告される。内容は昨日と大きく変わらない。暑いから小まめな水分補給を大事にとか、残業申請を忘れないようにとか、その程度。
唯一、違うのは午後に部内会議がある連絡ぐらい。
連絡報告を終えてそれぞれが動き始める。
今日の仕事が始まった。




